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2010.06.06

龍馬伝第22回をみた

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 龍馬伝第22回「龍という女」をみた。

 事実がとても少ない回だった。

 龍馬とお龍の出会いについては、お龍の晩年の回想に詳しい(安岡秀峰「反魂香」『坂本龍馬全集』増補4訂版、940ページ)。

 それによれば、元治元年(1864)6月以前、龍馬が北添佶摩らと京都東郊、大仏南門(現国重文・蓮華王院南大門)門前付近(京都市東山区本瓦町付近)の「河原屋五兵衛」の隠居方に住んでいた。

 これは北添佶摩の元治元年(推定)5月2日付母宛書翰に、「洛東東山近辺瓦町と申すところに居宅を借り受け、ほかに同居の人5~6人もいる」と記している(『北添佶摩』76ページ)。これがお龍の回想と一致するので事実と認定される(中村武生『京都の江戸時代をあるく』107-112ページ、文理閣)。

 そこに住み込みの賄いとして雇われたのが、故楢崎将作の妻貞(てい)と末娘君江だった。それがたまたまお龍の母と末妹にあたった。

 当時、お龍が住んでいたのは、洛中の七条新地の扇岩なる旅館という。大仏南門から七条新地までは徒歩約10分である。

 お龍は母・妹に会うため、ときどき大仏南門そばの龍馬らの住居に行っていた。そこで龍馬と会ったらしい。

 ドラマでは、その「扇岩」ののれんのある旅館で龍馬とばったり会っていた。設定に無理がある。

 当時の龍馬は洛東に住居を持っているのだから、旅館に泊まる必要はない(しかも徒歩約10分の距離のところに)。実在の人名を使っているのだから、フィクションもある程度でおさえないといけない。

 ちなみに「大仏」とは、現在の方広寺だけではない。皇族の入っていた妙法院(宮)が管轄する、現在の方広寺や三十三間堂、法住寺、養源院、智積院などを囲いこむ、広い範囲をさす。

 当時、妙法院のことを「大仏御殿」といった。大仏を管理されている宮様の御所という意味である(たとえば村山修一氏『京都大仏御殿盛衰記』、法蔵館、2003年)。

 智積院は、上洛した山内容堂の居所して知られるが、随伴した寺村左膳の日記には「大仏内智積院」と書かれている(文久3年1月25日条、『寺村左膳道成日記』(2)、7ページ、県立青山文庫後援会)。大仏境内の智積院の意である。このことが驚くほど一般に理解されていない。

 エンディングの「龍馬伝紀行」にも、龍馬とお龍の出会いの地として、ドラマのシーンとは異なり、「大仏」の地を紹介した(いいのか)。

 ここまではよかったが、現存する大仏南門や付設された「太閤塀」を取り上げず、現方広寺建物やその外郭の巨石を映していた。残念、ピントがずれてます。

 妹(貞の次女光枝)を借金のかたにとられたので、とりもどしに行くところを龍馬に見とがめられ、助けるために金が必要だろうと渡していた。

 光枝を取り戻すためにお龍が大坂へ行き、本当に取り戻してくる。これは事実である(慶応元年9月9日付、姉乙女など宛龍馬書翰。坂本龍馬全集』増補4訂版、57-60ページ)。

 が、借金のかたにとられたわけではなく、「わるもの」が母貞を「だまして」「いゝふくめさせ」て、女郎として買ったのである。

 そこで「大坂にくだり」、「うでにほりもの(刺青)した」「わるもの」のところへ乗り込んでいき、相手に「とびかゝりて、其者むなぐら(胸倉)つかみ、かを(顔)した(た)かになぐりつけ」た。

 「わるもの」が「女のやつ殺すぞ」と反応すると、「殺(せ)殺(せ)、殺サレニはるばる大坂ニくだりてをる、夫(それ)ハおもしろい、殺セ殺セ」といった。

 すごい話である。このシーンがなかったのは実におしまれる。この人を同じ手紙のなかで龍馬は「まことにおもしろき女」と言ったのである。そんな龍馬の好みがえげつない。おもしろい。

 だから金は、売った金を母から取り上げればすむはずだから、龍馬が与える必要はない。残念、まちがい。

 岡田以蔵が新選組に追われていた。ありえない。なぜ追われなければならないのか。一切説明がなかった。

 以蔵の逮捕理由は「志士」活動ではない。金品強奪容疑である。

 以蔵は、二条通東洞院西入ル(仁王門町)の糸商幸次郎方に行き、「高利をむさぼるは許せない。(われに)金をほどこせ」といって、金を強引に借りた(押借り)。その結果、町奉行所に逮捕された。

 そうとう金に困っていたらしい。

 文久3年(1863)3月以前にも、高杉晋作から金6円(6両か)を借りたが返せなかったらしい。千屋菊次郎が返してやっている(「再遊筆記」同年同月19日条、『維新日乗纂輯』1巻291ページ)。

 以蔵の判決が出たのが元治元年(1864)5月で、「洛中洛外払」すなわち京都追放である。気の毒なことに、東町奉行所の判決状では「無宿鉄蔵」という名になっている。「土佐郷士岡田以蔵」ではないのである。

 『維新土佐勤王史』によれば、土佐の監察吏は「所司代」(これは誤り。東町奉行所)にその身柄の引き渡しを望んだ。

 そのため刑の執行のため、「二条通紙屋川の土堤外」、すなわち京都の城壁・環濠の御土居堀(洛中洛外の境界)の西外(現在の中京区西土居通旧二条交差点付近)に連行され、土佐の役人に身柄が引き渡されたという(『維新土佐勤王史』542ページ)。そして土佐へ送られた。 

 土佐の獄中にあった武市半平太が姉・妻に宛てた書翰同年6月15日付によれば、「前日、岡田以蔵が出ておった」とある(『武市瑞山関係文書』1巻、480ページ)。土佐に着いたのである。

 さあ、次回は池田屋事件ですね。

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