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2010.08.29

龍馬伝第35回をみた

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 龍馬伝第35回「薩長同盟ぜよ」をみた。

 このコメント、ひさしぶりである。いそがしいこともあるが、やってられんからである。

 今回も突っ込みどころ、満載、ほんとうに満載だった。

 木戸孝允が二本松薩摩屋敷に入ったあと、龍馬も三吉慎蔵と二本松屋敷に着いた。が、新選組が付近にいたから入れなかった。そして伏見の寺田屋に入った。なんでやねん。

 伏見は京都から約8キロ南にはずれた、別の町である。紀伊郡伏見町である。大坂からきた龍馬は伏見を通って、上洛している(「三吉慎蔵日記」『坂本龍馬全集』4訂、695ページ)。

 なんでわざわざ上京(かみぎょう)に入ったのに、また伏見へ戻るか。失礼ですが、番組制作者は地理的感覚がおかしい。

 そういえば寺田屋に入った龍馬に、お龍は「京から離れてください」と願っていた。だから離れてるじゃんか、と突っ込むべきだ。伏見は京都じゃないよ。伏見を京都と思っておられるのではないか。

 それから寺田屋にいるお龍と龍馬は「他人」ではない。お龍の回想によれば、今回の舞台である慶応2年(1866)1月より1年半前の元治元年(1864)8月に内々の結婚式をしている。夫婦なのである。お龍の回想を疑う理由はない。

 まだあるぞ。寺田屋に入った龍馬を、平気で登勢やお龍は「龍馬さん」といっているが、当時の龍馬は薩摩島津家家臣「西郷伊三郎」を名乗っている。「西郷さん」と呼ぶべきだ。危険だ、危険だといっているわりには2人の女は発言が軽率すぎる。

 近藤勇ら新選組が見廻組に土下座していた。ありえない。前年11月、大目付永井尚志の側近として、近藤勇は長州に入っている。近藤の当時の社会的地位は決して低くない。

 会津支配下の新選組と直参見廻組にはたしかに身分差はあるが、近藤の実力や新選組のこれまでの実績を考えれば、ああいうシーンは考えられない。

 少なくとも見廻組と新選組には上下関係はない。誤解される。

 守護職屋敷で近藤勇は建物の外で土下座していたし、「だまれ」みたいなこともいわれていたが、そういうこともありえない。

 そうそう弥太郎が拷問されていた「新選組屯所」ってどころだろう(いうまでもなく弥太郎は新選組に捕まったことはない)。

 当時の新選組の旅宿は、西本願寺である(慶応元年3月から)。が、ドラマの「屯所」いうところは、市中にあった。なんでだろう。

 なぜお龍が吉井幸輔を紀伊郡伏見町の寺田屋に連れてこれたのか。吉井幸輔は京都留守居役である。京都の薩摩屋敷のトップなのである。人を使わずほとんど単身で来るだろうか。いやいやそれはいいや、それよりも吉井と龍馬は初対面みたいだった。

 ばかな。龍馬と吉井は、少なくとも元治元年7月にはともに神戸の勝海舟邸から上洛をしている(「海舟日記」)。既知の関係である。

 紀伊郡伏見町からの上洛であるから、当然竹田街道を使ったはずだ。洛中に入ると竹田街道は東洞院通に呼称が変わる。まっすぐ進めば今出川通の北に二本松の薩摩屋敷がある。

 ところが龍馬は突然、新選組屋敷に寄ってくると言った。吉井らは雪のなか待ちぼうけをさせられた。気の毒に。何時間待たされるつもりだったのだろう。先に二本松屋敷へ行っているといわないなんて、なんてお人よしな人。

 西本願寺の新選組屋敷なら七条堀川上ルなので、吉井らは東洞院通七条あたりで待たされたということか。現在のアパホテルのあたりですね。

 でもなんで雪なのだろう。東洞院通七条下ル(葛野郡東塩小路村)の農民、若山要助の日記によれば、慶応2年1月22日は「雨下(ふる)」であって、雪ではない。

 この冬は暖冬だったのか、前年の12月19日と20日に「雪雨」「雪じまき」があってからは、2月10日に「晴少々雪」とあるまで、まったく雪の記載はない(『若山要助日記』下、283~286ページ)。

 新選組屋敷の外で、龍馬らは岩崎弥太郎を拾う。三吉慎蔵は龍馬に二本松薩摩屋敷行きを勧めて、弥太郎は寺田屋に連れて行くと言った。

 それだけでも、ええーっなのに(下京にもほかに宿があるやろ、錦小路の薩摩屋敷だってあるし。雪の中、ケガ人を約8キロも離れた紀伊郡伏見町の寺田屋に連れて行くなんて信じられない)、薩長同盟会議終わって二本松屋敷から出てきた龍馬を外で三吉が待っていた。上京と伏見ってどんだけ近いねん。やっぱり伏見を洛中にあると思っておられますね。

 いい忘れたが、実は三吉は寺田屋にとどまり、龍馬とともに上洛はしていない。

 龍馬と同行して上洛したのは、新宮馬之助(寺内新左衛門)と池内蔵太(細川左馬助)である(「三吉慎蔵日記」『坂本龍馬全集』4訂、695ページ)。だからこのあたり、ほとんどフィクション。みもふたもない。

 薩長同盟シーン。小松帯刀屋敷が舞台だったが、確たる史料があるわけではない。二本松薩摩屋敷の可能性もある。

 小松帯刀屋敷の位置は、上京の室町頭(室町通上立売上ル付近)と、桐野作人さんの調査・研究によりほぼ特定できた(『歴史読本』2010年3月号掲載の論文)。

 にもかかわらず、「龍馬伝」紀行で一条戻り橋ちかくが映されたのは、そこに「小松帯刀寓居参考地」碑が建っているからである(2008年、京都歴史地理同考会建立)。すべての責任は同会理事長の僕にある。現在、抜本的是正を検討している。

 龍馬は(薩長と無関係である)フリーの土佐亡命志士という扱いだが、ちがう。龍馬は薩摩の代理人(エージェント)として長州を説得してきたのである。だから「島津家家臣西郷伊三郎」と名乗れた。いやたんに名乗っただけではなく、事実上島津家家臣だった可能性もある(西川吉輔風説留、『街道の歴史と文化』5号所収の宮地正人さん論文、13ページ、2003年)。

 薩長同盟、五カ条だとか六カ条だとかいっていたが、それは「龍馬伝紀行」にも映った、龍馬宛の木戸孝允の手紙に記された木戸の記憶による。

 当日、その場で記されたものではない。小松や西郷らが木戸にどういう形で誓約をしたかはよくわからない。

 そのとき、龍馬は何をしていたのかもよくわからない。ほんとうにドラマのように仲介役だったのか、ちがうのではないか。ただ横で見ていただけではないのか(もちろんそれで価値が下がるわけではない)。

 大事な五か条目の解釈がまちがっていた。「幕府軍が一橋・会津・桑名と組んで朝廷を取り込もうとしても、薩摩はあくまで戦う」と西郷がいった。

 ちがう。どこにも「幕府軍が」なんて言葉は出てこない。「一橋・会津・桑名が」主語である。

「一橋・会津・桑名が朝廷を擁して、長州征討を継続し、長州の社会復帰を妨害するなら、薩摩はついに決戦に及ぶほか手はない」、である。

 つまり薩摩の敵は「幕府」ではなく、「一橋・会津・桑名」だと少なくとも木戸の手紙は記している。「討幕」などいっていないのである。

 ただしそれが薩摩の本音かどうかはわからない。最近、注目されている美濃・中津川の市岡家文書に記された黒田清隆のいう薩摩の本音は、徳川将軍政府との対決である。ただしこれが事実かどうかは今後検討が必要である(前掲『街道の歴史と文化』5号所収の宮地正人さん論文、13ページ、32ページなど)。

 とりあえず現段階では、木戸の手紙が薩長同盟のすべてではないことは知らなければならない。

 その日も「1月22日夜」になっていたが、21日の可能性が高い。時間はわからないと思う。

 二本松薩摩屋敷には会津の隠密がいて、即日薩長同盟の成立が会津に伝わっていた。すごいな。そんな諜報集団がいるのなら、新選組なんていらないじゃん。

 龍馬の寺田屋襲撃は、指令ルートがちがうようだ。それについてはまた来週って、来週書く気になるかわからないけど。

 時間をとってしまった。

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