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2013.03.02

名古屋で「八重の桜」3週分の事実を述べた

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 栄中日文化センター「新選組講座」に出講。

 まずは、先月と明日のNHK大河ドラマ「八重の桜」へのコメント(容保上洛、初参内、足利氏木像梟首事件、容保への6月「宸翰」問題、天覧馬揃、西郷頼母の蟄居、八月十八日政変など)。

 史料による事実を述べる。これだけで終わったらどうしようと不安だったが、予定どおり慶応2年上半期(1866年)の新選組論をした。

 当然、幕末政治史のなかの新選組を考える。

 世の中は長州戦争中。新選組は出兵できず。代わりに山崎丞(進)・吉村貫一郎が戦場ちかくに滞在し、戦況を京都へ報告する。

 薩摩(西郷吉之助ら)も土方歳三も、この時期、京畿で合戦が起きると見込んでいた。

 新選組を含む会津が出兵しなかったのは当然かもしれない。

 幕末政治史のなかで語るとき、この時期の大石造酒蔵(一橋家臣、鍬次郎弟)、河合耆三郎、谷三十郎の死がいかなるものだったかは悪いけどどうでも良いことになっちゃう。

 ただし新選組全体理解のためにはこの件のこだわりはとても大事なこと。だからふれた。

 本日も有意義でした。ありがとうございました。また中日ビルで 野口実先生(中世史)にばったり。癒されました。

 前半は全く大河ドラマ「八重の桜」への論評でした。

 とりわけ、文久3年6月(1863)の容保への宸翰の存在は実証できず、フィクションの可能性大の発言は衝撃だったことでしょう(『孝明天皇紀』第4、724-725ページ)。

 あと、あの壬生浪士の動き・評価は時期違い(少なくとも八月十八日政変以後。いや池田屋事件・甲子戦争以後かな)、西郷頼母は当時在京家老じゃないの(あれだけのことをしておいて諫死しない不思議)、「偽勅」は適切か(何はともあれ、天子統仁は攘夷親征も大和行幸も許可したでしょ)、馬揃は会津だけでなく、鳥取池田、岡山池田、徳島蜂須賀、米沢上杉も参加したでしょ(天気も雨ではなく晴れですよね)とか、論じた。(※この馬揃は、8月5日の件。7月30日実施のものは、会津オンリーで天気も雨でした。誤解ありませんように。)

 司馬遼太郎『王城の護衛者』の描写が多く想起された。脚本はそうとうこれに影響されていると思われた。いうまでもない、司馬は作家である。事実ばかりを書いてはいない。いやおそらく読者の想像をこえてフィクションが入っている(「朕は会津をもっとも頼みにしている」云々は、出所定かでない「宸翰」にも記載がないことをご存じか。完全な司馬の創作)。

 そうそう町田明広博士の成果をうけて、天子統仁(孝明天皇)は会津より中川宮と島津久光を大事に思っていた、万一のとき宮と薩摩が倒れることをおそれて政変では彼らをはずし、会津と鳥取池田を使おうとしたと話した。大河的には最悪の事実だろう(町田明広『島津久光=幕末政治の焦点』、講談社選書メチエ、2009年、191ページ)。

 松平容保と会津はもっと微細な研究が必要と結論づけた。

 懇親会でも盛り上がる。真木和泉の「倒幕」論とはいかなるものかについて問われたが、もう少し整理させてと即答をさけた。

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