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2010.07.30

発見されたる龍馬最古の手紙を読んでみて

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 去る7月29日(木)、各新聞夕刊に「龍馬最古の手紙発見」などと報じられた。

 安政2年(1855)9月29日付、「相良屋源之助」宛の書翰である。2回目の江戸遊学の際、江戸到着よりしばらくして記された知人への礼状として、よく知られていたものだった。

 ただし原本が行方不明だった。われわれは1914年(大正3)初版の千頭清臣著『坂本龍馬伝』(35ページ)に引用されたため知っていただけである。

 ながく行方不明だった。だからその後刊行の龍馬史料集のすべて、すなわち岩崎鏡川『坂本龍馬関係文書』上巻、宮地佐一郎『坂本龍馬全集』は千頭清臣著から孫引いてきたのだった。

 正直存在していたとは思っていなかった。各地の戦災によって失われたのかもと思っていた。いやいやそもそも捏造の可能性だってないわけではなかった。それがあったわけだ。本当にありがたい。

 この手紙は、亡命以前の龍馬の居所が、正確な年次とともにわかる稀少な史料だった。そう、安政2年(1855)9月29日、龍馬は確実に江戸にいたことがわかる。しかもその居所は土佐築地屋敷だとも記載されている。なんとありがたい史料であろうか。その現物が出たのである。

 が、今回の発見の意義はそれだけにとどまらない。

 ほかにも過去に存在したらしいのに、未だ発見されていない龍馬書翰がある。今回発見の書翰は、それらが正しく翻読されているのかを知るテストケースとして価値が高い。

 本日、新聞掲載の写真を大きく拡大し、いつもの中村ゼミ「くずし字入門」で受講者とともに読んで見た。

 先週、武市半平太の妻富宛書翰のうち、元治元年(1864)4月5日付のものを読んだばかりだったので、教室に入ると、すでに新聞コピーが回っていて、「これどう読む」みたいな会話が炸裂していた。おそるべし。こっちのおもわくも知らず、受講者はタイムリーな動きをしていたわけだ。なんて熱心な。

 で、みなで読んだ結果、写真不鮮明ゆえ絶対の自信はないが、千頭清臣著『坂本龍馬伝』に掲載された文と、原本にいろいろ相違があることがわかった。

 たとえば、冒頭の追伸部分。

 千頭著には「二白、御家内へも宜敷御伝声可被下候、以上」とあるが、「御家内」の下の一字が読まれていない。おそらく「様」だろう。「御家内様へも」だ。

 「宜敷」の「敷」の字はない。「声」と「可」の間にも二字ありそうだ。ひとつは「申」のようだが、もう一字は読めない。つまり正しくは「二白、御家内様へも宜御伝声■申可被下候、以上」という感じか。

 本文にも、実際にはない文字が加わっている。

 たとえば冒頭「一筆啓上仕候。冷気次第に相増し候」のところ、「に」と「し」はない。つまり「一筆啓上仕候。冷気次第相増候」だろう。

 しんどくなってきた。

 「築地屋敷」も「築地御屋敷」である。「御」がぬけていた。

 そもそも宛先は「相良屋源之助」でいいのだろうか。「助」であるはずのところ、「郎」のように見えるのだが、いかがだろう。「源三郎」の可能性はないだろうか。とにかく不鮮明な新聞掲載写真を読んでいるので、確実なことがいえない。

あと「坂本龍馬」署名のあと、記号がある。花押である。ところがこれまた千頭清臣著『坂本龍馬伝』にはない。龍馬の花押については、最近桐野作人さんが論じておられる。元治元年の書翰についてであるから、それよりもっと早くに存在していたわけだ。

 このように本旨には影響なさそうだが、原文といくつもの差異が見つかった。龍馬にかぎらず、幕末史料は戦前に活字として公表されながら、原本確認できず使用しているものが多い。

 もしかしたら中には全く捏造されたものがあるかも知れない。それを使って歴史像を構築している危険を日々感じている。

 今回は比較的良質な例でよかった。本当に喜んでいる。安堵している。公開される日を楽しみにしている。

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2010.07.29

いそがしすぎてあきません

 いそがしすぎてあきません。

 龍馬伝も事実上、二週見れていません。

 先々週は某所で見ていたのだけれど、お客の政治家団体が店で大はしゃぎしていたので、全然音声が聞こえなかった。見ていないのと同じ。

 もちろん保存していますので、そのうち見ます。感想かけるか自信がないが。

 来週から薩長同盟に動くらしいですね。そうとうひどいことになりそうで、また見ることをさけそうです。

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【巡検】黒谷金戒光明寺に行きます

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 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のご案内です。

 次回は、

 日時:2010年8月10日(火)午前9~11時

 行き先:金戒光明寺(京都市左京区黒谷)

 集合場所:左京区白川通丸太町交差点(「東天王町」交差点)北西角

  参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(立命館大学非常勤講師)

 ※事前予約不要、雨天決行、拝観料などは自弁ください

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2010.07.28

【巡検】真如堂に行きます

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 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のご案内です。

 次回は、

 日時:2010年7月29日(木)午前9~11時

 行き先:真如堂(真正極楽寺、京都市左京区)

 集合場所:市バス「錦林車庫前」停留所(JR京都駅から5番系統など)

  参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(立命館大学非常勤講師)

 ※事前予約不要、雨天決行、拝観料などは自弁ください

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2010.07.26

長浜で龍馬と板倉筑前介を論ずる

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7月24日(火)

 滋賀県長浜市、市立長浜城歴史博物館へ。

 恩人太田浩司さん(同館参事)に招かれて、龍馬の話をしにいく。

 が、こちらとしては、現長浜市下坂中町出身の京都の志士、板倉筑前介(淡海槐堂)を語らずにはいられない。

 板倉筑前介は龍馬の殺害現場に残された、血染めの掛け軸の絵画「梅椿図」の作者として知られる。

 淡海家蔵「淡海槐堂先生畧伝」によれば、龍馬遭難の直前まで近江屋にいて龍馬や中岡慎太郎と雑談をしていたという(西尾秋風氏『龍馬殉難ひろい話』28ページ、私家版、1997年)

 すなわち龍馬ゆかりの人として周知なのだが、それだけではない。七卿落の際には三条実美に経済支援したことや、池田屋事件の際、土佐出身の藤崎八郎を庇護したことなどが記されている。

 これが信用できる同時代史料(いわゆる一次史料)によって裏付けられるか、ということを話題にした。

 結論からいえば、裏付けられる。板倉の政治活動を知れる「一次史料」は意外と多いことを紹介した。

 板倉の存在が、京都(洛東)における龍馬の居住地にまで影響していることを明らかにしたうえで、龍馬との縁は、知られている慶応3年(1867)より4~5年ほど早い、文久3年(1863)や元治元年(1864)にまでさかのぼる可能性を指摘した。

 長浜からは中央政局に大きな影響を与えた人が出たのですよ、というのがこちらの主眼。

 この話は、活字にしたいと思っている。幕末志士居所論にもかかわるし、幕末政治史と京都町人のかかわりの深さを明らかにできるかも知れない。

 終了後は、拙著『京都の江戸時代をあるく』のサイン会。17冊売れた。お買い上げありがとうございました。

 太田浩司さんに米原駅まで送っていただく。

 太田さんは太田さんで、またこのあと講演の由。来年のNHK大河ドラマ「江(ごう)」の監修を小和田哲男さんとともに担当しておられる。おそるべき多忙ぶりである。

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2010.07.23

京都女子大と北滋会、そして上七軒

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 7月14日(水)、21日(水)と身内の慶事がつづいた。すごいことである。

 さて7月21日(水)はれ

 京都女子大学春学期の最後の講義。今期は前年以前のようにコミュニケーションをとることをしなかった。

 でもやっぱり京都女子大学の学生さんは気持ちのよい人が多かった。熱心な子もいた。今期もありがとうございました。リポート試験、頑張ってください。

 一旦帰宅し、秋刊行予定の『中村武生さんとあるく洛中洛外』の初校にたちむかう。締め切りすぎたのにまだ終わらない。苦渋。

 夕方、全日空ホテルへ。滋賀銀行西陣支店の「北滋会」の集いに招かれて、龍馬と薩長同盟のはなしをする。

 笑いは少なかったが、濃度の濃さはご理解くださった由。

 終了後、懇親会。上七軒の舞芸妓さんのお酌で歓談。御茶屋「大文字」の三姉妹さん(勝也・勝江・勝瑠)、およびあたらしくやってきた仕込みさんもおいで。

 二次会は上七軒歌舞練場のビアガーデン。ひきつづき、「大文字」姉妹さんなどと歓談。

 まだ仕事があるのでとご配意いただき、三次会は失礼して帰途を急ぐ。

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2010.07.20

龍馬のみた大坂をあるく

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7月17日(土)はれ

 よみうり天満文化センターに出講。龍馬のみた大坂を巡検した。

 先日、京都文化博物館の「龍馬伝」展を参観したとき、いずれか所蔵(失念)の大坂土佐屋敷図の写真が展示されていた。そんなものが存在するのかと感心した。

 残念なことに図録に載っておらず、再確認できないが(前日、確認のため再び「龍馬伝」展に行ったらば、なんとそのパネルが消えていた。どういうことだ)、土佐稲荷社の東側に屋敷建物が描かれていたと記憶する。

 弘化年間の大坂の絵図にもそれらしく描かれているので、それをもとに西長堀の土佐屋敷跡の広さを体感してもらった。

 跡地に建つ西長堀団地が、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を執筆した旧「マンモスアパート」である。土佐屋敷跡で『竜馬がゆく』を書いているのである。すごいじゃないか。文学碑を建てたらどうだ、なんてことを述べる。

 とても暑い日だった。受講者Oさんから、某所の史蹟碑のご相談をされるが、疲れはてていたので、立ち話で失礼をした。

 帰途、家族が入院しているT田病院に立ち寄る。

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2010.07.17

御土居堀、崩れる

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 去る7月16日(金)の京都新聞朝刊などによれば、このたびの豪雨で、京都の惣構(そうがまえ・城壁・環濠)の御土居堀の、国史蹟指定地の一部が崩落した由。

たとえばここ→http://www.47news.jp/news/2010/07/post_20100715214204.html

 場所は京都市北区大宮土居町で、全体のうち北端部分です。

 ここは長さ約300メートルもあり、史蹟指定地9か所のなかでも最も保存状態が良いところです。

 その指定地の北西部分の堀の北側の「肩」部分の上端が二ヶ所、それぞれ横幅約3・6メートル、約10・4メートル崩れたそうです。

 新聞に掲載された市文化財保護課のコメントが気になった。

 「御土居そのものに影響はない」。

 御土居(土塁=城壁)部分のみが大事で、堀は崩れても問題ないように聞こえます。

 堀部分も指定地ですし、何より豊臣期の史料に「土居堀」と記され、堀も土塁(土居)と同じ扱いでした(たとえば天正19年(1591)9月23日付・豊臣秀吉朱印知行目録『北野天満宮史料/古文書』157ページ)。

 「御土居」は、堀を軽視した徳川時代の用語です。

 史蹟指定・保存の理由として、豊臣期に価値の大半を与えておられるはずなのに、どうして堀は大事にされないのでしょう。

 堀をはぶいた、「御土居」という呼称が問題なのかも知れない。

 それゆえ僕は「御土居」ではなく、「御土居堀」と呼びましょうと提唱した次第です(中村武生『御土居堀ものがたり』8ページ、34~36ページなど、京都新聞出版センター、2005年)。

 今回もまた同じ印象を受けました。気のせいだとよいのですが。

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2010.07.16

名古屋で二つの幕末戦争をかたる

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 7月15日(木)くもりのち雨

 名古屋・中日文化センターに出講。

 「城と合戦」と「京都学」の2講座に出講。

 前者は「龍馬の怒った戦争」で下関攘夷戦争。幕末攘夷論に少々時間をとりすぎた。龍馬も攘夷主義なんですよと、有名な「日本をいま一度洗濯」の手紙を読む(文久3年(1863)6月29日付姉乙女宛)。

 関連して勝海舟の日記、文久3年(1863)8月7日条も読んだ。ここに「(徳川政府役人が)夷(外国人)の手を借り、薩長を打たしむると風評仕り候事」とある。

 後者は今回幕末京都論なので、池田屋事件と禁門の変をとりあげる。洛中の農民、若山要助の日記に禁門の変で逃げ惑う庶民の描写がある。学術の世界ではけっこう有名なのだが、一般にはほとんど知られていない。

 で、戦争のあった7月19日条と20日条をすべて読む。かなりおもしろかった。

 ただ京都の地名が頻繁に出たのが、いかがだったか。地図を手元においておられない方はきつかったかも知れない。

 『若山要助日記』上・下巻は、京都市歴史資料館の刊行です。禁門の変の部分は下巻です(1998年1月刊行、3,800円)。

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2010.07.13

よう働くわ

7/11(日)あめ

 一日中、原稿打ち。

 講談社メルマガ「本気で考える池田屋事件」と、「中村武生さんとあるく洛中洛外」の校正など。

 夕方、参院選の投票に行った。

 夜、「龍馬伝」をみた。その感想は既述。

 参院選の速報番組をみながら仕事。民主党惨敗の由。はー。

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7/12(月)僕のいたところはくもり

 午前中、講談社メルマガ「本気で考える池田屋事件」にまた立ち向かう。進みが悪い。あったはずの史料がみつからなかったり。

 午後から立命館大学に出講。早いなあ。もう来週で終わり。

 終了後も立命の喫茶店で「本気で考える池田屋事件」。すこし進む。

 夜はまっすぐ帰って、家でまた仕事。

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2010.07.11

龍馬伝第28回をみた

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 龍馬伝第28回「武市の夢」をみた。

 すごいストーリーでしたね。見てられない。

 山内容堂が武市半平太の獄舎に入ってきていた。もちろんそんな事実はない。

 「山内容堂様が(獄舎で)同じ地べたに座った。上士と下士もない時代がくるといった10年前の龍馬の言葉を思いだして感動した。奇跡だ」みたいなことをいっていた。

 まったく事実のない設定で感激させてもなあ。絶句するところか。

 武市が容堂に「吉田東洋を斬らせたのは自分だ」といった。ありえない。もしそんなことをいったら切腹ではすまないだろう。

 このころの刑の根拠は自白が第一であった。だからいろんな証拠があっても自白がなければ極刑にはならない。

 武市の実弟田内衛吉は、拷問にたえかねて自白をしてしまった。死刑・獄門は確実になった。だから武市自身が毒を盛らせて即日自殺させた。

 死刑・獄門では武士の面目がたたないからである。だから自殺するのである。

 以蔵の毒殺許可をその父弟に求めたのは、しゃべりすぎてみなが迷惑するということもあるが、打ち首・獄門が確実になったいま、武士の面目がたたない。だから面目を守るために死なせてやろうとしたともいえる。

 それを父弟はわからなかったわけだ。実際打ち首・獄門になったのに。

 ドラマでは以蔵はついに口を割らなかった。口を割らなかった者を殺すことはない。

 現実のはなし。この「勤王党」の獄で口を割らなかった者で死罪になった者はいない。半平太が唯一の例外で切腹になっただけ。それだけ容堂は半平太をにくんでいたともいえる。

 これに対して口を割った者は以蔵をふくめ4人。これは全員打ち首・獄門になっている。

 この時期の土佐の法制はこういう感じだった。そのシステムをご存じなかったようである。残念なことだ。

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薩長同盟ゆかりの地をあるく―NHK大阪教室

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7/10(土)はれ

 昨日の予定は、まだ延びる模様。1週間ぐらい。まずは来週火曜日にもう一度確認に行く。

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 NHK文化センター大阪教室の巡検で、龍馬ゆかりの地をあるく。今回は薩長同盟で、薩摩関係者の居所跡を対象にした。本日は欠席者5人もあり、計9名で。

 コースは以下。

 京阪電車「出町柳」駅集合 → ①大久保利通旧邸標石 → ②西郷隆盛寓居跡「中熊」跡付近 → ③黒田清隆寓居跡・紙商西村安兵衛邸 → ④大原口道標(京都市登録文化財) → ⑤西郷隆盛塔ノ壇邸跡付近 → ⑥相国寺林光院・薩摩墓地 → ⑦近世近衛邸跡 → ⑧薩摩二本松屋敷跡 → ⑨小松帯刀寓居・近衛御花畑屋敷跡付近(室町通上立売上ル)

 薩摩二本松屋敷跡で、薩長同盟に関する木戸孝允の回想を読む。龍馬に送った薩長同盟六カ条も。現地で原文書を読むことを心がけている。臨場感があってよい。

 ご関心のある方はこちらへhttp://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_483744.html

 終了後、参加者M田さん・M井さんと喫茶する。

 そのあと古書店と新刊書店をはしごして、某所にいすわって拙著『中村武生さんとあるく洛中洛外』の校正をする。予定通りなら、9月中の刊行です(京都新聞出版センター)。

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2010.07.10

吉村虎太郎の書翰を読んで平尾道雄の仕事を考える

7/9(金)あめのちくもり

 ある予定があったが、延びた。明日か、あさってか、またそのうち。

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 いつもの「くずし字入門」に出講。

 ゆえあって、少し前から土佐出身の幕末志士、吉村虎太郎の書翰を読んでいる。大和天誅組の乱の組織者といってもよく、その戦争で亡くなった(文久3年(1863)9月27日)。

 今年の大河ドラマではどなたがされるのか楽しみにしていたが、全く登場しなかった。名前だけ劇中で1~2回出たが。

 吉村虎太郎はとてもくせの強い書体で、安易に読めない。それに挑戦しようというもの。

 テキストは早稲田大学所蔵のものを利用した。ネットで公開されている。文久3年(1863)5月3日付の両親宛書翰である。

 長文なので4回にわけて読むことにした。

 メンバーTさんとお仲間が釈文を作ってくださり、それをテキストと比べながら読むのだが、実はこの史料、すでに釈文が存在する。

 土佐史研究の泰斗、平尾道雄(1900-1979)が、吉村の唯一の伝記『天誅組烈士吉村虎太郎』を刊行している(大道書店、1941年。土佐史談会覆刻1988年)。

 この170~172ページに同書翰の釈文が掲載されているのだ。

 今回、それも横において読んだ。

 釈文は以下。

①浜田周吉へ御託之

.

②尊墨相難有拝見仕候追々

③暑気ニ至候所皆々様倍御機

.           

④嫌能可被遊御座奉大賀候相

.

⑤私儀無恙在京仕居申乍恐左様

⑥思召可被仰付候扨去々六日出足          

⑦同十一日高知御着之所御途中より

⑧御不ニ被為在追々御差りニ而       

⑨大ニ御苦心被遊候御趣奉驚入

⑩如何様追々御快方ニ之御趣

⑪此頃ハ御全快之御事賀候

⑫母上様ニも御出府被遊井口ニ於ゐて

⑬御家御求被遊去月三日之夜御引移り

⑭被遊候御趣然ルニ万事御不由ニて

⑮御迷惑被遊候段実ニ何とも申上様

⑯無御座只々恐入居申是当時

⑰勢御アキラメ被仰付何卒

⑱此上御養生被遊御病気無之

⑲様只管ニ奉

⑳容堂様御帰国就而は御国人共

21京都静謐与唱候趣誠ニ愚カナル

22事ニ御座候此度

23容堂様御帰国之儀ハ屹度思召之

.

24有之義追々相分り可申当時天下

.

25之形勢実ニ累卵之如き事ニ而

.

26姦物共ハ我利欲ニ迷ひ種々奸

(以下略す)

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. 

※行頭の数字は中村武生が便宜上付しました。

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平尾道雄の釈文と比較したところ、以下の相違があった。

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①「へ」が「江」になっている。

在京仕居申」の部分、「申」が抜けている。「左様」が「右様」になっている。

⑦「所」が「処(處)」になっている。

⑧ふたつの「ニ」が「に」になっている。「而」が「て」になっている。

⑨「驚」が「恐」になっている。

⑩「ニ」が「に」になっている。「之御趣」の部分、「之趣」になっていて「御」が抜けている

⑪「ハ」が「は」になっている。

⑬「夜御引移り」の部分、「り」が抜けている。

⑭「然ルニ」の部分、「ル」が抜けて、「ニ」が「に」になっている。「御不自由ニて」の部分も、「ニ」が「に」になっている。

⑮「ニ」が「に」になっている。「何とも」の部分、「何共」になっている。

⑯「只」が「唯」になっている。「恐入居申」と「是」の間に「候」が挿入されている(原文に「候」はない)。「申も」も「申すも」になっている。

⑰「アキラメ」が「あきらめ」になっている。

⑲「ニ」が「に」になっている。

⑳「容堂様」の上に、なぜか「一、」が付してある。「一、容堂様・・・」である。「ニ」が「に」になっている。「而」が「て」になっている。

21「ニ」が「に」になっている。「愚カナル」が「愚なる」になっている。

22「ニ」が「に」になっている。

23「ハ」が「は」になっている。

23~24 「思召之有之」の部分、「思召有之」になっている。

24 「義」が「儀」になっている。「相分り可申当時」の部分、「相分可申候。当時」になっている(「り」を省き、存在しない「候」を付している)。

25「ニ」が「に」になっている。「而」も「て」になっている。

26「ハ」が「は」になっている。「ニ」が「に」になっている。

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以上

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※ルビはすべて原文には無く、平尾が便宜上付したもの。

※「与」を「と」に改めた部分は好みの問題として指摘しなかった。

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えらい細かい指摘をしたなと思われていると思います(自分でもそう思います)。が、その意義があると思っています。平尾道雄の仕事は巨大で、現代にもさまざまな影響を与えています。

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とくに当時存在しながら、現在は入手困難な史料を使っておられる。原本との比較をしなくても平尾の引用は使用に足るのかが問題になります。

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亡命前の龍馬の動向を知れる「福岡家御用日記」は焼失し現存しない。いまわれわれは平尾のメモに頼っている。ところがそれに理解不明な部分があることを我々は知っている。これをどう考えるかである。

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今回の吉村書翰をみると、断りなくカタカナを平仮名に改めたり、送りがなを省いたりしているが、原則忠実に翻読していたことがわかった。誤読と思われる個所は、わずか3カ所に過ぎなかった。

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はっきりいえば、平尾は「福岡家御用日記」の一部、存在しない部分を捏造していないか、龍馬研究者は(僕もふくめて)気にしていると思う。

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今回の部分にはそういう姿勢は一切みられなかつた。

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今後も平尾道雄の仕事はていねいに検証すべきである。誤解のないようにいう。これは平尾を侮辱しているのではない。学術発展のための行為なのである。それほど大きな影響を与えている人として最大の敬意を表しているのである。ご理解ください。

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2010.07.08

【巡検】熊野若王子神社などに行きます

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 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のご案内です。

 次回は、

 日時:2010年7月13日(火)午前9時~11時

 行き先:熊野若王子神社(京都市左京区)など

 集合場所:地下鉄東西線「蹴上」駅改札

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(立命館大学・京都女子大学非常勤講師)

 ※雨天決行、予約不要、寺社拝観料は自弁ください

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祝!「御土居」国史蹟80年

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 日本のミヤコに唯一つくられた市壁・環濠、「洛中惣構(らくちゅう・そうがまえ)」こと御土居堀(おどいぼり、京都市)が、国の史蹟に指定されたのは、1930年(昭和5)7月8日です。つまり本日、80年目をむかえました。

 近年、御土居堀をふくむ惣構は、都市史研究に不可避のテーマとなっています。

 御土居堀自身も、史蹟指定地でありながらながく民有地だったものが公有化したり、最高水準の「御土居絵図」をもつ京都大学総合博物館がシンポジウムや共同研究を模索したりと、研究・史蹟保護は活性しつつあります。

 わが「御土居堀研究会」も紀念イベントをしないといけませんね。

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2010.07.07

【巡検】永観堂へ行きます

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 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のお知らせです。

 日時:2010年7月8日(木)午前9時~11時

 行き先:永観堂(禅林寺)・慈照寺(銀閣寺)

 集合地:地下鉄東西線「蹴上(けあげ)」駅改札

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(立命館大学・京都女子大学非常勤講師)

 ※雨天決行、予約不要、

 ※寺院の拝観料が別途必要です

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2010.07.06

池田屋から立命館大学へ

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7月5日(月)はれ

 昼までに今週の「本気でかんがえる池田屋事件」(講談社メルマガ)を提出。

 しばらくのちに今月の発信がされると思います。池田屋での戦闘、土方組の参戦、一・会・桑の合流を論じました。お楽しみに。

 午後から立命館大学に出講(京都地域論)。熱心な学生さんばかりで。

 木屋町三条で少し休憩して(ビールをいただいて)、7時ごろ帰宅する。

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2010.07.05

【巡検】南禅寺にいきます

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 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のお知らせです。

 日時:2010年7月6日(火)午前9時~11時

 行き先:南禅寺(その3) ※前回、山門に登り南禅院を拝観しました

 集合地:地下鉄東西線「蹴上(けあげ)」駅改札

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(立命館大学・京都女子大学非常勤講師)

 ※雨天決行、予約不要、

 ※寺院の拝観料が別途必要です

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2010.07.04

龍馬伝第27回をみた

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 龍馬伝第27回「龍馬の大芝居」をみた。

 ひさしぶり。池田屋事件以来である。

 述べる気にならないほどひどかったから。

 今回もひどかったですね。

 いうまでもなく、龍馬は武市半平太らを助けるため土佐に帰ったりしていません。してもいない吉田東洋殺害を後藤象二郎に語ったりしません。

 岡田以蔵は拷問にたえていません。とっくにぺらぺらいろんなことを語っています。土佐到着の即日(元治元年(1864)6月14日)、

「牢番らあと長州でどふやら、吉村虎太かどふやらなどゝ大声てはなし(話)をしよつた」(元治元年6月15日付、姉・妻宛半平太書翰、『武市瑞山関係文書』1巻481ページ)。

 これは序の口。拷問が始まるとつぎつぎと仲間の人名を出し、それによって逮捕者が増えていく。

 だから半平太らは困って、以蔵の毒殺を考えた。

 しかし半平太は必ずしも残酷ではない。

 獄外の仲間に、家族(父と弟)の許可をもらうように指示します。そのうえでの殺害を指示した。

「七児(以蔵)之事、親へ御申解之由、随分受けよきよし。只々此事而巳(のみ)祈申候」(『武市瑞山関係文書』1巻、597ページ。慶応元年(1865)3月6日夜から翌7日、島村寿太郎宛、半平太書翰)。

(※『武市瑞山関係文書』1巻の編者は、元治元年(1864)9月6日の書翰と推定しているが、横田達雄の指摘に従い慶応元年(1865)3月6日夜から翌7日とする。横田『「維新土佐勤王史」のウソ・マコト』42ページ、私家版、2000年)

 が、弟がのらりくらり逃げた。

「早速呼付ケ談候処、存之外異論ニてと角父にも相談、右之趣ニ付どふも受千事。悪く候。色々諭候得共とふも受悪く候。実ニ恥ヲしらぬには込り入申候。然れ共トニ角ニ此儀ハ祭主愈納得ならてハ悪星消滅ニハ至リかたくニ付色々申聞セ置候。」

「【意訳】さっそく(以蔵の弟を)呼びつけて話したところ、予想外なことで、とにかく父にも相談(しないとという)。こんな状態で、どうも反応が悪い。いろいろ諭したのだが、どうもいかん。実に恥を知らないというのには困ってしまった。しかしながら、この件は家族(祭主)がいよいよ納得しないと、毒殺(悪星消滅)は実施しにくく、いろいろ申し聞かせた。」(慶応元年(1865)3月上旬、森田金三郎宛・島村寿之助書翰、『武市瑞山関係文書』2巻111ページ)。

 ゆえに結局、毒殺は実施されなかった。

 ぜひ「このドラマはフィクションです。実在の人物とは無関係です」の表示をドラマのオープニングかエンディングかに掲示してください。お願いいたします。

 来週は獄中で龍馬と武市が会うそうですね。へー。

※「岡田以蔵毒殺問題」については、本文にもふれた横田達雄『「維新土佐勤王史」のウソ・マコト』、私家版、2000年)によった。

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つぎの建碑を考え名古屋で龍馬と薩摩の関係をはなした

7月2日(金)少し雨

 父方祖父の37回忌。墓参にいけないのでその日を思い出してみる。

 午前中、いろんな事務処理をする。驚くほど進んだ。その分つかれた。

 いつものくずし字入門に出講。まだある幕末土佐志士の手紙を読んでいる。とても癖のある字。でも変に盛り上がっている。読み終えたら、まだ無いかと受講者が探してこられる。もう3通目。すごいわ。

 夕方、NPO法人理事メンバーと某所(京都市内)の建碑交渉にうかがう。今回2回目。もう副碑銘(案文)をつくった。これ午前中の仕事のひとつ。なんだすぐできるじゃないか。まだ建碑賛同はいただいていない。

 夜、なぜか法人メンバーで仏光寺烏丸で突然懇親会。

 会場に向かう途中、その交差点近くに小学校2年生の女児がながいこと一人でいるのにきづく。心配になり、いろいろい聞いたら、お稽古ごとの終わったあとの母親待ちで、しかし30分ぐらい待たされていることがわかった。

 母親が到着までそばにいとこうと思ったら、同じことを心配した大人がいたようで、警察官2人(男・女)がやってきた。だからお任せして、会場へ向かった。社会はまだまだ悪くない。親御さんの危機意識の低さはあいかわらず問題だが。

 懇親会はあいかわず楽しい。奥さんも誘ったが、それどころではないと内外の反対にあって不参加となった。

 帰りに少し木屋町六角の「龍馬」に寄る。最近忙しくてうかがえていない。実に久しぶり。幕末クイズが行われていて、ほとんど正解。知らないお客さんにちやほやされる。正解であたりまえ。まちがえたらかえって問題。

7月3日(土)あめ

 名古屋市に出張。午後から栄中日文化センターに出講。

 龍馬講座。今回は元治元年(1864)下半期、勝海舟・龍馬と薩摩の出会いのはなし。たまたま先週、大河ドラマ龍馬伝もそんな時期でしたね。

 最近確認された140通目の龍馬の書翰や、禁門の変で、薩摩の中原猶介が勝海舟の塾生を率いて長州兵と戦った可能性の高いことなど、桐野作人さんの成果を多く活用させていただいた。多謝。

 二次会では受講者F橋A子さんがみつけた、某公園の名古屋城「残念石」の話をうかがう。「尾張歴史の会」(尾張龍馬会でもいいが)を立ちあげてくださいと勧める。

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2010.07.03

千葉佐那が結婚していた報道に驚く

千葉佐那が結婚していた報道に驚く。

 宮川禎一さんもご存じなかったそうで。

 あさくらゆうさんすごいですね。記事はこちらなど↓

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100703/trd1007031408014-n1.htm

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2010.07.02

【報告会】古文書が出てきたらどうするか?

 友人竹中友里代さんから以下のご案内をいただきました。掲示しておススメいたします。

京都府立大学アクター八幡調査報告会

古文書が出てきたらどうするか?

-貴重な文化遺産を未来へ-

21年度から2年計画ではじまった京都府立大学の八幡での調査について報告会を開催します。アクター(ACTR)とは、地域貢献型特別研究の略称で、府立の大学として地域振興、産業・文化の発展に貢献する調査、研究を目指しています。

  日時   平成22年7月12日(月)13:30~15:00         

  場所  念佛寺(八幡市八幡山路29-1)       

   司会・進行 竹中友里代                     

(京都府立大学アクター研究協力者)                

○府大アクター八幡調査の概要               

           東 昇(京都府立大学文学部准教授)         

 

○民芸品の聞き取り調査 ―紙鯉とかんざしの記憶―

       杉山 三佳(京都府立大学院生)

○古文書の調査方法 -古文書が出てきたらどうするか?から-

      1蔵出しとは         本田  章訓(関西大学院生)       

      2現状を記録する     谷口   拓(大阪市立大学院生)   

      3掃除から目録作成まで 稲吉  昭彦(佛教大学院生)     

   

主催 京都府立大学文学部アクター調査会

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2010.07.01

【旅行】中村武生と長崎・福岡に行きましょう!

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。

 「中村武生と行く!坂本龍馬、長崎の史蹟へ」のご案内です。

 ぜひお越しください。

          ―記―

 出発日:2010年7月29日(木) 2泊3日

 集合場所伊丹空港・全日空出発カウンター付近

 出発時間:午前10時10分予定

 参加費:3名様以上1室利用  69,000円

       2名様以上1室利用  7,1000円

       1名様以上1室利用  79,000円

 (2泊・2朝・3昼・1夕食付き)

 コース:【初日】伊丹空港✈午前便✈福岡空港=福岡(昼食)=太宰府天満宮・延寿王院(三条実美ら五卿居住地・龍馬が訪れた)=山家宿跡(筑紫野市・龍馬宿泊地)=筥崎宮(五卿参拝地)など=博多市内1泊(ANAクラウンプラザホテル福岡=自由夕食)【2日目】=高速=グラバー園(長崎市内)=昼食=出島(復元)=土佐商会跡小曾根邸跡(妻鞆(お龍)滞在地)=長崎市内1泊(矢太楼南館=展望風呂)【3日目】龍馬像(長崎市内)=亀山社中記念館龍馬のぶーつ像近藤長次郎墓=昼食=福済寺(龍馬滞在地)沢村惣之丞墓など=長崎空港✈夕刻便✈伊丹空港(午後6時50分)  ※コースに変更のある場合がございます。

<主催>京都新聞文化センター <旅行企画実施>京都新聞旅行センター

<お問い合わせ・申し込み先>京都新聞旅行センター TEL(075)256-2233

電話受付/平日10時~18時 土曜日10時~14時  日・祝は休み

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