幕末政治史のなかの天皇陵研究
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先月末締め切りの「本気で考える池田屋事件」(講談社メールマガジン)、本日提出した。
今回は霊明舎(社)に論究した。
吉田稔麿が同舎に埋葬されたから。三縁寺に池田屋戦死者を葬ったのは毛利家ではない。新選組をふくむ会津関係者であることをいうために。長州屋敷がもし処理したなら、三縁寺ではなく、吉田らと同じく霊明舎(社)に埋葬したことだろうという結論。
霊明舎(社)の存在が諸大名家に広く知られるようになるきっかけが、文久2年12月14日(1863年2月2日)、安政大獄以来の殉難者の合同慰霊祭だったと考えている。
そこに参加した人物は約170名で、そのうち70名ていどの実名が知られている。その参加者はいろいろおもしろいと思っているのだが、今回またひとつ興味深い点にきづいた。
平塚清影、谷森外記、県勇記の3人がいることである。お気づきだろうか、この3人の共通点。
山陵(天皇陵)研究者なのである。
幕末の修陵(天皇陵の整備)については外池昇さんや山田邦和博士など多くの方が論究されており、成果をまなばせていただいているが、霊明舎の合同慰霊祭とのかかわりについてはふれられた例を知らない。
山陵(天皇陵)研究者にとって、霊明舎ってどんな意味がみいだせるのだろう。安政大獄以来の殉難者の慰霊や神道葬祭って何の価値があるのだろう。おもしろい。
県勇記には伝記があることを知った。小林友雄『勤王烈士県六石の研究』(興亜書院、1943年)である。
このたび入手し、恥ずかしながら初めて読んだ。
とてもおもしろかった。日記が現存することも初めて知った。幕末政治史のヒーローたちと山陵研究者の交流がわかる。山陵研究を幕末史のなかに位置づけるために、かっこうの人物だと気づいた。
すでに周知のことかもしれないが、あまりにすがすがしい感覚をえたので、吐露することにしました。
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