「御土居藪御支配」角倉与一を考えなおしてみた
※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。
本日、御土居堀を考える講座に出講した。
角倉与一に関する、自身のこれまでの認識を大きく改めた内容となった。
.
寛文9年(1669年)、角倉与一が「御土居藪御支配」を仰せ付けられたが、史料上「御支配」とあってもは必ずしも全権掌握したというわけではなく、
.
①東・西奉行も大きくかかわっていること(たとえば御土居藪の竹などの入札では、根帳に付ける地は角倉宅だが、「札被」は東奉行所で行われる<少なくとも元禄5年<1692年>から享保4年<1719年>>。『京都町触集成』1-42、1-104、1-1014、1-1036など。正徳4年11月<1714年~1715年>の御土居に関する禁止制札は、東・西奉行の名前で発令。角倉氏ではない。『京都町触集成』1-717)。
.
②しかも享保年間(享保7年か=1722年)からは所司代の藪方役人が加わっていること(『京都町触集成』1-1324、1-1447、『史料京都の歴史』上京区編「京極学区」53など)
.
などを指摘した。
.
が、解任の寛政3年(1791)まではたしかに角倉与一は御土居関係史料上登場する(たとえば『史料京都の歴史』上京区編「京極学区」55・56など)。
.
それはなぜなのかは保留にした。
.
結論は出せなかったが、京都の近世都市史を理解するうえで、この問題はとても重要なことだと思っている。
| 固定リンク

