会津の池田屋事件戦死者の墓所を確認
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池田屋事件をかたるとき、主役は圧倒的に新選組にかたよるが、実は新選組も会津の一兵なので、「会津」主体で考えるべきである。
戦死者もそうである。
主に新選組(奥沢栄助だとか)や親長州浪士(宮部鼎蔵だとか)の話題ばかりで、会津や桑名、一橋、彦根など、元治元年6月5日(1864年)当夜出兵し、親長州浪士の追捕に参加した大名家臣の戦死者が正確につかめられていない。
新選組をふくむ会津犠牲者は、信用できる史料からおおよそのことがわかる。
近藤勇の事件3日後の書翰に、「会公ニ二人深手を請け候ものこれ有り候」とあり、2人重傷者があったとある。
これに対して、京都の会津屋敷から江戸に送られた報告書には具体的な名前がある。
「郡代同心五十嵐寅助・大柳俊八両人手疵負、寅助ハ深手ニ而即死。俊八ハ余分ニ滞有之間敷、残念至極之事ニ候」(『会津藩庁記録』4、692ページ)。
近藤が述べた重傷2人とは、五十嵐寅助と大柳俊八のことかと思える。
で、墓所を探そうと思った。
黒谷墓地には約250人の墓碑がある。そのどこにいるのか。そもそも本当にあるのか。そんなときインターネット上にありがたいものがあるのを知った。
「会津いん東京」というサイトである。http://www.geocities.jp/daitabou/index.htm
ここで検索すると、五十嵐寅助と大柳俊八の墓はともに黒谷墓地にあることがわかる。地図もついている。重ねてありがたい。
ただ五十嵐寅助には名前以外の情報がない。大柳俊八には慶応三年とある。元治元年からは3年もたっている。
そこで現地を確認に行った。
サイト「会津いん東京」が地図で示してくれた墓碑は、とても文字が読める状態になかった。なぜ「五十嵐寅助」とわかるのか、不思議だった。それぐらい文字の線がうすい。
大柳俊八は読めた。ただ没年が誤っていた。
(表面)功彦神霊
(裏面)会津 大柳俊八
(右面)慶応元丑天(カ)五月首六日
池田屋事件から11カ月後の死去であった。事件の傷によるものか、別の事情かこれではわからない。
五十嵐寅助の墓銘がなぜ読めないのか。刻まれた文字がもともとうすく、摩耗して読めないのだと思った。
突然ふっと思いついた。磨いてみよう。いつも路傍の石碑や道標を判読するとき用に歯ブラシをもちあるいている。
磨いてびっくり。文字が出てきた。読める。たんに苔むして汚れにより文字が埋まっていたのであった。「五十嵐」が読めた。まちがいない。しかも没年月日も刻まれていた。うれしい発見である。
(表面)会津 五十嵐寅助 元治元甲子年 六月六日
池田屋襲撃の翌日である。事件は深夜であるから事件のさなかに死んだといってよい。「即死」に矛盾はなかろう。近藤は6月8日の段階で死者についてはふれていない。五十嵐の死を知らなかったということか。
黒谷墓地には25年も前から何度も何度も来ている。池田屋事件にこだわり、三縁寺、壬生塚、霊明舎旧境内など親長州浪士、新選組とわけへだてなく墓参は欠かさなかったつもりだった。
会津の池田屋事件戦死者の墓参が本日まで遅れた。事件の本質にながく近づけなかったからだ。自身の不明を恥じる。
ちなみに桑名、一橋、彦根などはこれからである。
2011年9月7日のこと。
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