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2010.05.23

龍馬伝第21回をみた

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 龍馬伝第21回「故郷の友よ」をみた。

 文久3年(1863)7月の京都から始まった。八月十八日政変の直前である。

 その段階で、龍馬は勝海舟に、

「日本はこの前まで攘夷派が大変な勢いをもっておりました。が、いつのまにか風向きが変わってしまったがです」

といっていた。

 とんでもない。

 孝明天皇の攘夷親征、大和への攘夷祈願(大和行幸)発表はこのあと。8月12日である。

 中川宮尊融親王の(攘夷のための)西国鎮撫使任命も8月9日である。

 これに追い詰められた中川宮が薩摩に助けをもとめる。

 そこで会津松平家の軍事力の援助を受け、クーデターを強行した。

 すなわち、大和行幸の中止、国事参政・寄人の廃止、議奏・伝奏の諸員と国事御用掛三条実美ら13名の参朝、および外出・他人との面会を禁止、長州毛利家の堺町御門警備の罷免である。

 これにより長州毛利家や三条実美らの京都における地位は、一瞬にして瓦解した。まさにクーデターなのだ。

 8月18日以前にその陰りは見えなかった。だから中川宮や薩摩も追い詰められていた。ゆえに政変を強行したのだ(町田明広氏『島津久光=幕末政治の焦点』講談社選書メチエ、2009年)。

 このドラマは平井収二郎の逮捕から、長州勢力とそれを背後にもつ武市グループ(いわゆる土佐勤王党)の衰退がはじまったかのように描いているが、そんなことはない。

 平井収二郎は、間崎哲馬・広瀬健太と中川宮(青蓮院宮)に謁し、山内家当主豊範の実父豊資宛の同家の改革を命じる令旨を求めた。

 それが容堂には越権行為と思えた。当然だろう。家臣が殿様や政府を動かすため、より上層から意見してもらおうとしたわけだから。さしでがましいことこの上ない。

 ゆえに「他藩応接役」を解任し、帰国を命じて切腹させたのだ。ばれなければともかく、ばれたのだから処分は免れない。

 「どうして藩のために頑張った収二郎が」と、武市や龍馬、加尾がこぞって言っていたが、驚くほど無見識だ。

 これは組織=「勤王党」への弾圧ではない。平井収二郎・間崎哲馬・広瀬健太の個人の越権行為に対する処罰なのだ。吉田東洋殺害犯の探索とは直接関係ない。

 ドラマでは吉田東洋問題で拷問までされて、ボロボロになっていたが、そんな記録はない。爪痕とはいえ(墨が使えないため)獄中でも日記を書いている。拷問されてはそんなゆとりはないだろう。

 とにかく吉田東洋殺害とは無関係である。

 ましてや「攘夷派」没落につなげるのは困難である。

 劇中、何度も「攘夷の火は消えた」という発言があったが、これまたとんでもない。

 八月十八日政変のあとでも、ずっと江戸や京都では横浜鎖港が問題とされている。横浜鎖港とは、通商条約で開港した横浜港を閉鎖するわけだから、攘夷政策にほかならない。

 実際、横浜鎖港交渉のために池田筑後守長発ら使節がパリなどに向かうのは、同年12月末である。 

 彼らが帰国したのは、翌元治元年(1864)7月で、長州が京都で敗戦した禁門の変と同じころである。その際、使節池田らは横浜鎖港の不可をとく。これにより彼らは処罰される。そう、政府はまだ横浜鎖港の可能性をさぐっているからだ。

 ちなみに攘夷が事実上無くなるのは、慶応元年(1865)10月5日である。

 この日、孝明天皇がついに安政の通商条約を勅許するのだ。意外とこのことが認識されていない。幕末最大の事件のひとつだ。いわば「そのとき歴史は動いた日」といってもいい。 

 勝海舟が塾生に土佐帰国を止めたり、山内家が武市グループに帰国命令を下したのは事実である。

 が、時期にずれがある。

 ドラマでは政変(文久3(1863)年8月18日)と武市投獄(同年9月21日)の間だったが、もっとあとである。

 まず勝海舟が武市の失脚を知ったのは同年10月12日で、門弟の千屋寅之助・望月亀弥太から知らされた。そして関係者の逮捕・帰国命令が出たとする(「海舟日記」同日条)。

 これを受けてと思うが、土佐山内家御目付衆宛に龍馬らの帰国猶予を求めている。これが同年12月6日である。が、江戸屋敷留守居役から拒否される。

 龍馬らに正式に帰国命令が下るのは、もう少し遅れて翌元治元年(1864)2月のことである。

 龍馬と親しい大久保忠寛(一翁)の同年2月12日付海舟宛書翰に、「坂龍(坂本龍馬)始、土(土佐)へ呼戻は如何。容堂公に不似合、小気之処置と不審に存候」とある。

 龍馬は海軍修業のため「40才ぐらいまでは家に帰えるつもりはない」と姉に述べた(文久3年(1863)3月20日付)。

 ドラマでも先週類似のことをいっていた。

 それが捕らえられた友のために帰国するという。そんな事実はない。

 龍馬は日本のために御国(土佐)や家族を捨てたのではなかったか。それが幼馴染(この言葉も何回か出ましたね)のために帰国するという。一貫性のない人だ。

 事実は勝の庇護のもと、土佐帰国を拒否しつづける。当然だろう。事実の方が道理にあう。

 今回、新選組が出ましたね。

 次回、のちの妻お龍(真木よう子さん)の初登場です。待望でした。

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