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2011.05.21

「御土居藪御支配」角倉与一を考えなおしてみた

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 本日、御土居堀を考える講座に出講した。

 

 角倉与一に関する、自身のこれまでの認識を大きく改めた内容となった。

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 寛文9年(1669年)、角倉与一が「御土居藪御支配」を仰せ付けられたが、史料上「御支配」とあってもは必ずしも全権掌握したというわけではなく、

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①東・西奉行も大きくかかわっていること(たとえば御土居藪の竹などの入札では、根帳に付ける地は角倉宅だが、「札被」は東奉行所で行われる<少なくとも元禄5年<1692年>から享保4年<1719年>>。『京都町触集成』1-42、1-104、1-1014、1-1036など。正徳4年11月<1714年~1715年>の御土居に関する禁止制札は、東・西奉行の名前で発令。角倉氏ではない。『京都町触集成』1-717)。

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②しかも享保年間(享保7年か=1722年)からは所司代の藪方役人が加わっていること(『京都町触集成』1-1324、1-1447、『史料京都の歴史』上京区編「京極学区」53など)

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などを指摘した。

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 が、解任の寛政3年(1791)まではたしかに角倉与一は御土居関係史料上登場する(たとえば『史料京都の歴史』上京区編「京極学区」55・56など)。

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 それはなぜなのかは保留にした。

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 結論は出せなかったが、京都の近世都市史を理解するうえで、この問題はとても重要なことだと思っている。

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