除幕なった聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地標石
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帰ってきた「朝あるき」の会
「都名所図会」をあるく―山科・醍醐<宇治郡>編
第1回 毘沙門堂とその周辺
本年10月3日(月)午前10時、JR「山科」駅改札
第2回 安祥寺とその周辺
本年10月10日(祝・月)午前10時、JR「山科」駅改札
第3回 十禅寺とその周辺
本年10月17日(祝・月)午前10時、JR「山科」駅改札
第4回 奴茶屋とその周辺-旧三条街道山科宿跡
本年10月24日(月)午前10時、午前10時、JR「山科」駅改札
第5回 天智天皇陵とその周辺
本年10月31日(月)午前10時、地下鉄東西線「御陵」駅改札
○同行:中村武生(歴史地理史学者)
○毎回おおよそ12時まで(約2時間)。
○小雨決行
○参加費:千円
主催:中村武生歴史地理研究室
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山田邦和博士にお伝えできなかったのだが、今回建てた「聚楽城武家地 豊臣秀勝邸跡伝承地」標石の側面に「平安宮内裏蘭林坊跡」を刻んだ。| 固定リンク
※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。 【お知らせ】建碑除幕式
NHK大河ドラマ「江」にからみ、江の2度目の夫豊臣秀勝屋敷跡伝承地に建碑いたしました。
江の居所で、娘完子(さだこ、九条幸家室)の誕生地の可能性があります。
オールカラーの豪華な解説板を付設致しました。
どうぞおこしください。
〈表銘〉聚楽城武家地、豊臣秀勝屋敷跡伝承地
〈日時〉2011年9月29日(木)午前11時から
〈場所〉上京区(千本通東入ルすぐの)土屋町通出水上ル、ひも製造会社「円山」の入り口
以上
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本年(2011年)9月16日付で、文化庁から近代遺跡(政治の分野)詳細調査調査員を委嘱されました。
具体的な対象は、京都市内の幕末政治史の遺跡です。
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告知。| 固定リンク
御土居堀を考える市民講座のご案内です。
タイトル:御土居堀の解体過程を考える
2011年9月24日(土)午前12時30分~午後1時40分
会場:キャンパスプラザ京都・5階第3・4演習室
講師:中村武生(歴史地理史学者、立命館大学・京都女子大学など非常勤講師)
受講料:1回500円(予約不要。会場でお支払いください)
※会場のキャンパスプラザ京都(京都市下京区西洞院塩小路下ル東側)へは、JR京都駅烏丸中央口から西へ徒歩5分弱。ビックカメラの南向かい。
参考文献:中村武生『御土居堀ものがたり』(京都新聞出版センター、2005年)
主催:京都御土居堀研究会
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山崎徳左衛門の屋敷跡です(左側)。中央を走っているのが近世東海道です。
山崎徳左衛門は幕末維新期の尾張国愛知郡山崎村(現愛知県名古屋市南区)の庄屋です(文政5年<1822>-明治18年<1885>)。
安政年間、尾張徳川家の大代官所御役所に「一代切熨斗目」として出仕していました(『尾張藩在郷名家録』)。維新後の明治3年(1870)3月、名古屋藩権少属准席出仕にもなりました。
1879年(明治12)、前浜村の地先の海面をうめたて、50余町歩の新田をつくったことで知られるようです。1881年~1883年、愛知郡長もつとめました(以上『日本人名大事典(新撰大人名辞典)』)6巻、339ページ、平凡社、1997年覆刻版)。
ある事情により、いまかなり気になっている人物なのです。
写真の前方の高まりが山崎川です。
このそばに墓所があるということで本日うかがいましたが、残念ながら見つけられませんでした。先導者にご連絡をしなかった僕のミスです。また来ます。
場所の特定は、南区の歴史を学ぼう会編『近世村絵図の解読』所収の天保12年(1841)「山崎村絵図 解読図」によりました(8ページ、私家版、2002年)。※古橋明子さんの教示によります。
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池田屋事件をかたるとき、主役は圧倒的に新選組にかたよるが、実は新選組も会津の一兵なので、「会津」主体で考えるべきである。
戦死者もそうである。
主に新選組(奥沢栄助だとか)や親長州浪士(宮部鼎蔵だとか)の話題ばかりで、会津や桑名、一橋、彦根など、元治元年6月5日(1864年)当夜出兵し、親長州浪士の追捕に参加した大名家臣の戦死者が正確につかめられていない。
新選組をふくむ会津犠牲者は、信用できる史料からおおよそのことがわかる。
近藤勇の事件3日後の書翰に、「会公ニ二人深手を請け候ものこれ有り候」とあり、2人重傷者があったとある。
これに対して、京都の会津屋敷から江戸に送られた報告書には具体的な名前がある。
「郡代同心五十嵐寅助・大柳俊八両人手疵負、寅助ハ深手ニ而即死。俊八ハ余分ニ滞有之間敷、残念至極之事ニ候」(『会津藩庁記録』4、692ページ)。
近藤が述べた重傷2人とは、五十嵐寅助と大柳俊八のことかと思える。
で、墓所を探そうと思った。
黒谷墓地には約250人の墓碑がある。そのどこにいるのか。そもそも本当にあるのか。そんなときインターネット上にありがたいものがあるのを知った。
「会津いん東京」というサイトである。http://www.geocities.jp/daitabou/index.htm
ここで検索すると、五十嵐寅助と大柳俊八の墓はともに黒谷墓地にあることがわかる。地図もついている。重ねてありがたい。
ただ五十嵐寅助には名前以外の情報がない。大柳俊八には慶応三年とある。元治元年からは3年もたっている。
そこで現地を確認に行った。
サイト「会津いん東京」が地図で示してくれた墓碑は、とても文字が読める状態になかった。なぜ「五十嵐寅助」とわかるのか、不思議だった。それぐらい文字の線がうすい。
大柳俊八は読めた。ただ没年が誤っていた。
(表面)功彦神霊
(裏面)会津 大柳俊八
(右面)慶応元丑天(カ)五月首六日
池田屋事件から11カ月後の死去であった。事件の傷によるものか、別の事情かこれではわからない。
五十嵐寅助の墓銘がなぜ読めないのか。刻まれた文字がもともとうすく、摩耗して読めないのだと思った。
突然ふっと思いついた。磨いてみよう。いつも路傍の石碑や道標を判読するとき用に歯ブラシをもちあるいている。
磨いてびっくり。文字が出てきた。読める。たんに苔むして汚れにより文字が埋まっていたのであった。「五十嵐」が読めた。まちがいない。しかも没年月日も刻まれていた。うれしい発見である。
(表面)会津 五十嵐寅助 元治元甲子年 六月六日
池田屋襲撃の翌日である。事件は深夜であるから事件のさなかに死んだといってよい。「即死」に矛盾はなかろう。近藤は6月8日の段階で死者についてはふれていない。五十嵐の死を知らなかったということか。
黒谷墓地には25年も前から何度も何度も来ている。池田屋事件にこだわり、三縁寺、壬生塚、霊明舎旧境内など親長州浪士、新選組とわけへだてなく墓参は欠かさなかったつもりだった。
会津の池田屋事件戦死者の墓参が本日まで遅れた。事件の本質にながく近づけなかったからだ。自身の不明を恥じる。
ちなみに桑名、一橋、彦根などはこれからである。
2011年9月7日のこと。
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最近は、弘化四年(1847)の尾張国のある人の日記を読んでいます(中村武生所蔵品)。記主は不明ですが、地域の名士であることはおそらく間違いない。
具体的な人物も推定できていますが、まだ断定にはいたっておりません。「発見」の連続を楽しみませんか。
9月23日(金) 午前12時30分~午後1時40分
9月30日(金) 午前12時30分~午後1時40分
10月7日(金)午前12時30分~午後1時40分
10月14日(金)午前12時30分~午後1時40分
10月21日(金)午前12時30分~午後1時40分
10月28日(金)午前12時30分~午後1時40分
11月4日(金)午前12時30分~午後1時40分
11月11日(金)午前12時30分~午後1時40分
11月18日(金)午前12時30分~午後1時40分
11月25日(金)午前12時30分~午後1時40分
12月16日(金)午前12時30分~午後1時40分
12月23日(金)午前12時30分~午後1時40分
2012年
1月6日(金)午前12時30分~午後1時40分
1月13日(金)午前12時30分~午後1時40分
1月20日(金)午前12時30分~午後1時40分
1月27日(金)午前12時30分~午後1時40分
※会場は、すべてキャンパスプラザ京都(京都市下京区西洞院塩小路下ル東側。ビックカメラの北向かい)、5階、第3・4演習室です。
※受講費はワンコイン(500円)です。
※予約は不要です。会場で直接お支払いください。
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とりあえず、昨日の成果。
大楽源太郎の西山書屋跡の石碑(防府市台道上り熊)。
昨年9月建ったばかり。建立者は、「ふるさと大道を掘り起こす会」。
茶室跡と塾生寮跡を示す平坦地もあった。
どうしてわかるかの追及は、いまはおいておきます。
この眼下(東方向)に、繁枝ヶ原が広がる。
元治元年6月6日(1864年7月9日)、率兵上京の決定を受けて、世子毛利定広が軍事調練を行った場所。
この前夜、京都では池田屋事件が起きている。
池田屋の報が山口につくのは6月12日。ちなみにその使者のひとりが大楽源太郎。
大楽が西山書屋を営むのは、それから2年ものちのこと。
ここから寺内正毅を出したことは、司馬遼太郎の小説などで有名でしょう。
繁枝ヶ原を見に来て、たまたま大楽に出会ったという感じ。
もよりの駅は、JR大道駅です。
駅からすこし西へ進むと「繁枝神社」があります。調練の日、定広はこの木陰で休憩しただろうかと想像していたら、ここに大楽の石碑があり気づいたというわけ。
入り口には西山書屋跡碑への道案内板までありました。それゆえ訪問できたというわけです。
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以下の玉稿および高著を賜りました。記して御礼申し上げます。
一、久住真也さんから
同氏「幕末政治と禁裏空間の変容」『日本歴史』760号、2011年9月
一、水谷憲二さんから
同氏『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』、八木書店、2011年3月
以上
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本日(2011年9月4日)の御土居堀を考える市民講座<巡検>は、午前8時現在、京都府南部に大雨警報が解除されませんので、中止いたします。
次回は9月24日(土)午後0時30分~1時40分、キャンパスプラザ京都5階第3・4演習室(下京区西洞院塩小路下ル)です<タイトル:御土居堀の解体過程-享保期以後>。
どうぞよろしくお願いいたします。
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【お知らせ】
中村武生の栄中日文化センター「新選組」講座は、台風接近のため延期になりました。
9月17日(土)に振り替えます。ご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。
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