滝口寺と祇王寺でいろいろ考えた
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12月27日(月)はれ
午前9時、JR嵯峨嵐山駅に集合。
「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」、今年最後の巡検。嵯峨地区。
まず安堵橋と油掛地蔵に行こうと思っていたが、ルートの問題点を地元の参加者S貝さんに指摘された。したがう。
法然の弟子が建立した、往生院跡に立地する祇王寺と滝口寺に向かう。
いつものように、『京都市の地名』(平凡社)を頼りにしたが、驚いた。
まず「往生院」が立項されていない。
何度も申し上げたつもりだが、平凡社の『~の地名』は僕がもっとも信頼を置く地名辞典である。
とくに『京都市の地名』は、僕の観光地案内にほぼ全面的に依拠している。それが、である。
往生院は、実在のあやしい寺ではない。
たとえば応永33年(1426)9月、足利義持の命により製作されたと伝わる「嵯峨諸寺応永鈞(きん)命絵図」に載っているし(高橋康夫ほか編『図集日本都市史』92ページ、伊藤毅氏執筆部分)、文明17年(1485)9月10日、足利義政が「尺(釈)迦堂」参詣のあと訪問している(「親元日記」『大日本史料』当該部分)。
まず滝口寺に入る。
新田義貞首塚碑がある。側面には新しそうな勾当内侍の五輪塔もあった。
これまた『京都市の地名』の「滝口寺」項にその記載がない。
1894年(明治27)に富岡鉄斎が建立したものらしいが(さまざまな施設に邪魔されて碑石にちかづけず、銘が読めない)、「太平記」巻20に、義貞の獄門首をみた京都妻勾当内侍(こうとうのないし)が、「嵯峨ノ奥ニ往生院ノアタリナル柴ノ扉(とぼそ)」で供養をしたとあるのが根拠であろう(日本古典文学大系『太平記』2巻、327ページ)。 ただ供養をした地「往生院のあたり」といっているだけで、首を埋めたとはない。
義貞の首塚は他地域にも2か所あるし、まあ事実とは思えない。実証困難である。
滝口寺が参観者に配布しているチラシに以下の記載があった。
もと三宝寺(三宝院)といったが、近代になって、佐々木信綱博士が、高山樗牛著『滝口入道』にちなんで「滝口寺」と命名したとある。
いえいえそんなに新しくないです。江戸中期の観光ガイドブック『都名所図会』巻4「三宝院」の挿図に、すでに「滝口寺」とあります(『新修京都叢書』6巻、371ページ)。 もっと古いです。残念だ。
滝口入道の恋人だった横笛の歌を刻んだ「台石」があると、『都名所図会』に記載されている(前掲373ページ)。
それだという石の横に「滝口と横笛の歌問答旧跡 三宝寺歌石」と示す、1932年(昭和7)5月建立の標石があった。
向かって右側面に嵯峨村長(当時)小林吉明の和歌が刻まれていたので、一瞬未知の三宅清治郎建立碑かと思った。
書体が似ていたのと、嵯峨の三宅清治郎建立碑にも小林吉明の和歌を刻んだものがあったから。
書は「杵屋佐助」なる人による。この人、知らない。
同じく向かって左側面に「昭和七季五月勾当内侍供養」の日に、「大阪下村清治郎」が建てたという。
そこで気づいた。さっきの新しいと思った勾当内侍五輪塔の建立日に、いっしょに建てたのだ。
で、さっきの五輪塔にもどってみた。
何か刻んでいないか。
やっぱり、刻まれていた。
「昭和七年五月作曲記念/杵屋佐吉一門/佐門会建之/賛助小林吉明」だ。
作曲? 杵屋佐吉一門? 芸能人か?
あとからわかった。長唄三味線の名跡なのだった。
杵屋佐吉は世襲名で、現在は7代目になられる。この標石を建てたのは4代目のようだ。「滝口と横笛」みたいな歌をつくられたのだろう。
こうして史蹟はつくられる、いつもの話だな。楽しかった。
ついで祇王寺に入る。
ここでも『京都市の地名』の誤りにきづいた。
祇王寺の由緒を、往生院が「中世以降荒廃していたのを『平家物語』『源平盛衰記』の遺跡として明治に復興し、往生院祇王寺と名付けた」と記している(1078頁)。
ちがいます。祇王寺の参道に、貞享4年(1687)銘の「往生院きおうし」と刻む標石をみつけた。
つまり江戸前期にもう「往生院祇王寺」と呼ばれているわけだ。
境内に五輪塔と宝筐印塔が並んでいて、「清盛公供養塔」と「祇王・祇女・母刀自の墓」と記す駒札があった。
これら五輪塔や宝筐印塔らしきものは『都名所図会』にも載っているが(前掲372ページ)、当時は4つ以上あったようにみえる。
しかも宝筐印塔らしきものには、「祇王・祇女・仏・刀自」とある。
仏御前(「仏」)が消失している。
でもね、そのそばに建つ、明和8年(1771)の旧蹟碑(「祇王・祇女・仏・刀自之旧跡」、こんなものが残っていることに感激)には、「四尊尼墓」とあります。4人の尼なわけですよね、3人でなくて。
混乱している。情報整理が必要だろうな。おしい。
楽しい半日だった。
解散後、余韻をもって、昼食もせず、単身宝筐院に参拝した。
楠木正行首塚と足利義詮の墓がある。この真偽については深く立ち入らない。
問題は楠木正行の歌碑である。
その寄付者が裏面に記載されていた。「中村寿田」である。
これは富小路錦小路にあった中村石屋の人である。
なぜそんなことに関心があるかといえば、三宅清治郎の用達なのである。三宅碑の大半はここが請け負った。
金地院の父安兵衛の墓石もここがつくった(三宅清治郎日記によりわかる)。
「富錦」中村石屋が製作した石柱(石碑)は、洛中洛外の各所に現存する。
三宅碑調査の一環でこれも追っているが、今回未知のものを知ったわけだ。ありがたいなあ。
三宅碑論文も遅れている。すいません。池田屋事件が脱稿したら、すぐします。
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