問い合わせた「文武館」とは何か
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2012年4月20日(金)
「中村武生のくずし字入門」に出講。いつもの山田筑後守日記。本日は文久3年11月(1863年)。
初登場は内山勘五郎(椎木熊吉)、山田虎之助、田中平蔵、井上主禅、稲毛吉太郎(土州聞役)など。山田虎之助以外、まったく誰のことかわからない。
「文武館之事問合(傍朱記「尋」)有之由」が気になった(16日条)。
これは前年11月10日に、板倉筑前介(淡海槐堂)が、千屋菊次郎に対して土佐山内家の大仏陣屋に設置を望んだ「文武道場」と同一ではないか?
(淡海槐堂の死後、実弟江馬天江がまとめた「淡海槐堂先生畧伝」に「演武場」「並修館」とあるものか<西尾秋風『龍馬殉難ひろい話』、28ページ、私家版>)。
同日、千屋菊次郎が会ったメンバーのなかに山田筑後守がいるし(「再遊筆記」『維新日乗纂輯』2、272ページ)。
すなわち天誅組の集合地「方広寺道場」のことではないか?(文久3年8月14日<1863年>付、中山忠光回状、平尾道雄『天誅組烈士吉村虎太郎』、220ページ)。
ただし平尾のこの引用を僕はうたがっている。原文は「方広寺道場」ではなく、「大仏道場」だったのではないか。
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