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2010.12.13

後藤象二郎の洛中住居跡に駒札が建った

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 先日、洛中の後藤象二郎寓居、壺屋跡に京都市による駒札(解説板)が建った(中京区河原町通三条下ル二筋目東入ル南側)。

 戦前に京都市教育会が石碑を建立していたが、早くに失われていた。その代わりというわけだ。素直にうれしい。

 ただしこの駒札文は、後藤の壺屋滞在期間を記さない。残念なことである。在京中のいつごろのことかというこだわりは必要だと思う。

 ついつい我々は、京都の後藤の居所といえば、慶応3年10月13日(1867年11月8日)の将軍慶喜による二条城呼び出しの日(大政奉還の意志表明の日)の滞在地と思いたくなる。

 実際そう記した書籍もある(毎日新聞大阪支局『維新の史蹟』1939年)。

 この朝、龍馬は後藤に書翰を送る。後藤もすぐに返事をする。そして二条城から戻るとまた書翰を送った。将軍慶喜が大政奉還の意志表明をしたことを報ずるものである。

 壺屋がそれらの手紙を書いた場所かどうかが問題となる。

 ちなみに菊屋峯吉(鹿野安兵衛)は、このことに証言をしている。

 龍馬が最後の地となる、近江屋新助方に入った時期に関心をもった維新史料編纂官川田瑞穂(雪山)は、1917年(大正6)9月28日、これを菊屋峯吉(当時、数え67歳)らに問う。

 菊屋峯吉こと鹿野安兵衛は、龍馬の近江屋新助方に入った時期を、「たぶん(慶応3年)六月ニ長崎ヨリ上京シ来レル以後ノコト」とし、「大政返上当時(十月ハ慥カニ近江屋ニ居タリ」と述べた。酢屋嘉兵衛方ではないといっているのである。

 それにあわせて、大政奉還当時の後藤の居所に言及する。

「当時、後藤象二郎氏ハ土佐屋敷ノ留守居小屋ニ居リ、頻リニ坂本氏ト往復シタル様子ナリ。後藤氏ガ壺屋ニ下宿シタルハ、其少シ前ノコトニテ、坂本氏ノ酢屋ニ居タル時分ナリ」(岩崎鏡川『坂本龍馬関係文書』第一)

 壺屋は大政奉還以前の居所だというのである。「土佐屋敷ノ留守居小屋」というのは何だろう。邸内の施設だろうか。

 ただしこれが事実かどうかは検討が必要であろう。聞き取った1917年は、大政奉還から50年もたっている。記憶違いもありえることだ。

 岩崎英重(鏡川)は、根拠不明なれど、それに先立つ1898年(明治31)刊行の『後藤象次郎』では、「大仏の藩邸」にいたとする(174頁)。

 信用できる同時代史料(いわゆる一次史料)がない現在、まずは菊屋峯吉(鹿野安兵衛)の証言を信用すべきだと思うが、今後も配意すべきである。

 幕末主要人物の居所は、このような姿勢でさらなる追究が必要と思う。

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