再び豊臣秀勝埋葬地を検討
2月24日(木)はれのち雨
京都新聞文化センターに出講。
江(督)と夫豊臣(羽柴)秀勝を論ずる。あと2人の「秀勝」(長浜妙法寺伝承の人と於次秀勝(信長四男))もあわせて。
とくに埋葬地を考えた。朝鮮から運ばれた遺骸は、「嵯峨亀山」に埋葬され、それが善正寺だと渡辺世祐博士『豊太閤の私的生活』はいうが(福田千鶴さん『江の生涯』も)、近世の史料に記されたものは皆無である。
おそらく近代の湯本文彦「京都府寺誌稿」を根拠にしたと思う(京都府立総合資料館蔵)。
その「京都府寺誌稿」でも、善正寺は秀次供養のために創建したとする。「秀勝」ではないのだ。これは近世地誌も一貫している。それはそうだろう。寺号の「善正寺」は、秀次の法号なのだから。こちらの方が無理はない。
近世前期にすでに当所に秀勝の墓があることはまちがいない(『京羽二重織留』)。が、それが秀勝の埋葬地を善正寺、てんじて「嵯峨亀山」とするのは、少々無理がある。
豊臣ファミリーはことごとく禅宗寺院に埋葬されている。秀吉の妹旭が東福寺であるのと(南明院)、長男鶴松があらたに創建した祥雲寺であるのをのぞくと、みな大徳寺である。すなわち於次秀勝(信長四男)が塔頭総見院、秀長・秀保父子は大光院、母大政所が天瑞寺。
当然、小吉(岐阜宰相)秀勝も、大徳寺なのではないか。
ただしそれを記す史料も皆無である。だからまだまだこの検討はつづく。
※加筆。寺田貞次『京都名家墳墓録』は、大光院(秀長の墓)は大和郡山に創建され、藤堂高虎が大徳寺に移築したとのべる(594ページ)
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