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10月28日(木)あめ
京都新聞文化センターに出講。龍馬講座。
龍馬の大政奉還の空間をあるく。
三条京阪駅に集合し、まず酢屋中川嘉兵衛方(木屋町三条下ル一筋目西入ル北側)に向かう。京都市教育会が1928年に建てた「坂本龍馬寓居之趾」標石がある。
この地に建つ解説板には、大政奉当時(慶応3年<1867>10月14日)の龍馬の居所であるという。龍馬は殺害直前の11月初旬、越前福井から帰京したのち、殺害現場となる近江屋新助方に移ったとある。
この根拠は、岩崎英重(鏡川)「坂本と中岡の死」であろう(『坂本龍馬関係文書』2巻、 360頁、1926年)。典拠は「井口新之助談話」とある。井口新之助は近江屋新助の子である。
ただこの成果には疑問がある。
1917年(大正6)9月27日および28日、龍馬研究者だった川田瑞穂(雪山)が、龍馬存世当時の中川嘉兵衛の子、近江屋新助の子井口新之助、菊屋峯吉こと鹿野安兵衛の三者から聞き取りをした。
これによれば、井口新之助は、近江屋に龍馬が入ったのは殺害の「前年ノ暮カ当年ノ春頃ヨリト思フ」とある(『坂本龍馬関係文書』1巻、449頁、1926年)。
岩崎英重「坂本と中岡の死」は事実に反したことを記していることになる。
当然のことながら、川田も、龍馬が近江屋に移ったのは「慶応三年春夏以後ノコトナリ」。「随(したがっ)テ大政返上当時ハ、近江屋ニ在リタルコト明白」と断じた(『坂本龍馬関係文書』1巻、 449~452頁、1926年)。
この成果を、岩崎英重(鏡川)は川田瑞穂から書翰で受けて知っていたのである。書翰がちゃんと岩崎編の『関係文書』に載っているからである。
井口新之助の談話のすべてが信用できないことは周知のことであるが、それはともかく岩崎はそれを根拠にしたのだから、殺害直前に近江屋へ移ったなんて話は出てくるはずがない。岩崎はどうしたことだろう。
ちなみに今回の大河「龍馬伝」でも、あいかわらずこの説が使用されるらしい。殺害直前に近江屋新助方に移るらしい。大政奉還は酢屋嘉兵衛方で知るということか。
そんなことを「坂本龍馬寓居之趾」標石の前で受講者に語った。
なおそのあと我々は、後藤象二郎寓居とされる壺屋跡に移り、ほんとうにここが大政奉還当時の後藤の居所といえるか、何が根拠か論じた。
だって岩崎鏡川『後藤象次郎』(1898年)には、後藤は二条城から「大仏の藩邸」に帰ったとあるもの。「大仏の藩邸」とは智積院のことである。さあ、どちらが正しいのでしょう。
ついで土佐屋敷跡から近江屋跡へ移り、ふたたび壺屋跡付近を通って二条城へ向かった。後藤の登城を模してみるわけである。
けっこうな距離があった(らしい)。ひとりの受講者は途中リタイヤ。ひとりはタクシーで単身二条城にこられた。
城内二の丸大広間で、信用できる史料にもとづいて大政奉還シーンの復元を試みた。自動で流れる解説の誤りを正しておいた。いつまでこの虚構が、参観客を事実から遠ざけつづけるのだろう。
その日、二の丸大広間には「大名」は来ていません(久住真也『幕末の将軍』246~248頁、講談社、2009年)。