禁門の変開戦をかたる
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2011年8月16日(火)午前中雨
午後から「基礎からまなぶ!日本歴史」に出講。
いつもの今週の時事は、ボストン美術館蔵の伝大山古墳(いわゆる仁徳天皇陵)出土遺物の件にコメント。
本題は禁門の変。実にタイムリー。今日は実際に禁門の変が起きた4日前(旧暦7月19日、現暦8月20日)。
元治元年7月18日付(1864年)、益田右衛門介・福原越後・国司信濃の三家老による朝廷への上書を朗読する(『修訂防長回天史』5巻、マツノ書店覆刻、411~414ページ)。
軍事行動の宣言、および会津を洛外へ追放し天誅を加えよとの勅を欲するもの。会津もここまで悪しざまにいわれたら立つせない。
同日夜、伏見の福原らの軍勢が動く。禁門の変が始まった。
一橋慶喜らは翌19日午前2時ごろ参内し、長州追討のほかなしと言上。これに対して孝明天皇は早く征討すべしの勅を下す。
そのころ伏見の砲声が内裏にまで届く。もはや兵端は開かれたようですと慶喜は言上した(「野宮定功日記」)。
今回はここまで。
伏見勢は伏見街道を北上し内裏にむかう。が、藤森あたりで大垣戸田家と交戦し、早くも敗北。敗れた兵は一旦山崎に移るも、ふたたび竹田街道をとって北上。
嵯峨からの軍勢が一条通(あるいは下立売通)あたりから内裏をめざす。この軍勢が蛤御門の戦いをおこす、と次回の予告しておく。
次回は8月23日(火)午前9時10分から。いつもと時間がちがいますのでお気をつけください。場所はいつものキャンパスプラザ京都・5階第3・4演習室です。
名古屋市のF橋A子さん上洛して参加されたので、M本Iくえさんまじえて懇親会。
夜は義父の誕生日なので、家族で宴会に参加。かえってごちそうになる。
五山送り火の日だが、洛東にいたのでみることなし。
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