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2010.06.29

龍馬のみた神戸と近郊をあるいた

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6月24日(木)はれ

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 京都新聞文化センターの「龍馬講座」で兵庫県神戸市に行く。

 コースは以下。

 JR京都駅(集合) → JR三宮駅 → ①三宮神社 → ②勝海舟三宮住居跡(勝塾跡)参考地 → ③神戸海軍操練所跡 → ④「海軍営之碑」(諏訪山公園)→ ⑤生島四郎太夫旧邸 → ⑥祇園神社 → JR三宮駅(解散)

 いろんな疑問がわいた。

 ②について、磯田道史氏『古地図で巡る龍馬の旅』(NHKテレビテキスト、2010年)は、

「残念ながらその位置を確定することはできません」と記しながら(67ページ)、地図上に「勝海舟屋敷跡」のポイントを落とされている(56ページ、61ページ)。根拠はなんだろう。

 一坂太郎氏『幕末歴史散歩/京阪神篇』(中央新書、2005年)は、もっとはっきり、

「海軍塾の地は生田神社の馬場と生田川の中間で、西国街道(山陽道)に南面していた。跡地は神戸一の繁華街である三宮センター街東側あたり(神戸市中央区三宮1)とされる」と、場所を限定されている(110ページ)。

 なぜわかるのだろう。しかもこの位置は磯田道史氏『古地図で巡る龍馬の旅』ともちがうようだ。どういうことだろう。

 ④「海軍営之碑」(写真)については、松浦玲氏『勝海舟』(271ページ、筑摩書房、2010年)に詳しいが、解けない疑問がある。

 勝海舟が神戸を立ち去るとき、「大君踞床指画之処」に建てるべき碑銘をつくった(書いた)。それを残留した佐藤与之助に石に刻むことを託した。佐藤は石屋に注文したらしいが、(完成したのか)結局建てられず、「地元協力者の生島四郎太夫に預けた」と松浦さんは書かれる。

 現在、その碑というものが、山手の諏訪山公園に建っているが、その「海軍営之碑」の篆額(題字)は徳川家達(徳川宗家16代)が書している。

 「海軍営之碑」が当時のものなら慶応元年には刻まれていたはずである。するとそれに徳川家達(徳川宗家16代)が篆額(題字)を書すことは不可能だろう。

 それとも篆額(題字)だけあとから刻んだというのだろうか。

 不思議ばっかりな神戸めぐりだった。

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