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2012.01.27

天誅組の乱と大仏宮家臣日記

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「中村武生のくずし字入門」に出講する。毎度変わらず、幕末大仏御殿(妙法院)家臣の日記を読む。文久3年9月25日(1863)条で、天誅組の乱から無事脱出した平岡鳩平(武夫、北畠治房)が初登場。
 北畠の1888年(明治21)4月の回想「北畠四位奉答書」と一致する点が多い。9月25日、京都に入り有栖川宮諸大夫前川茂行邸に入り、28日山田筑後方に移るとある(『野史台維新史料叢書』34、東京大学出版会、62頁)。
 当該日記は前川・粟津義風から書状があったことを記す(前述のようにその条に平岡が初登場)。27日に「武夫来訪」とある。1日のずれがあるが、回想録のことだからその程度は誤差の範囲といえる。この回想録、バカにできない(というより、「北畠四位奉答書」が使えるものと裏付けられそうな当該日記もすごい)。
 当該日記は樺太の日露国境のこと、蝦夷をねらうロシア情報、ロシア人の領土感、箱館の砲台設置の話などを簡潔にふれる。記主山田筑後守がロシアや北方防衛の情報も入手できる位置にあったことが知れておもしろい。

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