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2012.04.29

「土佐勤王党」は同時代史料にない

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2012年4月23日(水)

 武市半平太グループを一般に「土佐勤王党」と称す。

 が、「土佐勤王党」と記した同時代史料は皆無だと思う。

 では当時組織名はなかったのかと悩んでいたら、寺村日記に「樋口新吉、平井周次郎来る―皆勤王組」(『寺村左膳道成日記』(二)、文久3年2月28日条、15ページ)とあった。

 「勤王組」かあ。これが固有呼称かわからないけど。

 ほかにも事例があればよいのだが、知らない。

 でもこの横田達雄編『寺村左膳道成日記』はそのまま使用してよいかうたがわしいところがある。

 文久3年5月27日条(1863年)の姉小路公知殺害のところで、「多分新撰組等之業なるへしと云説なり」とあるは、おかしい。

 壬生浪士に「新撰組」の名が下るのは、八月十八日政変以後(拙稿「新選組誕生秘話」『新選組を歩く』、新人物往来社、2003年、112-113ページ)。

 原典確認しないと使えない。「たぶん新選組などのしわざではないか」って、龍馬殺害のときの書きぶりに似ている。

(故横田達雄さんが信用できる研究者だと承知して述べております)。

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問い合わせた「文武館」とは何か

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2012年4月20日(金)

「中村武生のくずし字入門」に出講。いつもの山田筑後守日記。本日は文久3年11月(1863年)。

 初登場は内山勘五郎(椎木熊吉)、山田虎之助、田中平蔵、井上主禅、稲毛吉太郎(土州聞役)など。山田虎之助以外、まったく誰のことかわからない。

「文武館之事問合(傍朱記「尋」)有之由」が気になった(16日条)。

 これは前年11月10日に、板倉筑前介(淡海槐堂)が、千屋菊次郎に対して土佐山内家の大仏陣屋に設置を望んだ「文武道場」と同一ではないか?

(淡海槐堂の死後、実弟江馬天江がまとめた「淡海槐堂先生畧伝」に「演武場」「並修館」とあるものか<西尾秋風『龍馬殉難ひろい話』、28ページ、私家版>)。

 同日、千屋菊次郎が会ったメンバーのなかに山田筑後守がいるし(「再遊筆記」『維新日乗纂輯』2、272ページ)。

 すなわち天誅組の集合地「方広寺道場」のことではないか?(文久3年8月14日<1863年>付、中山忠光回状、平尾道雄『天誅組烈士吉村虎太郎』、220ページ)。

 ただし平尾のこの引用を僕はうたがっている。原文は「方広寺道場」ではなく、「大仏道場」だったのではないか。

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「逃げの小五郎」は本当か

 2012年4月17日(火)

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NHK文化センターの幕末講座に出講。

「逃げの小五郎」はほんとうか、というタイトル。

「逃げの小五郎」(司馬遼太郎の短編名『幕末』所収、文春文庫)って、危機に遭って逃げない人なんているのか。

 禁門の変に参戦し、生き残った長州人は全員逃げたわけだけど。

 そんなこといえば、高杉晋作はけっこう逃げている。なのに「逃げの晋作」とはいわれない。偏った評価だと理解されましょう。

 桂小五郎は刀を抜いたことがないみたいにいう人がいる。

 が、事実ではない。桂は禁門の変のさなか、仙洞御所付近で越前兵らしき者に「暴に白刃」で斬りつけらけれ、これに「応じ」ている(元治元年8月8日付大島友之允宛書翰、『木戸孝允文書』2、48頁)。

 つまり抜刀し、立ち向かったということだ。

 その結果、気づいたら「肩にかけ」ていた「絹」が「三寸ほど切り裂れ」ただけで「別に疵も受け」なかったが、「左足をくぢき一時難運(歩きがたく)」なったので「明(空)家に入、暫時保養致し」た。

 つまりそれはあるていどは交戦したこと、敵に負けなかったことを意味している。

「逃げの小五郎」というイメージはちがうなあ。

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2012.04.25

【巡検】御土居堀をあるく

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○御土居堀を考える市民講座・見学会

御土居堀をあるく

日時:2012年4月28日(土)午後1時

○集合:北野天満宮一の鳥居前

○行き先:同所から御土居堀跡を南下します

講師:中村武生(京都女子大学文学部非常勤講師)

受講料:11,000円(予約不要。集合場所でお支払いください)

※雨天中止

参考文献:中村武生『御土居堀ものがたり』(京都新聞出版センター、2005年)

主催:御土居堀研究会(中村武生歴史地理研究室内)

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2012.04.22

臨時休講のお知らせ

【ご連絡】

 本日、滋賀県地方が終日雨天予報のため、「中村武生とあるくマニア巡検A班」を休講といたします。

 ご予約いただいた方には直接メールをお送りいたしましたが、遺漏をおそれて掲示いたします。

 お間違えありませんように。 よろしくお願いいたします。

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2012.04.16

【巡検】中村武生とあるくマニアな幕末史蹟B班

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中村武生とあるくマニアな幕末史蹟B班―坂本龍馬と仲間・その2

のご案内

<予定>原則第2土曜日 ※集合時間は午後1時

5月19日() 第2回 天誅組挙兵・その1、堺から河内狭山を目指す

<集合場所>南海本線「堺」駅 改札

6月16日() 第3回 七卿落ち・その2、竹田街道、伏見をへて乙訓へ

<集合場所>地下鉄烏丸線「竹田」駅 改札

※6月9日を変更しました。

7月14日() 第4回 元治元年6月(1864)、龍馬離京す―大仏から伏見街道

<集合場所>京阪電車「七条」駅 北改札(大阪方面行改札)

8月11日() 第5回 禁門の変を体感してみる―天王山から洛中へ

<集合場所>JR「山崎」駅 改札

9月日() 第6回 元治元年8月(1864)、龍馬、楢崎龍と内祝言を挙ぐ

―大仏から青蓮院・金蔵寺へ

<集合場所>京阪電車「七条」駅 北改札(大阪方面行改札)

※午後1時~3時ごろ(延長することがあります)

※参加費1回2千円

※定員20名、予約要(メールアドレスへご連絡ください)

※雨天順延

※無断欠席、および当日の欠席ご連絡のおりは、参加費全額頂戴する場合があります。お気を付けください。

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主催:中村武生歴史地理研究室

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2012.04.09

龍馬が最後に会ったひとり板倉筑前介の店の引札

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4月7日(土)

  洛東、五条伏見街道下ル本町一丁目の薬屋の引札が手に入った。

「保命丸/小児おけや薬/本店京都伏見街道五条下ル本町壹町目下ル/小児諸病一切吉/武田定次製」

とある。

 これだけで幕末史にかかる人物の店舖とわかるのは難しいかも。 

 これは板倉筑前介(淡海槐堂)の商店である。 

 板倉筑前介は坂本龍馬に「梅椿図」を描いて贈った人です。

 慶応3年11月15日(1867)、それがかけられた部屋で龍馬は遭難し、「梅椿図」には血が飛び散り、「血染めの掛け軸」と呼ばれています(京都国立博物館蔵)。

 板倉筑前介は遭難直前の近江屋を訪ねたそうで(「淡海槐堂先生畧伝」)、「梅椿図」もその際贈られたとする方もあります。

 元治元年6月5日(1864)、池田屋事件のおりは、土佐山内家臣野老山吾吉・藤崎八郎が救いを求めて、この板倉筑前介邸を訪ねました。

 詳しくは拙著『池田屋事件の研究』(講談社現代新書、2011年、89頁,270-274頁,278-282頁)をご覧ください。

 さてその引札。見つけて感激した。こだわるとやってきますね。

 これを入手して、これまで気にならなかったことに気づいた。

 板倉筑前介は、近江国下坂(現長浜市)を出て、伏見街道五条の薬商武田氏を継いだ。その後、醍醐家に仕え、板倉姓を賜い筑前介に任じられた。維新後「板倉筑前介」を返却し淡海槐堂を名乗る(「淡海槐堂先生畧伝」)。

 ではこの引札に名のある「武田定次」って誰であるか?

 明治時代の「武田定次」はともかく、幕末期「板倉筑前介」だったとき、薬商武田家はどうなっていたのだろう。

 筑前介は板倉と武田を使いわけていたのだろうか。当然薬商を継続していたと思うのだが、しかし「武田」を名乗ったことも薬局を継続していたことを記す史料は皆無。いったいどういうことか。

 実弟江馬天江がまとめた、板倉唯一の伝記「淡海槐堂先生畧伝」にもそういったことは一切記載がない。

 悩んでみる。

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2012.04.03

都名所図会、伏見をあるいた

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「都名所図会」をあるく<伏見編>終わる。本日は立売、伏見殿跡(伝承地)、開元寺跡(界隈)、「山ノ天神」=桃山天満宮跡、現龍雲寺、龍雲寺旧地、旧伏見桃山キャッスルランド、伏見城北堀跡の南を通って紅雪池(遠望、立ち入れない)。六地蔵村に出る。すでに帰宅済み。F林武さんの名調子がありました。

 伏見殿跡伝承地(伏見区桃山町泰長老)で、伏見宮家(および伏見殿)の歴史的意義を話した。その際、同家出身の後花園上皇(中世)を、閑院宮家出身(近世)の光格天皇と対比してみた。いずれも傍流からの践祚(のちその家が正統になる)。コンプレックスのかたまりみたいな僕ゆえの話。正しい評価かどうかはわからない。

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2012.04.01

上七軒大文字に仕込みさん来る

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  上七軒の茶屋「大文字」にあたらしい仕込みさんが来た。

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 果帆さんです。

 昨夜初登場で、その貴重な場にいさせていただきました(光栄)。

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