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2010.07.30

発見されたる龍馬最古の手紙を読んでみて

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 去る7月29日(木)、各新聞夕刊に「龍馬最古の手紙発見」などと報じられた。

 安政2年(1855)9月29日付、「相良屋源之助」宛の書翰である。2回目の江戸遊学の際、江戸到着よりしばらくして記された知人への礼状として、よく知られていたものだった。

 ただし原本が行方不明だった。われわれは1914年(大正3)初版の千頭清臣著『坂本龍馬伝』(35ページ)に引用されたため知っていただけである。

 ながく行方不明だった。だからその後刊行の龍馬史料集のすべて、すなわち岩崎鏡川『坂本龍馬関係文書』上巻、宮地佐一郎『坂本龍馬全集』は千頭清臣著から孫引いてきたのだった。

 正直存在していたとは思っていなかった。各地の戦災によって失われたのかもと思っていた。いやいやそもそも捏造の可能性だってないわけではなかった。それがあったわけだ。本当にありがたい。

 この手紙は、亡命以前の龍馬の居所が、正確な年次とともにわかる稀少な史料だった。そう、安政2年(1855)9月29日、龍馬は確実に江戸にいたことがわかる。しかもその居所は土佐築地屋敷だとも記載されている。なんとありがたい史料であろうか。その現物が出たのである。

 が、今回の発見の意義はそれだけにとどまらない。

 ほかにも過去に存在したらしいのに、未だ発見されていない龍馬書翰がある。今回発見の書翰は、それらが正しく翻読されているのかを知るテストケースとして価値が高い。

 本日、新聞掲載の写真を大きく拡大し、いつもの中村ゼミ「くずし字入門」で受講者とともに読んで見た。

 先週、武市半平太の妻富宛書翰のうち、元治元年(1864)4月5日付のものを読んだばかりだったので、教室に入ると、すでに新聞コピーが回っていて、「これどう読む」みたいな会話が炸裂していた。おそるべし。こっちのおもわくも知らず、受講者はタイムリーな動きをしていたわけだ。なんて熱心な。

 で、みなで読んだ結果、写真不鮮明ゆえ絶対の自信はないが、千頭清臣著『坂本龍馬伝』に掲載された文と、原本にいろいろ相違があることがわかった。

 たとえば、冒頭の追伸部分。

 千頭著には「二白、御家内へも宜敷御伝声可被下候、以上」とあるが、「御家内」の下の一字が読まれていない。おそらく「様」だろう。「御家内様へも」だ。

 「宜敷」の「敷」の字はない。「声」と「可」の間にも二字ありそうだ。ひとつは「申」のようだが、もう一字は読めない。つまり正しくは「二白、御家内様へも宜御伝声■申可被下候、以上」という感じか。

 本文にも、実際にはない文字が加わっている。

 たとえば冒頭「一筆啓上仕候。冷気次第に相増し候」のところ、「に」と「し」はない。つまり「一筆啓上仕候。冷気次第相増候」だろう。

 しんどくなってきた。

 「築地屋敷」も「築地御屋敷」である。「御」がぬけていた。

 そもそも宛先は「相良屋源之助」でいいのだろうか。「助」であるはずのところ、「郎」のように見えるのだが、いかがだろう。「源三郎」の可能性はないだろうか。とにかく不鮮明な新聞掲載写真を読んでいるので、確実なことがいえない。

あと「坂本龍馬」署名のあと、記号がある。花押である。ところがこれまた千頭清臣著『坂本龍馬伝』にはない。龍馬の花押については、最近桐野作人さんが論じておられる。元治元年の書翰についてであるから、それよりもっと早くに存在していたわけだ。

 このように本旨には影響なさそうだが、原文といくつもの差異が見つかった。龍馬にかぎらず、幕末史料は戦前に活字として公表されながら、原本確認できず使用しているものが多い。

 もしかしたら中には全く捏造されたものがあるかも知れない。それを使って歴史像を構築している危険を日々感じている。

 今回は比較的良質な例でよかった。本当に喜んでいる。安堵している。公開される日を楽しみにしている。

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