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2010.12.31

今年もありがとうございました

 今年もあと5分ていどです。

 たいへんお世話になりました。ありがとうございました。

 来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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あたらしい龍馬講座のお知らせ

講座「そのとき龍馬はどこにいたのか」のお知らせです。
 龍馬の居所をていねいにおいかけていきます。
第1回「江戸での剣術修業のころ」
講師:中村武生
日時:2011年1月30日(日) 17:30~18:30
定員:15名 
要予約 
参加費:1000円
主催・場所:京都市中京区木屋町通六角下ル材木町184都会館1F「龍馬」 
TEL/FAX 075-211-3666

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年末の中村武生

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12月28日(火)はれ

 昨日、年内の外勤をすませたので、本日から内勤に徹します。池田屋事件をすすめるべきだったのだが、子守りをしつつ、前日の嵯峨往生院にこだわり、復習する。

 夜、子守りを奥さんにお願いして、大阪市内で、高校の友人O池M人さんと会う。えらい人になっていて感心した。

 わりと早くお開きにしたつもりなのに、帰宅はほとんど終電。さすが大阪市内はちかくない。

12月29日(水)はれ

 いただいた高著・玉稿のお礼状書いたり、古新聞をスクラップしたり、軽掃除をしながら、子守りをする。いや逆か。子守りが最優先。

 夜、鞆ノ浦で買っていた鯛めしを食べながら、録画したNHK「坂の上の雲」の「広瀬、死す」の回をみる。

 先日、京都新聞文化センターの龍馬講座最終回で、美子皇后(昭憲皇太后)の夢枕に龍馬が立ったことを報じる新聞記事の横に、広瀬武夫関連記事があるのを紹介した。その直前に広瀬が戦死していたから。

 すると「杉野はいずこ」(「広瀬中佐」)の小学唱歌をならったという女性がおられて驚いた、ということを思い出した。

12月30日(木)こさめ

 昨日、ツイッターでフォローした歴史研究者の「こでんせいきゅう」さんのツイートに、僕が登場して驚いた。

 すこし前に講義のご準備で拙著をつかってくださっていた由。その少しあとなので、偶然に驚かれた由。拙著が世の役にたっていることを感じる至福のときである。ありがとうございます。

 日中は来年度の大学や文化講座のシラバスをかきながら、子守り。

 お子さんのイレギュラーな動きに頭がおかしくなってきた。思考不能になる。毎日、それに従事している奥さんはえらいわ。

 午後から奥さんが、お子さんつれてお買物にいく。その間、思考をとりもどす。

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2010.12.29

ツイッターのユーザー名を変更しました

ツイート(ツイッター)のユーザー名を変更しました。

Nakamura_Takeo です。 よろしくお願いいたします。

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高著・玉稿拝受の御礼

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 本年も、いろいろな場で多くの方々から玉稿・高著を賜りました。ありがとうございます。

 当ブログに記させていただいた場合もありますが、かなり書き漏らしております。ゆえにこのたび記憶にあるかぎり書き出してみまして、御礼に代えさせていただきます。申し訳ありません。万一、まだ書き漏らした場合はお許しください。他意はございません。

五十音順

★天野忠幸さんから

○天野忠幸「戦国期の宗教秩序の変容と三好氏」『織豊期研究』第12号、2010年10月

★安藤弥さんから

○安藤弥「戦国期大坂本願寺造営記録二冊」『年報中世史研究』第35号、中世史研究会、2010年

○安藤弥「河内将芳著『秀吉の大仏造立』」『新しい歴史学のために』第277号、京都民科歴史部会、2010年10月

○安藤弥「一向一揆研究の現状と課題」新行紀一編『戦国期の真宗と一向一揆』、吉川弘文館、2010年11月

○同朋大学仏教文化研究所編『真宗文化史とその周辺―織田顕信コレクション―』、同研究所、2010年7月

○同朋大学仏教文化研究所編『誰も書かなかった親鸞[伝絵の真実]』、法藏館、2010年11月

★伊藤唯真さんから

○伊藤唯真『法然上人の言葉―「法然上人絵伝」より―』、淡交社、2010年11月

★植松三十里さんから

○植松三十里『大奥開城―女たちの幕末』、双葉社、2008年5月

★大石学さんから

○大石学・時代考証学会編『時代考証学ことはじめ』、東京堂出版、2010年11月

★太田浩司さんから

○長浜市長浜城歴史博物館『戦国大名浅井氏と北近江―浅井三代から三姉妹へ―』2刷、同館、2009年9月

○『近江の文化と伝統』編集委員会編『近江の文化と伝統』、財団法人守山野洲市民交流プラザ「ライズヴィル都賀山」、2010年6月

★木立雅朗さんから

○木立雅朗「信楽焼陶器製地雷について―聞き取り調査と研究ノート」立命館大学考古学論集刊行会編『立命館大学考古学論集』V、同会、2010年5月

○京都文化研究班木立研究室編『立命館大学アート・リサーチセンター新収蔵資料展―友禅下絵と乾板写真から―』、文部科学省グローバルCOEプログラム「日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点」(立命館大学)、2010年7月

○立命館大学文学部京都文化講座委員会企画・編『京の地宝と考古学』(立命館大学京都文化講座・京都に学ぶ6)、白川書院、2011年1月

★木村幸比古さんから

○財団法人霊山顕彰会『維新の道』第137号、同会、2010年4月

○財団法人霊山顕彰会『維新の道』第139号、同会、2010年10月

★高知県立坂本龍馬記念館から

○高知県立坂本龍馬記念館だより『飛騰』第76号、同館、2011年1月

★古城春樹さんから

○古城春樹『龍馬とお龍の下関―海峡に遺した夢のあと』増補改訂版、瞬報社、2010年8月

★杉森哲也さんから

○五味文彦・杉森哲也編著『日本の歴史と社会』2刷、放送大学教育振興会、2010年2月

○杉森哲也「都市図屏風とイデア」吉田伸之・伊藤毅編『伝統都市1 イデア』、東京大学出版会、2010年5月

○杉森哲也「中世京都から近世京都へ」小野正敏ほか編『中世はどう変わったか』高志書院、2010年7月

★鈴木康久さんから

鈴木康久『水が語る京の暮らし―伝説・名水・食の文化―』、白川書院、2010年10月

★高田徹さんから

○高田徹『城郭建築行脚』第29回(小浜城の伝・御殿玄関)、2010年7月

○愛知中世城郭研究会・中井均編『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版、2010年9月

★高橋慎一朗さんから

○中世都市研究会編『都市を区切る』(山川出版社、2010年9月)

○高橋慎一朗ほか編『ジュニア日本の歴史』3〈武士の幕あけ〉(小学館、2010年12月)

★谷山正道さんから

○谷山正道「近世大和における広域訴願の一形態―全幕領連合訴願の展開と五條代官所―」『日本文化史研究』第41号、2010年3月

○NPO法人奈良元気もんプロジェクト編『奈良地域おこしネットワーク 結び会―もうひとつの奈良観光』、ビレッジプレス、2010年11月

★中西裕樹さんから

○高槻市立しろあと歴史館編『幕末・京都をめぐる雄藩と高槻―黒船来航から鳥羽・伏見の戦いまで―』、同歴史館、2010年10月

○甲賀市史編さん委員会編『甲賀市史』第7巻、滋賀県甲賀市、2010年12月(中西裕樹「畿内近国の城」など掲載)

★野口実さんから

○野口実「閑院内裏と『武家』」『古代文化』第59号第3号、古代学協会、2007年12月

○野口実「中世前期における宇治の軍事機能について」京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第22号、2009年3月

○野口実「[追悼]米谷豊之祐先生を送る(付、伊勢平氏庶流に関する先生からの書信)」京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナール『紫苑』第7号、2009年3月

○野口実「京都七条町から列島諸地域へ―武士と生産・流通―」入間田宣夫編『兵たちの時代Ⅱ 兵たちの生活文化』、高志書院、2010年5月

★馬部隆弘さんから

○馬部隆弘「享保期の新田開発と出口寺内町」『枚方市史年報』第13号、2010年4月

○馬部隆弘「幻の楠葉台場設計図」『枚方市史年報』第13号、2010年4月

○馬部隆弘編著『茄子作村中西家文書の研究―小身旗本長井家の幕末維新』(枚方市史年報別冊)、枚方市立中央図書館市史資料室、2010年9月

○史敏刊行会『史敏』7号(馬部隆弘「堺町人出身の旗本鹿塩氏について―河内国正保郷帳の補填」、馬部隆弘「御三卿職制の形成過程―流出文書の古文書学的検討」など所収)、同会(大阪大学大学院文学研究科日本史研究室内)、2010年9月

★平野寿則さんから

○平野寿則・大桑斉編著『近世仏教治国論の史料と研究―松平開運録/東照宮御遺訓』、清文堂、2007年2月

★藤田正さんから

○四国地域史研究連絡協議会・香川歴史学会「四国の大名―大名の交流と文化―」『香川史学』第37号、香川歴史学会、2010年7月

○『歴博だより』№63、愛媛県歴史文化博物館、2010年9月

★藤田英昭さんから

○徳川記念財団・東京都江戸東京博物館編『企画展 徳川御三卿、徳川記念財団、2010年10月

★町田明広さんから

○町田明広『攘夷の幕末史』(講談社現代新書、2010年9月)

○町田明広『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復―』(岩田書院、2010年10月)

★松岡満さんから

○新創社編『城下町 時代MAP 関東編』、PHP研究所、2010年9月

★山川均さんから

○山川均『中世石造物の研究―石工・民衆・聖―』、日本史史料研究会、2008年10月

★山田邦和さんから

○山田邦和「伏見城・城下町の研究史と陵墓問題」『ヒストリア』第222号、大阪歴史学会、2010年10月

○山田邦和「歩いて楽しむ京都の歴史」1~36、中日新聞(東京新聞)、2010年3月~11月

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2010.12.28

滝口寺と祇王寺でいろいろ考えた

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1227()はれ 

 午前9時、JR嵯峨嵐山駅に集合。

 「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」、今年最後の巡検。嵯峨地区。

 まず安堵橋と油掛地蔵に行こうと思っていたが、ルートの問題点を地元の参加者S貝さんに指摘された。したがう。

 法然の弟子が建立した、往生院跡に立地する祇王寺と滝口寺に向かう。

 いつものように、『京都市の地名』(平凡社)を頼りにしたが、驚いた。

 まず「往生院」が立項されていない。

 何度も申し上げたつもりだが、平凡社の『~の地名』は僕がもっとも信頼を置く地名辞典である。

 とくに『京都市の地名』は、僕の観光地案内にほぼ全面的に依拠している。それが、である。

 往生院は、実在のあやしい寺ではない。

 たとえば応永33年(1426)9月、足利義持の命により製作されたと伝わる「嵯峨諸寺応永鈞(きん)命絵図」に載っているし(高橋康夫ほか編『図集日本都市史』92ページ、伊藤毅氏執筆部分)、文明17年(1485)9月10日、足利義政が「尺()迦堂」参詣のあと訪問している(「親元日記」『大日本史料』当該部分)

 まず滝口寺に入る。

 新田義貞首塚碑がある。側面には新しそうな勾当内侍の五輪塔もあった。

 これまた『京都市の地名』の「滝口寺」項にその記載がない。

 1894(明治27)に富岡鉄斎が建立したものらしいが(さまざまな施設に邪魔されて碑石にちかづけず、銘が読めない)、「太平記」巻20に、義貞の獄門首をみた京都妻勾当内侍(こうとうのないし)が、「嵯峨ノ奥ニ往生院ノアタリナル柴ノ扉(とぼそ)」で供養をしたとあるのが根拠であろう(日本古典文学大系『太平記』2巻、327ページ)。 ただ供養をした地「往生院のあたり」といっているだけで、首を埋めたとはない。

 義貞の首塚は他地域にも2か所あるし、まあ事実とは思えない。実証困難である。

 滝口寺が参観者に配布しているチラシに以下の記載があった。

 もと三宝寺(三宝院)といったが、近代になって、佐々木信綱博士が、高山樗牛著『滝口入道』にちなんで「滝口寺」と命名したとある。

 いえいえそんなに新しくないです。江戸中期の観光ガイドブック『都名所図会』巻4「三宝院」の挿図に、すでに「滝口寺」とあります(『新修京都叢書』6巻、371ページ)。 もっと古いです。残念だ。

 滝口入道の恋人だった横笛の歌を刻んだ「台石」があると、『都名所図会』に記載されている(前掲373ページ)

 それだという石の横に「滝口と横笛の歌問答旧跡 三宝寺歌石」と示す、1932(昭和7)5月建立の標石があった。

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 向かって右側面に嵯峨村長(当時)小林吉明の和歌が刻まれていたので、一瞬未知の三宅清治郎建立碑かと思った。

 書体が似ていたのと、嵯峨の三宅清治郎建立碑にも小林吉明の和歌を刻んだものがあったから。

 書は「杵屋佐助」なる人による。この人、知らない。

 同じく向かって左側面に「昭和七季五月勾当内侍供養」の日に、「大阪下村清治郎」が建てたという。

 そこで気づいた。さっきの新しいと思った勾当内侍五輪塔の建立日に、いっしょに建てたのだ。

 で、さっきの五輪塔にもどってみた。

 何か刻んでいないか。

 やっぱり、刻まれていた。

「昭和七年五月作曲記念/杵屋佐吉一門/佐門会建之/賛助小林吉明」だ。

 作曲? 杵屋佐吉一門? 芸能人か?

 あとからわかった。長唄三味線の名跡なのだった。

 杵屋佐吉は世襲名で、現在は7代目になられる。この標石を建てたのは4代目のようだ。「滝口と横笛」みたいな歌をつくられたのだろう。

 こうして史蹟はつくられる、いつもの話だな。楽しかった。

 ついで祇王寺に入る。

 ここでも『京都市の地名』の誤りにきづいた。

 祇王寺の由緒を、往生院が「中世以降荒廃していたのを『平家物語』『源平盛衰記』の遺跡として明治に復興し、往生院祇王寺と名付けた」と記している(1078)

 ちがいます。祇王寺の参道に、貞享4(1687)銘の「往生院きおうし」と刻む標石をみつけた。

 つまり江戸前期にもう「往生院祇王寺」と呼ばれているわけだ。 

 境内に五輪塔と宝筐印塔が並んでいて、「清盛公供養塔」と「祇王・祇女・母刀自の墓」と記す駒札があった。

 これら五輪塔や宝筐印塔らしきものは『都名所図会』にも載っているが(前掲372ページ)、当時は4つ以上あったようにみえる。

 しかも宝筐印塔らしきものには、「祇王・祇女・仏・刀自」とある。

 仏御前(「仏」)が消失している。

 でもね、そのそばに建つ、明和8(1771)の旧蹟碑(「祇王・祇女・仏・刀自之旧跡」、こんなものが残っていることに感激)には、「四尊尼墓」とあります。4人の尼なわけですよね、3人でなくて。 

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 混乱している。情報整理が必要だろうな。おしい。

 楽しい半日だった。

 解散後、余韻をもって、昼食もせず、単身宝筐院に参拝した。

 楠木正行首塚と足利義詮の墓がある。この真偽については深く立ち入らない。

 問題は楠木正行の歌碑である。

 その寄付者が裏面に記載されていた。「中村寿田」である。

 これは富小路錦小路にあった中村石屋の人である。

 なぜそんなことに関心があるかといえば、三宅清治郎の用達なのである。三宅碑の大半はここが請け負った。

 金地院の父安兵衛の墓石もここがつくった(三宅清治郎日記によりわかる)

「富錦」中村石屋が製作した石柱(石碑)は、洛中洛外の各所に現存する。 

 三宅碑調査の一環でこれも追っているが、今回未知のものを知ったわけだ。ありがたいなあ。

 三宅碑論文も遅れている。すいません。池田屋事件が脱稿したら、すぐします。

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2010.12.27

12月17日~26日の中村武生

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12月17日(金)はれ

 くずし字入門に出講。あいかわらず中山忠光殺害の件。

12月18日(土)

 基礎からまなぶ日本歴史の巡検の予定だったが、臨時休講になった。ゆえに家でお仕事。明日のために豊臣三都(京都・伏見・大坂)の大名屋敷論のレジュメづくりをする。

12月19日(日)はれ

 嵯峨野三壺庵(伝統プロデュース連主催)「京都歴史講座」に出講。豊臣三都の大名屋敷論、力をいれたかいがあった。本日最終回だった。再開する可能性もあるが、とにかくしばらく休憩。ながい間のご愛顧ありがとうございました。

 夕方、木屋町の「龍馬」に出講。「基礎から学ぶ坂本龍馬」、こちらも最終回。龍馬の埋葬地・霊明社を論ずる。次回からは「そのとき龍馬はどこにいたのか」。龍馬の生涯を歴史地理的に論じていきます。

12月20日(月)はれ

 10時、JR嵯峨嵐山駅に集合。「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」に出講。清涼寺とニ尊院に参拝。二尊院驚いた。歴史上の人物の墓ばっかりじゃん。楽しい。

 とくに最後の関白(摂政)二条斉敬の墓には参った。最近、大政奉還でしょっちゅう話題ににしてきた人だから。

12月21日(火)はれ夜雨

 今年最後の「基礎からまなぶ!日本歴史」。通商条約締結をうけて、開始された貿易のはなし。つまり攘夷のはじまりのこと。次回は来年1月11日(火)10時50分からです。

 終了後、NPO法人京都歴史地理同考会の2010年度総会に出席。会員さんから名簿がほしいこと、建碑地の打診を会員にも協力させよというご希望をいただいた。いずれも可能なこと。実現予定。

 そのあと一時間某所にこもって、池田屋事件論にむかう。すこし進んだ。

 夜、NPO法人京都歴史地理同考会の理事など有志と懇親。夜、木屋町蛸薬師の「龍馬」に寄る。

12月22日(水)はれ

 午後1時、よみうり文化センター京都教室に出講。龍馬講座。また霊明社のはなし。次回は巡検。霊明社に参拝いたします。

 終了後、支店長さんと次年度のはなしをする。「新選組講座」をすることになった。教室・巡検のくりかえしなので、ぜひ来てください。

日程は4月27日(水)、5月25日(水)、6月22日(水)、7月27日(水)、8月24日(水)、9月28日(水)の予定です。時間はいずれも午後1時から。

 さらにそのあと受講者有志と懇親。拙著『中村武生とあるく洛中洛外』のサインを5冊いたす。

12月23日(木)

 外勤なし。家で「本気で考える池田屋事件」の原稿を打つ。明日、本年最後の締め切り。ずっと保留にしていたツイッターに参加する(既報)。大桃美代子さんの一件に刺激されて。

12月24日(金)はれ

 朝、「本気で考える池田屋事件」の原稿提出する。松田重助論みたいな内容。講談社メールマガジン(現代新書カフェ)、1月11日(火)の更新で掲載されます。どうぞご覧ください。

 くずし字入門に出講。まだまだ中山忠光暗殺。ただし一週とぶので、ひとつ宿題を増やした。霊明神社文書のもの。村上神主から預かった。最近みつかった一点。さあ、誰の書翰であろうか。

 午後から天理大学出講。本年最後。龍馬の歴史地理、おわる。次は何をしようか。受講者(男子)から拙著『御土居堀ものがたり』にサインを求められる。当大学では初めてだと思う。

 クリスマスもへったくれもなく、急いで帰る。入浴介護があるから。

 夕食にKンタッキーFイドチキンが出た。

12月25日(土)

 サンタクロースはこなかった。

 外勤なし。昨日、池田屋事件提出したが、さぼらず本日も継続する。

12月26日(日)はれ

 午前中、理髪。三か月ぶり。

 午後、関東から友人M脇Y博さん西上。2年以上ぶりに再開。旧摂津国で。

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2010.12.26

女子学生と霊明神社に行き、名古屋で並河誠所とあそぶ

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12月15日(水)はれ

 京都女子大学、本年最後の講義。巡検にした。

 午前8時50分、東山区高台寺南通東大路の交差点に集合。霊明神社に行く。出席をとらないといっていたのに、受講者30人も来た。頭が下がる。

 村上繁樹神主の解説をいただく。村上神主のご好意で、本殿前には幕末志士の自筆がたくさん並ぶ。ショーケースはない。生で目にできる。例の吉村虎太郎書翰をふくむ軸もあった。

 わずか30分の滞在だが、女子学生大喜び。写真を撮ってよいかとの希望に、村上神主快諾。ありがとうございました。

 帰途、「中村武生のくずし字入門」の有力受講者M宮さんとばったり。こんな朝早くから霊山参拝ですか。

 集合場所まで戻って解散したが、気になって、大学ちかくまで付いて行って、無事を見届けて戻った。

12月16日(木)はれ

 名古屋市へ。栄中日文化センターに出講。「日本の城と合戦」講座は、足利義輝殺害事件、「京都学」講座は、『五畿内志』編纂の並河誠所をとりあげた。

 並河誠所は吉宗政権期の儒学者で、吉宗政権の全面協力で本書編纂に成功した。

 並河誠所に興味をもつのは、この調査中、気に入った場所に建碑をすることである。その旧蹟地比定は、現在の水準に照らせば誤りが多い。が、いまだに影響を与え続けている。

 たとえば現在の大阪市阿倍野区に北畠顕家の墓碑を建てたが、現代では堺市石津が終焉地として有力である。

 が、『維新土佐勤王史』によれば、土佐住吉陣屋を訪ねた坂本龍馬が、仲間と墓参にきている。『維新土佐勤王史』が事実を伝えているなら、龍馬も並河の事業に影響を受けているわけである(当ブログ2010年5月17日条で既述した)。

 ほかにも摂津の式内社に多く建石をしている。

 今回、お話しするにあたって、少なくない先行研究に気づいた。にわか勉強をさせていただいた。ありがとうございます。今後もこの学習は続けます。

 急いで帰って、7時ごろから入浴介護。

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2010.12.25

討ち入りの日じゃないんだな

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12月13日(月)

 突然、予定がなくなり、休日になった。ありがたし。家ですべきことが多数ある。少しは減らさねば。

12月14日(火)はれ

 「基礎からまなぶ日本歴史」に出講。12月14日は一般的に「討ち入りの日」。山科では毎年この日に義士まつりが行われている。

 が、、赤穂浪士討ち入りの日です、という話はしなかった。

 なぜならちがうから。元禄15年12月14日は旧暦です。現暦に改めると、1月30日です。だから来年1月30日ごろに話をするつもり。

 一般には元禄15年は西暦1702年と理解される。

 だから1702年12月14日が討ち入りの日と思われている。

 ちがう。1月30日なのだから年が改まっている。そう、1703年なのである。

 元禄15年には違いはないが、年がかわるのだ。ここに学校教科書の問題点がおきる。西暦中心に教えて、和暦をついでぐらいにしか扱わない。

 たとえば(副読本だが)『新詳日本史』(浜島書店、2006年10月発行)の附属年表に、「1702(元禄15).12  赤穂事件」と記されている。

 ちがいますよね。西暦中心で行くなら、「1703(元禄15).1  赤穂事件」としなければならない。

 和暦中心で表記するなら、「元禄15.12(1703)  赤穂事件」がよいのではないか。

 いずれにせよ、現暦にあわせた月日を認識することが大事だと思う。季節感がちがうでしょ。1カ月ていど異なると。討ち入りのとき、直前まで雪が降っていた。1月30日ならなるほどと思える。12月14日も降る場合があるが、少なくとも今年は関東は降っていませんでしたね(今夜は降りそうだけど)。

 この時期にテレビドラマや映画が赤穂浪士をとりあげる。風物詩になっているので理解はできるのだが、季節感が乖離していることが残念だ。

 史実に反するテレビドラマや映画も問題だが(寺坂吉右衛門が討ち入り直前に逃亡したことは、もう認めるべきではないか)、季節感も大事にしてほしい。もちろん、現暦月日をつよくいうのは季節感だけではないが。

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2010.12.23

ツイッター、デビュー

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 おくればせながら、ようやく中村武生もツイッターを始めました。ユーザーネームは、heiankyokyoto です。

 当ブログ同様、お返事はほとんどできませんが、よろしくお願いいたします。

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中村武生らしい龍馬の洛中空間案内と越塚御門古墳見学

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12月10日(金)はれ

 くずし字入門に出講。中山忠光殺害関係史料のつづき。

 慶応元年(1865)7月1日、田耕(たすき)村庄屋山田幸右衛門が、「御役所」(長府)に出頭したところ「海盗一件」で逮捕者が多数出たらしく、山田幸右衛門は相手をしてもらえなかった。

 翌7月2日、小野和兵衛方を訪ねた。すると本日四ツ時頃(10時頃)、役所へ来いといわれた。ゆえに四ツ時過ぎに「目代所・衣類御横川御詰所」をおとずれたら、忠光殺害事件につき要求があった。

 そこで本日は終わり。

 午後、天理大学に出講。史蹟論(龍馬の居所論)を展開。

 近鉄天理駅前のコンビニで『奈良新聞』朝刊を買う。予想通り、前日の越塚御門古墳(こし・つかごもんこふん)の記事が一面だった。

 夜、上七軒の大文字に出講。来年のNHK大河ドラマ「江(ごう)」に関するお話し。さあ、始まったぞ。本日、大文字一家の四女の店だしの日。

12月11日(土)はれ

 NHK文化センター大阪教室の巡検の日。「龍馬の洛中空間をあるく」という内容。河原町三条界隈の龍馬旧蹟をめぐるもの。誰でも出来る場所で、中村武生らしいマニア度を維持して執行するというのはなかなか大変なことである。

 が、ご期待どおり超マニアに終始した。この日の京都新聞朝刊に、後藤象二郎寓居跡に駒札(解説板)が新設されたと報じられた。なんてタイムリーな。さっそく訪ねた。

 2時間も延長した。受講者は迷惑なことだったろう。

12月12日(日)はれ

 朝早くに家を出て明日香にむかった。越塚御門古墳の現地説明会に参加するため。10時からだが、9時すぎには着いた。たまたま飛鳥駅で、山科区の既知の方とばったり。よい連れができました。車石シンポの近況など、いろんなお話をうかがう。

 9時20分から見学開始。40分も早く。なのに僕らの順番になったのは、10時ごろだった。ほんとに牽牛子古墳の真ん前だった。

 終了後、植山古墳(橿原市)と高松塚古墳(明日香村)の現況を確認して、12時20分ごろ飛鳥駅をたつ。

 夕方までに帰宅し、また家で仕事。夜はいつもの入浴介護。また坂の上の雲もみた。豪華だ。

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2010.12.20

【巡検】滝口寺・祇王寺などに行きます

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 次回の「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」(5日目・6日目)のご案内

 日時:2010年12月27日(月)午前10時~12時 ※本年最終日

 行き先:安堵橋(「あんどのはし」)、油掛地蔵(「油かけぢぞう」)、滝口寺(「三宝寺」)、祇王寺(「往生院」)

 集合地:JR山陰線「嵯峨嵐山」駅改札

 参加費:ワンコイン(500円) ※拝観料などは自弁ください

 案内:中村武生(京都女子大学非常勤講師)

 ※雨天決行

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2010.12.18

よみがえった龍馬と岩永蓮代の話

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12月9日(木)はれ

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 京都新聞文化センターに出講。龍馬講座最終回。

 「よみがえった龍馬」というテーマで、龍馬の死後、いかに存在が思い出され顕彰されていったかを論じた。

 とくに日露開戦直前、葉山御用邸の皇后美子の夢枕に龍馬がたった話の意義について、つよくお話しした。30年廃業していた寺田屋が、旧地の西隣地に復活したのもこれが端緒になっている。

 NHK大河ドラマによって今年は大きな龍馬ブームだったが、つぎはいつ大きくとりあげられるかまで予想しておいた。

 宇治市小倉公民館の吉水利明館長から、すてきな封書をいただいた。

 在野の文化財保護活動者としてしられる岩永蓮代(故人)に関するものである。体がふるえるほどうれしかった。ありがとうございました。

 吉水館長については、以前のべた(本年10月23日付)。宇治市にある三宅碑の保護者のひとりである。岩永蓮代の高著『文化財保護ありのまま』(六興出版、1988年)にも登場される。

 同じくすでにふれたが、実は岩永は現宇治市木幡にあった藤原道長ゆかりの浄妙寺跡の標石を寄附した人である(写真)。この近隣地に藤原道長は埋葬されている。標石は現存するが、それには岩永の名は刻まれていない。このままでは忘れられてしまうかも知れない。あらためてここに記してながく伝えたい。

 夕方、自宅でパソコンにむかっていると、テレビニュースが、牽牛子塚古墳(奈良・明日香)のそばで地下から未知の古墳が見つかったと報じた。

 絶句した。手をとめてニュースに見入った。牽牛子塚古墳は斉明天皇陵の有力候補である。「日本書紀」には、斉明天皇陵の前に孫の大田皇女の陵墓があると記してある。

 が、牽牛子塚古墳の前に該当する古墳がなかった。この一点が、牽牛子塚古墳=斉明天皇陵説に不利だった。

 それが解消されたことになる。考古学史上、画期的発見といえる。思わず「日本書紀ってホンマのこと書くんや」とつぶやいてしまった。

 来る日曜日、珍しく外勤がない。現地説明会に行けるじゃないか。

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2010.12.16

12月4日~8日の中村武生

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12月4日(土)

 名古屋市の栄中日文化センターに出講。龍馬講座。

 今回は大政奉還。まあまあ、いつもの感じ。大政奉還のころ、龍馬や後藤象二郎はどこに住んでいたか、という話などをした。

 少しいつもの懇親会をして、帰宅。

 入浴介護。

12月5日(日)はれ

 山科・醍醐こどものひろばに出講。今年度はじめて。伏見区日野地区をあるく。

 法界寺、誕生院、街道の道標などを小学生にわかりやすく伝えることが使命。たとえばね、という比喩が使えない相手である。その小学生の心を動かせるようなら、安心。今回はどうだったか。また都名所図会に助けてもらった。

 終了後、スタッフSさんとI北さんと懇親。楽しくありました。 

 夜は入浴介護。坂の上の雲をみる。豪華なキャストだ。大河ももとはそうではなかったか。風呂屋がカラになったそうじゃないか。豪華すぎて。風呂に入っている場合ではなかった。今年は知らん人ばっかりだった。ぜんぜん豪華感がなかった。

12月6日(月)はれ

 午前10時、嵐電嵐山駅に集合。江戸時代京都の観光モデルコースをあるくに出講。今回は清涼寺(嵯峨釈迦堂)。よいものがいっぱいあるのに、いかせてない感がつよい寺院だった。

 徳川綱吉の生母桂昌院の品が少なからず展示されていた。だがほとんど解説なし。ええー、それでいいの?

 鐘は先の大戦の金属供出にあわず、室町時代のまんま。足利義政と日野富子の名が記されているのに、その解説もなく、見えもせず。もったいなあ。

 次回は、12月20日(月)午前10時、JR山陰線「嵐山」駅改札集合。二尊院に行きます。

12月7日(火)

 いつもの「基礎からまなぶ日本歴史」に出講。母利美和(もり・よしかず)さんの『井伊直弼』を使わせていただいて、通商条約締結の最近の説をご紹介。

12月8日(水)

 京都女子大学に出講。霊明神社の歴史地理のつづき。次回はついに巡検。朝から霊明神社の参拝。村上神主の許可はいただいている。

 家庭の用事をするために急いでかえる。

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2010.12.15

忠光と薩摩ゾーンと立命館

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 12月1日(水)はれ

 京都女子大学に出講。今回から史蹟論に入る。史蹟はいかにつくられるかというお話し。その題材として、洛東霊山の志士墓地をとりあげる。

 午後から、くずし字入門。中山忠光殺害事件がつづいている。

 必死で殺害を隠そうとする長府毛利家、追及する石田英吉ら天誅組出身の諸隊メンバー、萩の毛利本家も動きだした模様。間にたって苦慮する田耕村庄屋山田幸右衛門(山田幸八)、あわれだ。

12月2日(木)はれ

 NHK文化センター京都教室「幕末をたべる」に出講。

 今回は薩摩志士黒田清隆寓居跡と最近わかった、紙商丹波屋西村安兵衛旧宅の一部を改造した「エピス」を使用(上京区寺町通今出川下ル)。奥の部屋でお食事。料理の評判はよかった。

 食後は地域を散策。隣地にして旧邸宅内の同志社大学「でまちや」の二階にご厚意で入れていただく。二階奥の間はもっとも旧態を残している由。ここに黒田が龍馬がと、お話しする(詳細は拙著『京都の江戸時代をあるく』文理閣、2008年をご参照)。

 そのあと大久保利通邸跡、西郷隆盛寓居「中熊」跡付近、同塔ノ壇邸跡付近をご案内。薩摩ゾーンである。

 たまたま同志社大学今出川キャンパスで「同志社と幕末」展をしているので、希望者をご案内し、新出の二本松薩摩屋敷の絵図を解説する。

 12月3日(金)

 午後から天理大学に出講。洛中惣構をつかっての歴史地理をほぼ終える。次回からはこちらも史蹟論からの歴史地理の予定。

 夜、立命館大学に。来年から京都学プログラム専攻の初のゼミ生が生まれる。それにむけて、木立雅朗(きだち・まさあき)教授から歴史と地理の融合みたいな話を学生さんにしろと依頼があった。

 えらい先生たちが立ち会っている前で中村節をはくのは気がひけたが、望まれた以上せねばなるまい。胃がいたい感じだったが、すき放題言わせてもらった。

 終了後は学生さん多数おこしで懇親会。

 講義ではおとなしすぎる子らが、こんなに中村武生に関心があったかとあきれる思い。講義中も反応してくれていたらなあと思った。

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2010.12.13

後藤象二郎の洛中住居跡に駒札が建った

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 先日、洛中の後藤象二郎寓居、壺屋跡に京都市による駒札(解説板)が建った(中京区河原町通三条下ル二筋目東入ル南側)。

 戦前に京都市教育会が石碑を建立していたが、早くに失われていた。その代わりというわけだ。素直にうれしい。

 ただしこの駒札文は、後藤の壺屋滞在期間を記さない。残念なことである。在京中のいつごろのことかというこだわりは必要だと思う。

 ついつい我々は、京都の後藤の居所といえば、慶応3年10月13日(1867年11月8日)の将軍慶喜による二条城呼び出しの日(大政奉還の意志表明の日)の滞在地と思いたくなる。

 実際そう記した書籍もある(毎日新聞大阪支局『維新の史蹟』1939年)。

 この朝、龍馬は後藤に書翰を送る。後藤もすぐに返事をする。そして二条城から戻るとまた書翰を送った。将軍慶喜が大政奉還の意志表明をしたことを報ずるものである。

 壺屋がそれらの手紙を書いた場所かどうかが問題となる。

 ちなみに菊屋峯吉(鹿野安兵衛)は、このことに証言をしている。

 龍馬が最後の地となる、近江屋新助方に入った時期に関心をもった維新史料編纂官川田瑞穂(雪山)は、1917年(大正6)9月28日、これを菊屋峯吉(当時、数え67歳)らに問う。

 菊屋峯吉こと鹿野安兵衛は、龍馬の近江屋新助方に入った時期を、「たぶん(慶応3年)六月ニ長崎ヨリ上京シ来レル以後ノコト」とし、「大政返上当時(十月ハ慥カニ近江屋ニ居タリ」と述べた。酢屋嘉兵衛方ではないといっているのである。

 それにあわせて、大政奉還当時の後藤の居所に言及する。

「当時、後藤象二郎氏ハ土佐屋敷ノ留守居小屋ニ居リ、頻リニ坂本氏ト往復シタル様子ナリ。後藤氏ガ壺屋ニ下宿シタルハ、其少シ前ノコトニテ、坂本氏ノ酢屋ニ居タル時分ナリ」(岩崎鏡川『坂本龍馬関係文書』第一)

 壺屋は大政奉還以前の居所だというのである。「土佐屋敷ノ留守居小屋」というのは何だろう。邸内の施設だろうか。

 ただしこれが事実かどうかは検討が必要であろう。聞き取った1917年は、大政奉還から50年もたっている。記憶違いもありえることだ。

 岩崎英重(鏡川)は、根拠不明なれど、それに先立つ1898年(明治31)刊行の『後藤象次郎』では、「大仏の藩邸」にいたとする(174頁)。

 信用できる同時代史料(いわゆる一次史料)がない現在、まずは菊屋峯吉(鹿野安兵衛)の証言を信用すべきだと思うが、今後も配意すべきである。

 幕末主要人物の居所は、このような姿勢でさらなる追究が必要と思う。

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2010.12.12

水戸斉昭の激昂をよむ

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11月30日(火)はれ

 午前10時50分、「基礎からまなぶ!日本歴史」に出講。

 安政期にはいった。アメリカのハリスがやってきて、通商条約交渉を行うところ。

 水戸斉昭が江戸城で激昂した。老中堀田正睦(ほった・まさよし)は困惑し、勅許を求めて上洛することになる。この行為が幕末大混乱のはじまりといってよい。越前松平慶永の側近中根雪江の日記にある、水戸斉昭の激昂部分を朗読した。

「老公(水戸斉昭)、イヤ\/何事をか承るへき。元来備中守(堀田正睦)不埒千万也。先達而も存寄あらハ申セとの事なれハ、寡人のおもふ処を申聞セたるに会得し兼るのミならす、備中も伊賀(松平忠固)もクズ\/と申せし由以の外なる事共なるぞ。備中・伊賀ハ腹を切らせ、ハルリス(ハリス)は首を刎て然るへし。切ツテ仕廻へと怒らせ給ふ」

(安政4年12月29日(1858年2月12日)、『昨夢紀事』第2、325~326ページ、( )内は中村武生による注)。

 リアルである。『昨夢紀事』は(続編たちも)ほんとうにありがたい史料である。

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午後から、京都SKYセンターの講演(於京都新聞文化ホール)。「豊臣政権と御土居堀」というお題。熱心な方が多く、質問多く賜る。

夜は当然、入浴介護。

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2010.12.11

鞆の龍馬旧蹟、桝屋清右衛門方に入る

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11月29日(月)はれ

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 鞆ノ浦2日目。

 朝1番で、桝屋桑田清右衛門方へ。龍馬の居所である。旅宿景勝館も、もとは桝屋桑田清右衛門方の旧敷地であるらしい。

 ふだん非公開であるが、今回特別許可をいただいた。参加者30名が、3組にわかれて10人ずつ「隠し部屋」(写真)に入った。

 これは感激した。

 龍馬の数少ない確実な居所のひとつであるだけでなく、時期も特定できるめずらしい地である。慶応3年4月24日(1867年5月26日)~4月27日+α(おそらく29日)である。

 そうすると、4月27日付(推定慶応3年)の、有名な「きみへ(君江)におつかハ(遣わ)し被成度(なされたし)。あれハ今どこにおるかしらん。たゞきづか(気遣)い候」と記した、寺田屋とせ宛の龍馬書翰(宮地佐一郎『龍馬の手紙』PHP文庫、293頁)は、この地(この部屋)で書いたことになる。

 君江は龍馬の妻鞆(龍)の末妹である。慶応元年9月9日(1865年10月28日)付、姉乙女宛の書翰に「殊の外の美人」と記した、当時「十三歳の女(むすめ)」である(前掲『龍馬の手紙』113頁)。

 当日、「隠し部屋」に「龍馬の机」がつくられ、この手紙の複写がおいてあった。それで気づいた。

 すると4月28日付(慶応3年)、菅野覚兵衛・多賀松太郎(高松太郎)宛書翰も、この地で書いたはず(前掲『龍馬の手紙』295~296頁)。

 ちなみにもっといえば、慶応3年5月中旬と推定されてきた、後半が欠失している寺田屋伊助宛書翰(「取巻抜六」と署名したもの)も、僕は4月27日付書翰と同時に出されたものと考えている(前掲『龍馬の手紙』312~313頁)。

 5月中旬と推定されてきた根拠は、「長崎の方へ帰り申候」とある点である。編者宮地さんは、鞆から「長崎に帰着後、書いたものと判断」された(前掲『龍馬の手紙』314頁)。

 が、それをいうなら、前掲4月28日付(慶応3年)、菅野覚兵衛・多賀松太郎(高松太郎)宛書翰も、「是より」とはっきり書いているとはいえ、同じく「長崎へ帰り申候」と記しているのである。

 両書翰は、海援隊長に就任したこと、いろは丸事件が起きたことを列記しており、その点で同内容である(後半は伊助宛は欠失しているので比較できない)。

 これにくわえて、君江を気遣った寺田屋とせ宛の書翰は、いろは丸事件のさなかの鞆で書いたわりには、あまりに文章が短く、いろは丸事件にもふれない。

 別に本旨を伝えた書翰があったと考えるが自然である。伊助宛のこの書翰がそれだろう。

 そのように考えると龍馬書翰のうち、3通もこの場所で書いたということになる。

 手紙の執筆場所が特定できるなんて、すごいことだ。幕末史の場所論を追及するものとして実にありがたい。しかもその建物が現存しているのだ。何ということか。

 すごいな鞆町、おそるべし桝屋桑田清右衛門方、みたいな話を現地で簡略にした。

 そのあと、「平成いろは丸」に乗って、鞆の沖にある仙酔島(国名勝鞆公園のうち)にわたった。

 受講者の一人が、桝屋清右衛門方に入ったことを仙酔島にある国民宿舎(龍馬伝パネル展をしている)の人に述べたところ、「住民もいまだ入れていません、あなた方はどういう団体の方ですか」などと問われたそうな。

 そんなに貴重な体験をしたと知らなかった。あらためて感動する。

 沖から桝屋清右衛門や、前夕、オプションで行った大坂屋上杉邸遺構(対仙酔楼)をのぞむ(写真。ホテルに囲まれるようにある民家。右が桝屋、左が大坂屋)。すばらしい。

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 帰港ののち、福山町に移動する。ここの昼食が受講者に評判がよかった(魚好人一休・花園店)。

 昼食後、福山城跡と旧城下町をあるく。福山はペリー来航時の老中首座、阿部正弘の本拠である。まったく幕末に無縁ではない。

 福山は米軍の空襲にやられたので、ふるい面影は少ない。

 が、さがせばいくらでもあるのだという、いつもの中村武生の古地図をつかった歴史地理巡検を敢行。

 福山城跡で伏見櫓(国重文、確実な山城伏見城松ノ丸の遺構)や黒鉄門をみて、城下町の東、惣構(そうがまえ)の堀跡の外の寺町地区をあるく。ここからの天守(模擬)の眺望はすばらしかった。賢忠寺で水野勝成と殉死者の掃苔(墓参)(県史蹟)。

 三ノ丸北御門外枡形石塁(市史蹟)を西へ通り、旧城下町に入る。舟入跡が地割として生きていることを示す。道路の方向が周囲とちがう。これも遺跡のひとつだ。

 ここでタイムオーバー。約2時間半の行程でした。

 なれている方はいいのだが、なれていない方はどうだったろうか。添乗員さんは終わったあと、足がぱんぱんになったみたいなことをいっておられた。

 午後4時すぎ、福山をたつ。車内で、小宴会。なつかしい、意義深いビデオもみる。

 京都着は午後8時。担当Y田Mどり係長、M尾T子さんのお迎えあり。有志で懇親会。誘われて2次会にも。

 楽しい2日でした。ありがとうございました。

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2010.12.09

11月27日から11月28日までの中村武生

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11月27日(土)はれ

 名古屋市の栄中日文化センターに出講。龍馬講座。海援隊誕生といろは丸事件について論じた。海援隊誕生につき、木戸孝允宛の石田英吉の書翰がおもしろいと紹介した。

 終了後、いつもの懇親会をお断りして、愛知県図書館に行く。関西圏のどの図書館にも所蔵されていない(古書店でも見当たらない)書籍を複写に行く。2時間半ほど滞在。知らない史料にも気づいたりで、ひさしぶりに学生に戻ったような気分だった。本日は入浴介護なし。

11月28日(日)はれ

 本日から、京都新聞旅行センターの「中村武生と行く!坂本龍馬、鞆の浦史跡へ」に出発。参加者30人。使用したのは帝産バス。カリスマバスガイドの藤岡さんが来て下さる。

 いろは丸事件談判地のひとつ、旧魚屋万蔵方(御舟宿いろは)で昼食。経営者の松居さんに鞆ノ浦裁判のお話をしていただきたかったが、ご多忙すぎてあきらめる。

 午後からは鞆の市街地を巡検。

 対潮楼こと福禅寺(国史蹟、談判地のひとつ) → 雁木(港の遺構) → いろは丸展示館 → 太田家住宅(国重文、県史蹟) → 鞆城跡 → 桝屋桑田清右衛門の墓(法宣寺、龍馬の旅宿の主人、写真) → 沼名前神社 → 旅宿(景勝館、桝屋桑田清右衛門方の旧敷地)

 太田家住宅(旧中村家)では、鞆の町を守ってこられた先人のひとり、大井幹雄さんにご案内いただき、普段は見学できない2階にも足を入れさせていただいた。

 太田家住宅(旧中村家)は、七卿が都落ちのときと、禁門の変の際の京都出兵のおりの二度使用している。

 いずれの地も、ことごとく信用できる同時代史料によって裏付けられる。これが鞆町の幕末史蹟のすごいところ。

 予定より早めに終わったので、旅宿に入ったあと、オプションで希望者だけ第二次巡検を敢行した。紀州方の旅宿跡円福寺や、頼山陽の住居となった大坂屋上杉方(対仙酔楼)などをご案内する。

 夜は宴会のあと、有志で一室に集まり大河ドラマ「龍馬伝」最終回を見る。あまりの内容に、終始ぼやき続ける。

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2010.12.02

11月22日から26日までの中村武生

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11月22日(月)くもりのち雨

 午前10時から上賀茂神社で私的な祭礼。家族総出。お昼は南下して、木屋町御池上ルの「幾松」を使わせてもらう。お世話になりました。

 お店を出るころ、雨ふりだす。

 夕方、京都女子中学・高校で講演。「龍馬とお龍の出会いの地―京都女子学園の歴史地理」というタイトル。女子大学にはなれてきたつもりだけれど、女子中学・高校はまた違う。でもとても聞き上手な学生さんばかりで、楽しく過ごせました。

 終了後は教員方と懇親。熱心な先生方で、感服。

 急いで帰って、遅ればせながら入浴介護。

11月23日(火)はれ

 午前中、京都市北区の加茂川中学校へ。北区役所主催の「御土居ウォーキング」に出講。300人ほどの参加者に30分、御土居堀のはなしをする。

 そのあと、大宮土居町(玄啄下)の史蹟指定地に移り、そこでミニ講座を3回する。熱心な人多く、圧倒された。

 ミニ講座のさなかに拙著にサインを求められて絶句したが、運よく出来た。

 参加者はこのまま南下し、平野地区の御土居堀跡をあるいていかれた。

11月24日(水)はれ

 午前中、京都女子大学に出講。「板倉筑前介の歴史地理」の巡検をする。

 大仏地区に龍馬が住んだりした幕末空間は、板倉筑前介らの意図したことからすべて始まるという仮説を現地で改めて語る。

 伏見街道五条(本町一丁目)の板倉邸跡や実弟江馬俊吉(天江)邸跡まであるく。本当は中岡慎太郎が板倉を訪ねた松原木屋町の料亭跡なども訪ねたかったが、タイムオーバー。

 午後からはよみうり文化センター京都教室に出講。龍馬の刺客の逃亡ルートをあるく。渡辺篤の回想録を採用する。

 河原町蛸薬師の近江屋跡から南下し、四条通を西へ。本当はそのまま千本通まで行って北上し下立売通まで進むのだが、時間と体力を考慮し、烏丸通で地下鉄に乗り、二条駅前までワープする。

 ここからはちゃんと下立売通智恵光院上ルの寺院まで歩く。刺客のひとり佐々木只三郎の居所だったと渡辺は言う。それを疑うことはできないのだが、問題はその寺である。「やす寺」こと松林寺がその場所だと広く知れているが、この説は疑わしい。根拠をご存じですか。

 オプションで、徳川の若年寄格、永井尚志(ながい・なおゆき)居所跡である郡山屋敷跡に行く。龍馬が「ヒタ同心」と手紙に記した相手。龍馬殺害後は、後藤象二郎や福岡孝弟らに刺客は新選組ではないのかと乗りこまれた場所。重要である。

 書籍やネット上の史蹟案内ものに紹介されることが少なくないが、史料根拠を示したものを見たことがない。ご存じですか。

 終了後は二条駅前まで戻り、参加者と懇親会。楽しく過ごしました。帰宅後はもちろん入浴介護です。

11月25日(木)はれ

 京都新聞文化センターに出講。龍馬の葬送ルートをあるくというタイトルで、巡検。前日にも立った近江屋新助方跡から洛東霊山の霊明社(現霊明神社)にむかう。

 8世神主村上繁樹さんご夫妻、関係者廣森さんが歓迎くださる。

 霊明神社からほんらいの参道を通って龍馬らの墓参が出来ない。ゆえに一度階段をおりて、霊山護国神社の入場ゲートから300円支払い、霊明社旧境内にある龍馬の墓前にたつ。みなで柏手を打つ。これが正しい作法。龍馬らは神霊されているのですからね。線香や合掌は仏式ですよね。なんか変。

 遅くなった。それでも祇園でミニ懇親会をする。帰宅後はやはり、入浴介護。

11月26日(金)はれ

 午前中、北区鷹ヶ峰で「徳川時代 公儀 鷹ヶ峰薬園跡」の石碑除幕式を行う(既報)。お昼は参加者と懇親会。

 そのまま奈良県天理市へむかう。午後は天理大学で講義。また地理学からみた歴史地理と歴史学からみた歴史地理の視点のちがい、みたいな内容。

 急いで帰って入浴介護。

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