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2010.08.30

山科本願寺・寺内町を案内する

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 本日、太田浩司氏(おおた・ひろし、長浜市長浜城歴史博物館参事)が西上。午前9時、JR山科駅で合流。

 戦国時代屈指の都市・城郭である、山科本願寺・寺内町(じないまち)跡をご案内する。来月中旬に、長浜城歴史博物館友の会で見学会がある由。その事前、レクチャーを依頼された。

 本当は当日講師の依頼をいただいたのだが、先約があり無理だった。だから事前レクチャーとなったわけ。太田さんは僕の恩人にして大好きな人なので、ひとつ返事で引き受けた。

 午前中だけという約束だったが、太田さんの執拗なこだわりに任せていたら、結局JR山科駅で別れた時、午後4時だった。

 とても暖かい日だった。どんだけ自販機に頼ったか。終了目前には氷いちごも食したぞ。さすがに参った(でも昼はラーメンだった)。

 が、意義深い日だった。専門家へ史蹟案内をしたのは久しぶりである。太田さん、質問が中村好みすぎる。

 帰途には、NPO法人山科醍醐こどものひろば(山科区竹鼻)の事務所に寄せていただいた。

 以前、同会は今回の巡検にとても適切な冊子をつくっておられる。それを下さいとわがままをいった。理事長朱まり子さん、快諾くださり頂戴した。ありがとうございました。太田さんにそれを渡す。きっと当日役立てて下さるだろう。

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2010.08.29

龍馬伝第35回をみた

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 龍馬伝第35回「薩長同盟ぜよ」をみた。

 このコメント、ひさしぶりである。いそがしいこともあるが、やってられんからである。

 今回も突っ込みどころ、満載、ほんとうに満載だった。

 木戸孝允が二本松薩摩屋敷に入ったあと、龍馬も三吉慎蔵と二本松屋敷に着いた。が、新選組が付近にいたから入れなかった。そして伏見の寺田屋に入った。なんでやねん。

 伏見は京都から約8キロ南にはずれた、別の町である。紀伊郡伏見町である。大坂からきた龍馬は伏見を通って、上洛している(「三吉慎蔵日記」『坂本龍馬全集』4訂、695ページ)。

 なんでわざわざ上京(かみぎょう)に入ったのに、また伏見へ戻るか。失礼ですが、番組制作者は地理的感覚がおかしい。

 そういえば寺田屋に入った龍馬に、お龍は「京から離れてください」と願っていた。だから離れてるじゃんか、と突っ込むべきだ。伏見は京都じゃないよ。伏見を京都と思っておられるのではないか。

 それから寺田屋にいるお龍と龍馬は「他人」ではない。お龍の回想によれば、今回の舞台である慶応2年(1866)1月より1年半前の元治元年(1864)8月に内々の結婚式をしている。夫婦なのである。お龍の回想を疑う理由はない。

 まだあるぞ。寺田屋に入った龍馬を、平気で登勢やお龍は「龍馬さん」といっているが、当時の龍馬は薩摩島津家家臣「西郷伊三郎」を名乗っている。「西郷さん」と呼ぶべきだ。危険だ、危険だといっているわりには2人の女は発言が軽率すぎる。

 近藤勇ら新選組が見廻組に土下座していた。ありえない。前年11月、大目付永井尚志の側近として、近藤勇は長州に入っている。近藤の当時の社会的地位は決して低くない。

 会津支配下の新選組と直参見廻組にはたしかに身分差はあるが、近藤の実力や新選組のこれまでの実績を考えれば、ああいうシーンは考えられない。

 少なくとも見廻組と新選組には上下関係はない。誤解される。

 守護職屋敷で近藤勇は建物の外で土下座していたし、「だまれ」みたいなこともいわれていたが、そういうこともありえない。

 そうそう弥太郎が拷問されていた「新選組屯所」ってどころだろう(いうまでもなく弥太郎は新選組に捕まったことはない)。

 当時の新選組の旅宿は、西本願寺である(慶応元年3月から)。が、ドラマの「屯所」いうところは、市中にあった。なんでだろう。

 なぜお龍が吉井幸輔を紀伊郡伏見町の寺田屋に連れてこれたのか。吉井幸輔は京都留守居役である。京都の薩摩屋敷のトップなのである。人を使わずほとんど単身で来るだろうか。いやいやそれはいいや、それよりも吉井と龍馬は初対面みたいだった。

 ばかな。龍馬と吉井は、少なくとも元治元年7月にはともに神戸の勝海舟邸から上洛をしている(「海舟日記」)。既知の関係である。

 紀伊郡伏見町からの上洛であるから、当然竹田街道を使ったはずだ。洛中に入ると竹田街道は東洞院通に呼称が変わる。まっすぐ進めば今出川通の北に二本松の薩摩屋敷がある。

 ところが龍馬は突然、新選組屋敷に寄ってくると言った。吉井らは雪のなか待ちぼうけをさせられた。気の毒に。何時間待たされるつもりだったのだろう。先に二本松屋敷へ行っているといわないなんて、なんてお人よしな人。

 西本願寺の新選組屋敷なら七条堀川上ルなので、吉井らは東洞院通七条あたりで待たされたということか。現在のアパホテルのあたりですね。

 でもなんで雪なのだろう。東洞院通七条下ル(葛野郡東塩小路村)の農民、若山要助の日記によれば、慶応2年1月22日は「雨下(ふる)」であって、雪ではない。

 この冬は暖冬だったのか、前年の12月19日と20日に「雪雨」「雪じまき」があってからは、2月10日に「晴少々雪」とあるまで、まったく雪の記載はない(『若山要助日記』下、283~286ページ)。

 新選組屋敷の外で、龍馬らは岩崎弥太郎を拾う。三吉慎蔵は龍馬に二本松薩摩屋敷行きを勧めて、弥太郎は寺田屋に連れて行くと言った。

 それだけでも、ええーっなのに(下京にもほかに宿があるやろ、錦小路の薩摩屋敷だってあるし。雪の中、ケガ人を約8キロも離れた紀伊郡伏見町の寺田屋に連れて行くなんて信じられない)、薩長同盟会議終わって二本松屋敷から出てきた龍馬を外で三吉が待っていた。上京と伏見ってどんだけ近いねん。やっぱり伏見を洛中にあると思っておられますね。

 いい忘れたが、実は三吉は寺田屋にとどまり、龍馬とともに上洛はしていない。

 龍馬と同行して上洛したのは、新宮馬之助(寺内新左衛門)と池内蔵太(細川左馬助)である(「三吉慎蔵日記」『坂本龍馬全集』4訂、695ページ)。だからこのあたり、ほとんどフィクション。みもふたもない。

 薩長同盟シーン。小松帯刀屋敷が舞台だったが、確たる史料があるわけではない。二本松薩摩屋敷の可能性もある。

 小松帯刀屋敷の位置は、上京の室町頭(室町通上立売上ル付近)と、桐野作人さんの調査・研究によりほぼ特定できた(『歴史読本』2010年3月号掲載の論文)。

 にもかかわらず、「龍馬伝」紀行で一条戻り橋ちかくが映されたのは、そこに「小松帯刀寓居参考地」碑が建っているからである(2008年、京都歴史地理同考会建立)。すべての責任は同会理事長の僕にある。現在、抜本的是正を検討している。

 龍馬は(薩長と無関係である)フリーの土佐亡命志士という扱いだが、ちがう。龍馬は薩摩の代理人(エージェント)として長州を説得してきたのである。だから「島津家家臣西郷伊三郎」と名乗れた。いやたんに名乗っただけではなく、事実上島津家家臣だった可能性もある(西川吉輔風説留、『街道の歴史と文化』5号所収の宮地正人さん論文、13ページ、2003年)。

 薩長同盟、五カ条だとか六カ条だとかいっていたが、それは「龍馬伝紀行」にも映った、龍馬宛の木戸孝允の手紙に記された木戸の記憶による。

 当日、その場で記されたものではない。小松や西郷らが木戸にどういう形で誓約をしたかはよくわからない。

 そのとき、龍馬は何をしていたのかもよくわからない。ほんとうにドラマのように仲介役だったのか、ちがうのではないか。ただ横で見ていただけではないのか(もちろんそれで価値が下がるわけではない)。

 大事な五か条目の解釈がまちがっていた。「幕府軍が一橋・会津・桑名と組んで朝廷を取り込もうとしても、薩摩はあくまで戦う」と西郷がいった。

 ちがう。どこにも「幕府軍が」なんて言葉は出てこない。「一橋・会津・桑名が」主語である。

「一橋・会津・桑名が朝廷を擁して、長州征討を継続し、長州の社会復帰を妨害するなら、薩摩はついに決戦に及ぶほか手はない」、である。

 つまり薩摩の敵は「幕府」ではなく、「一橋・会津・桑名」だと少なくとも木戸の手紙は記している。「討幕」などいっていないのである。

 ただしそれが薩摩の本音かどうかはわからない。最近、注目されている美濃・中津川の市岡家文書に記された黒田清隆のいう薩摩の本音は、徳川将軍政府との対決である。ただしこれが事実かどうかは今後検討が必要である(前掲『街道の歴史と文化』5号所収の宮地正人さん論文、13ページ、32ページなど)。

 とりあえず現段階では、木戸の手紙が薩長同盟のすべてではないことは知らなければならない。

 その日も「1月22日夜」になっていたが、21日の可能性が高い。時間はわからないと思う。

 二本松薩摩屋敷には会津の隠密がいて、即日薩長同盟の成立が会津に伝わっていた。すごいな。そんな諜報集団がいるのなら、新選組なんていらないじゃん。

 龍馬の寺田屋襲撃は、指令ルートがちがうようだ。それについてはまた来週って、来週書く気になるかわからないけど。

 時間をとってしまった。

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島原輪違屋で新選組を論ずる

8月28日(土)はれ

 夕方、島原の置屋、輪違屋で1時間、新選組の話をする。JTBのイベントである。いろいろな地域からお越しになったお客がお相手。11人という少人数だった。

 近藤勇の書の前で、最近の近藤勇・新選組論を話すのは名誉なことだった。静かに聴いてくださったみなさま、ありがとうございました。

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2010.08.27

【連絡】基礎からまなぶ日本歴史の時間

 いつもの「中村武生の基礎からまなぶ!日本歴史」のご連絡です。

 次回はいつもと時間がちがいます。ご注意ください。

              ―記―

  日時:2010年8月31日(火)午後3時50分~5時

  場所:キャンパスプラザ京都(JR京都駅烏丸中央口を出て西へ4分)5階3・4演習室

  参加費:ワンコイン(500円)

  講師:中村武生(歴史地理史学者・京都女子大学非常勤講師)

  お題:最近の中村武生、および寛政の改革(高等学校日本史教科書レベル)

  ※予約不要

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2010.08.23

岡田有希子の誕生日

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 昨日、8月22日は岡田有希子(本名佐藤佳代)の誕生日です。

 存命なら、43歳でした(1967年生まれ=昭和42)。

 忘れないことが供養のひとつだと思っております。ゆえに記します。

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2010.08.22

ある幕末志士の書翰を読む

8/20(金)はれ

 146年前、禁門の変がおきた日である(元治元年7月19日は1864年8月20日にあたる)。

 某所所蔵の幕末志士の書翰の翻読が依頼された。差出人が「和泉守」である。もしや真木和泉守では。

 ゆえに「くずし字入門」の仲間たちと読むことにした。

 数日前、別の某所所蔵の「浜忠太郎」の筆跡をみた。浜忠太郎は真木和泉守の変名である。これを記した2日後に真木は亡くなる。絶筆に近い。両者の筆跡は似ているように思えた。さあどういうことになるでしょう。

 次回の「くずし字入門」は、2010年8月27日(金)午前9時10分~10時20分です。いつもと時間がちがいますのでお気をつけください。

 会場は、いつものキャンパスプラザ京都(JR京都駅烏丸中央口から西へ徒歩4分)、5階3・4演習室です(参加費500円)。

 なお「浜忠太郎」の筆跡は、近刊の拙著『中村武生とあるく洛中洛外』(京都新聞出版センター、1470円、10月初旬刊行予定)に掲載予定です。

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2010.08.20

【巡検】下鴨神社へ行きます

 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のご案内です。

 そろそろ「4日目」が終わります。

 次回は下鴨神社へまいります。そのつぎは下御霊神社、革堂、三条終点です。

        -記-

  日時:2010年8月26日(木)午前9時~11時

  集合場所:京阪電車「出町柳」駅改札(※「叡電」駅の改札とお間違えないように)京阪の改札は地下です。

  参加費:ワンコイン(500円)

  同行:中村武生(歴史地理史学者・京都女子大学非常勤講師)

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ふたたび河内将芳博士から玉稿賜る

 先日、高著を下さった河内将芳博士から、ふたたび玉稿を賜った。

 一、河内将芳さん「室町期祇園会と公武政権―見物をめぐって」(『史学雑誌』第119編第6号、2010年6月)

 ありがとうございます。記して謝意を表します。

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2010.08.14

【巡検】知恩寺(百万遍)に行きます

 先日の「江戸時代の京都観光モデルコースをあるく」。

 台風接近のなか、数時間前には落雷が何度もあったのに、ちゃんと参加者があった(4~5名ではない)。雨天なのに吉田山(神楽岡)をいったりきたり。みなさん、熱心すぎますわ。

 そんなか、次回は百万遍知恩寺に行きます。

            記

 日時:2010年8月17日(火)午前9~11時

 集合場所:東大路通今出川(通称「百万遍」交差点)、北東角

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(京都女子大学非常勤講師)

 ※予約不要。雨天決行(ただし警報発令の際は要検討)

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2010.08.11

河内将芳博士から高著を賜る

 昨日、河内将芳博士(奈良大学教授)から以下の高著を賜りました。記して謝意を表します。

 一、『信長が見た戦国京都―城塞に囲まれた異貌の都』(洋泉社<歴史新書y>860円+税、2010年8月刊行)

 戦国京都は「裸」ではなかった。上京と下京がそれぞれ城壁と環濠(惣構・そうがまえ)に囲まれていたこと、信長が安土から鴨川をわたって上洛するおり、三条ではなく五条を通ったこと(当時三条には橋がかかっていなかった!)、最後の夜の本能寺には蚊帳(かや)ばかりつってあった話など、意外な戦国京都像が多数紹介されています。

 専門の研究者によるものですが、実によみやすく、一読をおススメいたします。

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2010.08.10

【巡検】吉田神社へ行きます

 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」次回のご案内です。

 次回は吉田神社(左京区吉田)に行きます。

 日時:2010年8月12日(木)午前9時~11時

 集合場所:「銀閣寺道」(左京区白川通今出川)交差点南西角

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(京都女子大学文学部非常勤講師)

 ※予約不要、雨天決行(ただし落雷時は中止かも)

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2010.08.06

【ご連絡】基礎からまなぶ日本歴史

 いつもの基礎からまなぶ!日本歴史のご案内です。

 次回は、いつもと時間がちがいます。おまちがいありませんように。

                     記

 日時:2010年8月10日(火)午後3時50分~5時

 場所:キャンパスプラザ京都5階、第3・4演習室

 今回のお題:田沼意次政権(高校日本史ていどの内容に、京都史を加味します)

 講師:中村武生(立命館大学文学部非常勤講師)

 参加費:ワンコイン(500円)

 ※予約不要

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2010.08.04

池田屋と母の誕生日と御土居堀と光格天皇と洛中洛外と龍馬と焼き肉

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 知らない間に4日もあいている。多忙すぎ。

 8/2(月)はれ

 今週の「本気で考える池田屋事件」を提出。まもなく講談社メルマガも更新される由。担当Y田さんから、今月で連載終われないかとおススメあり。前向きに検討したい。できれば年内に刊行したいからね。

 本日は母の誕生日ゆえ、親元に行く。

 8/3(火)はれ

 朝から、京都シニア大学に出講。

「京都の城壁・環濠、御土居堀ものがたり」というお題をいただいた。以前にも京都シニア大学には出講したことがある。そのときは上七軒のはなしを望まれた。

 11時45分に終わってすぐ、京都駅前のキャンパスプラザ京都に向かう。

 午後0時30分から、いつもの基礎からまなぶ日本歴史に出講。田沼政権に入る。同時期の宝暦・明和事件にふれる。それが光格天皇とその周辺に与えた影響をのべた。

 年内に幕末に入ることは確実の様相。

 終了後、メンバーと喫茶し、京都新聞出版センターに行く。担当N村K介さんと拙著『中村武生さんとあるく洛中洛外』の校正打ち合わせ。9月刊行見込み。

 そのあと同文化センターの階に行き、担当Y田Mどりさんと龍馬旅行の打ち合わせ。「中村武生と行こう、龍馬の鞆ノ浦の旅」(仮タイトル)が可能か打ち合わせ。日程調整したら、えげつない日にあたった(おもしろい)。さあ、どうなるでしょう。

 夜、有志と集会。おそくまで「歓談」。

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