平野国臣・古高俊太郎ら斬殺事件をあるいた
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2013年5月26日(日)はれ
木戸孝允の祥月命日だな。
中村武生のマニア講座A班。今回は元治甲子戦争(禁門の変)その7。戦争のさなかにおきた、六角牢屋敷での平野国臣や丹羽正雄(出雲守)・古高俊太郎・水郡善之祐・乾十郎ら30数名斬殺事件をあるいた。
コースは以下。阪急四条大宮駅集合→六角牢屋敷跡→市五郎稲荷神社(御土居堀残存地)→西刑場跡(埋葬地)→竹林寺(平野・丹羽ら10数名改葬の地)。
平野・古高・水郡ら遺体移送の道と想像される三条通を西へ。首は付いていたかが話題になるが、明石博高の回想録によれば、改葬のとき頭骨の破片が大小12、顎骨上下7見つかっているので、あったわけだ(拙著『池田屋事件の研究』、講談社、2011年、382ページ参照ください)。
竹林寺にようやく上記拙著をお納めできた。あわせて参加者Mさんが古高の卒塔婆供養をお願いされていた。
被斬殺者は現段階では33名が妥当。37名はおそらく誤解。とりあえず33名説に含まれず、37名説に名のある片山九市(木村愛之助。但馬生野の乱関係者)の死亡は慶応元年閏五月(1865年)以後なので、甲子戦争(1864年)のさなかに殺されてはおらず、事実ではない(巣内信善の獄中手記による。『生野義挙とその同志』499ページ)。
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