龍馬が最後に会ったひとり板倉筑前介の店の引札
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4月7日(土)
洛東、五条伏見街道下ル本町一丁目の薬屋の引札が手に入った。
「保命丸/小児おけや薬/本店京都伏見街道五条下ル本町壹町目下ル/小児諸病一切吉/武田定次製」
とある。
これだけで幕末史にかかる人物の店舖とわかるのは難しいかも。
これは板倉筑前介(淡海槐堂)の商店である。
板倉筑前介は坂本龍馬に「梅椿図」を描いて贈った人です。
慶応3年11月15日(1867)、それがかけられた部屋で龍馬は遭難し、「梅椿図」には血が飛び散り、「血染めの掛け軸」と呼ばれています(京都国立博物館蔵)。
板倉筑前介は遭難直前の近江屋を訪ねたそうで(「淡海槐堂先生畧伝」)、「梅椿図」もその際贈られたとする方もあります。
元治元年6月5日(1864)、池田屋事件のおりは、土佐山内家臣野老山吾吉・藤崎八郎が救いを求めて、この板倉筑前介邸を訪ねました。
詳しくは拙著『池田屋事件の研究』(講談社現代新書、2011年、89頁,270-274頁,278-282頁)をご覧ください。
さてその引札。見つけて感激した。こだわるとやってきますね。
これを入手して、これまで気にならなかったことに気づいた。
板倉筑前介は、近江国下坂(現長浜市)を出て、伏見街道五条の薬商武田氏を継いだ。その後、醍醐家に仕え、板倉姓を賜い筑前介に任じられた。維新後「板倉筑前介」を返却し淡海槐堂を名乗る(「淡海槐堂先生畧伝」)。
ではこの引札に名のある「武田定次」って誰であるか?
明治時代の「武田定次」はともかく、幕末期「板倉筑前介」だったとき、薬商武田家はどうなっていたのだろう。
筑前介は板倉と武田を使いわけていたのだろうか。当然薬商を継続していたと思うのだが、しかし「武田」を名乗ったことも薬局を継続していたことを記す史料は皆無。いったいどういうことか。
実弟江馬天江がまとめた、板倉唯一の伝記「淡海槐堂先生畧伝」にもそういったことは一切記載がない。
悩んでみる。
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