福原京域をあるいた
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2012年5月24日(木)、京都新聞文化センターの巡検で、山田邦和博士案の福原京域(兵庫県神戸市)をあるいた(同博士『日本中世の首都と王権都市-京都・嵯峨・福原』、文理閣、2012年3月)。
神戸大学医学部付属病院敷地で見つかった二重堀により、飛躍的に福原京復元研究は進んだ。
堀は保存運動が展開され、破壊を免れている。地表面に遺構を露出させているとは思っていなかったが、やはりその地に立ってみましょうということで、行ってみた。
するとちゃんとカラーの写真・地図入り解説板が立っていて感心した。
下はその場所。駐車場の地下に眠っているそうだ。
安徳天皇の「新造内裏」第1案や、平頼盛亭跡とされる荒田八幡社、後白河三条殿跡などとされる祇園遺跡、祇園社、清盛邸跡、雪御所跡(平重衡亭跡)など3時間歩いたが、まち全体で同京跡であることを顕彰しようとしていた感じをうけた。
前日、よみうり文化センター京都教室の巡検で歩いた長岡京域も同様の思い(どちらかというと自治体=向日市主導だが)をもった。これにくらべて京都市は・・。六波羅殿跡、西八条殿の発掘成果や地表面表示があきれるほど少ない。
写真は「雪見御所旧跡」碑(湊山小学校敷地北側、道路に面して)。
なお祇園社、2年前、同じく京都新聞文化センターの龍馬巡検でも来たことを思い出した。勝海舟の支援者のひとり生島四郎寄進の燈篭と、至近にそのの邸宅もあったから。
奇遇にたいへん驚く。
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