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2010.05.31

龍馬・お龍ゆかりの青蓮院旧境内を歩きまわる

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5/29(土)はれ

 午後から、NHK文化センター大阪教室「坂本龍馬研究の最前線を現地で学ぶ」講座の巡検。

 前回にひきつづき、今回も龍馬・お龍ゆかりの地。

 前回は出会いの地、大仏南門周辺をあるいた。今回は「結婚式場」であり、お龍の父が仕えた青蓮院旧境内を対象にした。

 地下鉄東山駅に集合し、まず金蔵寺跡に京都龍馬会が建てた「坂本龍馬・お龍『結婚式場』跡」標石へ。

 旧境内の塔頭の多くが維新の混乱で消失した。金蔵寺もしかりだが、隣地の尊勝院が青蓮院の裏山に移設されている。古図を片手に尊勝院旧地を確かめ、現在の尊勝院へ向かう。

 尊勝院本堂は豊臣期の建物の由。さすれば龍馬らが立ち寄っていれば触ったかも、はいいとして、この本堂はいま庚申堂と兼ねている。

 青蓮院の庚申堂とはもと金蔵寺のことだった。江戸時代の絵図に白川三条あたりで「庚申」の表記があれば、金蔵寺のことだ。

 だからかろうじて龍馬らのゆかりの施設と役割がいまも生きていることになる。ただし建物は金蔵寺のものではないけれど。

 その後、青蓮院の建物に入る。有料だったが受講者から苦情もなく。500円です。

 一般観光客が多く、モチベーションが落ちることかぎりなく、建物内で解説できず庭園でお話しする。

 お龍の父、楢崎将作が青蓮院門跡に仕えたこと御典医だったことはまちがいないが、それが有名な尊融法親王(のちの中川宮朝彦親王)かどうか疑わしいことを述べた。

 詳しくは拙稿「楢崎将作ノート」(『近時新聞』第2号、京都龍馬会、2010年1月)をご覧ください。

 時間オーバーしていたが、近くに京都守護職の門とされるものが現存しているので、それを見に行く。

 これがほんとうに京都守護職の門かという話をする。

 京都守護職は現京都府庁の位置にあった。その古写真に、同じと思われる門が映っている。事実とみてよいと思うと述べる。

 写真は、『総合資料館だより』№117の表紙に入っている(京都府立総合資料館、1998101日発行号)。ご参考まで。

 夜は、関東の町田明広さん(明治学院大学)が上洛のため、懇親する。明日から三週間、毎日曜日、佛教大学通信教育部で講義をなさる。受講者は最新の八月十八日政変論が聞ける。なんとぜいたくなことであろうか。

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2010.05.29

【巡検】西大谷・建仁寺に行きます

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 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」、次回ご案内です。

 日時:2010年6月1日(火)午前9時~11時

 行き先:西大谷(大谷本廟)・建仁寺

 集合場所:「東山五条」交差点(京都市東山区東大路通五条)北東側

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(歴史地理史学者/立命館大学など非常勤講師)

 ※雨天決行

 ※予約不要。直接集合場所にお越しください。

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NHK『ステラ』にわが標石が掲載された

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 NHKが刊行する週刊誌『ステラ』の今週号(2010年5月26日発売号)に、「<龍馬伝>紀行、京・伏見 龍馬が駆けた街道」という特集が組まれています(表紙は「お龍」役の真木よう子さん)。

 先日(5月9日)除幕式をしたばかりの、大仏南門付近の龍馬寓居跡の標石の写真が載っています。

 除幕から約2週間ていどで写真が掲載されたのは初めてです。

 あわせてNPO法人京都歴史地理同考会(理事長中村武生)が過去に建てた標石も、「小松帯刀寓居参考地」碑、「伏見薩摩屋敷跡」碑がともに載りました。

 偶然とはいえ驚きました。

 たしかに中村武生も取材協力いたしました。

 が、いくつかの忘れられた龍馬旧蹟を紹介しただけで、「これを載せるべきだ」なんていっていませんから。

 中村武生のコメントも少し載っています。

 まもなく次週号が6月2日(水)に発売されますので、ご覧下さる場合は書店へお早めに。

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2010.05.28

仁木宏先生『京都の都市共同体と権力』を賜りました

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 本日、仁木宏先生(大阪市立大学教授)から以下の高著を賜りました。

 ○仁木宏先生『京都の都市共同体と権力』(思文閣出版、2010年5月、6,615円)

 仁木先生は僕の先生のひとりです。大学院修士課程に進学し、幕末史研究を止め、都市史研究を志して以後、ほんとうにお世話になりました。いまの僕があるのは仁木先生のおかげといって過言ではありません。

 拙著『御土居堀ものがたり』(京都新聞出版センター、2005年)刊行以後、自身の研究の比重が幕末史にかたより、都市史研究の歩みが極端に遅くなってしまいました。

 やり残したことは多く、早く快速させなければと苦悩しておりました。そんなとき、このたびの高著の刊行を知りました。

 すぐに購入し勉強のやりなおしをさせていただこうと思っていた矢先、なんと仁木先生から恵贈下さる旨ご連絡をいただきました。

 歓喜したことはいうまでもありません。

 さっそく拝読いたしております。勉強させていただきます。本当にありがとうございました。

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2010.05.27

池田屋事件戦死者の旧墓所跡碑建つ

Photo  Dcf_0467

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 池田屋事件戦死者の菩提寺は、京都市左京区岩倉花園町の浄土宗三縁寺です。

 もとは同市東山区大和大路通三条下ル大黒町145番地にありました。

 1979年(昭和54)に移転しました。京阪電車三条駅の東隣地にあったので、京阪電鉄が要望したためです。

 その3年前の1976年(昭和51)5月18日、京阪三条駅整備ののちに、跡地に「維新史蹟池田屋事変三縁寺墓所跡」という石碑を建立するという契約が、当時の檀家総代大高秀夫氏(故人)の尽力で、三縁寺(代表委員勝田良昭氏)と京阪電車(代表取締役青木精太郎氏)との間に結ばれました(石田孝喜氏『幕末維新京都史跡事典』116ページ、新人物往来社、1983年、および同日付「覚書」)。

 それから30年以上たちました。すでに整備は終わっていましたが、建碑はなされませんでした。

 このまま放置すればついに建碑は実現しないのではないかと感じた中村武生が、三縁寺の毎年の祥忌法要(6月4日)の席で、同寺住職勝田良昭さんに、京阪電鉄との間に証拠となる建碑の取り決め状がないか尋ねました。すると存在することがわかりました。

 たまたま同席されていた、NPO法人京都龍馬会理事長赤尾博章さんが、京阪電鉄社長と知った仲であったため、連絡を取ってくださいました。

 当時の取り決め状があるならと、京阪電鉄社長は前向きになってくださり、中村の意をくんで下さった石田孝喜先生(前掲『幕末維新京都史跡事典』著者)からの勝田住職への働き掛けもあったおかげで、取り決め状が京阪電鉄に提示され、両者の話し合いがもたれた由でした。

 その結果、本日、ついに跡地の隣地に「池田屋事変殉難志士墓所跡」碑が建ちました。

 感慨無量です。20年以上この日を待っておりました。

 とくに除幕式はされないと聞いています。

 三条大橋東詰め南側を東に進み、最初の信号を右折(南行)すると、東側のレンタサイクル場入り口にあります。

 尽力下さった関係各位に深甚の謝意を表します。

  ※当碑の銘文は、中村武生の執筆ではありません。監修なども任されておりません。ただ事前に住職さんより、建碑地が実際の位置と異なると聞きましたので、そのことを明記してくださるとありがたいですとは述べました。

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2010.05.26

【巡検】清水寺に行きます

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 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」をご案内です。

 日時:2010年5月27日(木)午前9時~11時

 集合:「清水道」交差点(京都市東山区東大路通松原東側)

 行き先:清水寺など

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(歴史地理史学者/立命館大学など非常勤講師)

 ※雨天決行。申し込み不要。直接集合場所にお越しください

 ※清水寺の拝観料は別途お支払いください

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2010.05.25

吉野のばら氏から玉稿を賜りました

 去る5月19日(水)、吉野のばらさん(京都女子高校教諭)から、以下の玉稿を賜りました。記して謝意を表します。

 ○吉野のばら氏「京都の社寺を行く~古典の雅を求めて」(『京都女子中学・高等学校研究紀要』53号、2009年5月)

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2010.05.24

河内将芳氏から玉稿を戴きました

 本日、立命館大学で河内将芳さん(奈良大学)から以下の玉稿を賜りました。記して謝意を表します。ありがとうございました。

 ○河内将芳氏「『天正四年の洛中勧進』再考―救済、勧進、経済」(『立命館文学』614号、2009年12月)

 ○同氏「祇園会山鉾鬮取考―戦国時代から近世前期にかけて」(日次紀事研究会編『年中行事論叢―「日次紀事」からの出発』所収、岩田書店、2010年3月)

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2010.05.23

龍馬伝第21回をみた

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 龍馬伝第21回「故郷の友よ」をみた。

 文久3年(1863)7月の京都から始まった。八月十八日政変の直前である。

 その段階で、龍馬は勝海舟に、

「日本はこの前まで攘夷派が大変な勢いをもっておりました。が、いつのまにか風向きが変わってしまったがです」

といっていた。

 とんでもない。

 孝明天皇の攘夷親征、大和への攘夷祈願(大和行幸)発表はこのあと。8月12日である。

 中川宮尊融親王の(攘夷のための)西国鎮撫使任命も8月9日である。

 これに追い詰められた中川宮が薩摩に助けをもとめる。

 そこで会津松平家の軍事力の援助を受け、クーデターを強行した。

 すなわち、大和行幸の中止、国事参政・寄人の廃止、議奏・伝奏の諸員と国事御用掛三条実美ら13名の参朝、および外出・他人との面会を禁止、長州毛利家の堺町御門警備の罷免である。

 これにより長州毛利家や三条実美らの京都における地位は、一瞬にして瓦解した。まさにクーデターなのだ。

 8月18日以前にその陰りは見えなかった。だから中川宮や薩摩も追い詰められていた。ゆえに政変を強行したのだ(町田明広氏『島津久光=幕末政治の焦点』講談社選書メチエ、2009年)。

 このドラマは平井収二郎の逮捕から、長州勢力とそれを背後にもつ武市グループ(いわゆる土佐勤王党)の衰退がはじまったかのように描いているが、そんなことはない。

 平井収二郎は、間崎哲馬・広瀬健太と中川宮(青蓮院宮)に謁し、山内家当主豊範の実父豊資宛の同家の改革を命じる令旨を求めた。

 それが容堂には越権行為と思えた。当然だろう。家臣が殿様や政府を動かすため、より上層から意見してもらおうとしたわけだから。さしでがましいことこの上ない。

 ゆえに「他藩応接役」を解任し、帰国を命じて切腹させたのだ。ばれなければともかく、ばれたのだから処分は免れない。

 「どうして藩のために頑張った収二郎が」と、武市や龍馬、加尾がこぞって言っていたが、驚くほど無見識だ。

 これは組織=「勤王党」への弾圧ではない。平井収二郎・間崎哲馬・広瀬健太の個人の越権行為に対する処罰なのだ。吉田東洋殺害犯の探索とは直接関係ない。

 ドラマでは吉田東洋問題で拷問までされて、ボロボロになっていたが、そんな記録はない。爪痕とはいえ(墨が使えないため)獄中でも日記を書いている。拷問されてはそんなゆとりはないだろう。

 とにかく吉田東洋殺害とは無関係である。

 ましてや「攘夷派」没落につなげるのは困難である。

 劇中、何度も「攘夷の火は消えた」という発言があったが、これまたとんでもない。

 八月十八日政変のあとでも、ずっと江戸や京都では横浜鎖港が問題とされている。横浜鎖港とは、通商条約で開港した横浜港を閉鎖するわけだから、攘夷政策にほかならない。

 実際、横浜鎖港交渉のために池田筑後守長発ら使節がパリなどに向かうのは、同年12月末である。 

 彼らが帰国したのは、翌元治元年(1864)7月で、長州が京都で敗戦した禁門の変と同じころである。その際、使節池田らは横浜鎖港の不可をとく。これにより彼らは処罰される。そう、政府はまだ横浜鎖港の可能性をさぐっているからだ。

 ちなみに攘夷が事実上無くなるのは、慶応元年(1865)10月5日である。

 この日、孝明天皇がついに安政の通商条約を勅許するのだ。意外とこのことが認識されていない。幕末最大の事件のひとつだ。いわば「そのとき歴史は動いた日」といってもいい。 

 勝海舟が塾生に土佐帰国を止めたり、山内家が武市グループに帰国命令を下したのは事実である。

 が、時期にずれがある。

 ドラマでは政変(文久3(1863)年8月18日)と武市投獄(同年9月21日)の間だったが、もっとあとである。

 まず勝海舟が武市の失脚を知ったのは同年10月12日で、門弟の千屋寅之助・望月亀弥太から知らされた。そして関係者の逮捕・帰国命令が出たとする(「海舟日記」同日条)。

 これを受けてと思うが、土佐山内家御目付衆宛に龍馬らの帰国猶予を求めている。これが同年12月6日である。が、江戸屋敷留守居役から拒否される。

 龍馬らに正式に帰国命令が下るのは、もう少し遅れて翌元治元年(1864)2月のことである。

 龍馬と親しい大久保忠寛(一翁)の同年2月12日付海舟宛書翰に、「坂龍(坂本龍馬)始、土(土佐)へ呼戻は如何。容堂公に不似合、小気之処置と不審に存候」とある。

 龍馬は海軍修業のため「40才ぐらいまでは家に帰えるつもりはない」と姉に述べた(文久3年(1863)3月20日付)。

 ドラマでも先週類似のことをいっていた。

 それが捕らえられた友のために帰国するという。そんな事実はない。

 龍馬は日本のために御国(土佐)や家族を捨てたのではなかったか。それが幼馴染(この言葉も何回か出ましたね)のために帰国するという。一貫性のない人だ。

 事実は勝の庇護のもと、土佐帰国を拒否しつづける。当然だろう。事実の方が道理にあう。

 今回、新選組が出ましたね。

 次回、のちの妻お龍(真木よう子さん)の初登場です。待望でした。

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2010.05.22

『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図―地域文化遺産の情報化』を恵贈いただく

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 このたび竹中友里代さん(元八幡市ふるさと学習館主任学芸員)から以下の書籍を恵贈いただきました。記して謝意を表します。

 『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図―地域文化遺産の情報化』

 (東昇氏・竹中友里代氏編、京都府立大学文化遺産叢書第3集、京都府立大学文学部歴史学科刊行、2010年3月)

 中村武生の名前も2ページ・18ページに記して下さいました。

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2010.05.21

【法要】池田屋事件戦死者、祥忌法要があります

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 本年も池田屋事件戦死者の祥忌法要が行われます。

 どなたでもご参加できます。

 新選組ファンの方、犠牲者の法要にもぜひお越しください。

                        記

 日時:2010年6月4日(金)午後2時から(3時ぐらいまで) ※6月5日ではありません

 場所:京都市左京区岩倉花園町606三縁寺(さんえんじ)

 行き方:地下鉄烏丸線「国際会館」下車。京都バス「実相院行き」に乗車。約10分後の「花園町」で下車。東に徒歩5分弱。

※大高又次郎の子孫から寄贈された、大高の遺品も展示されます。

※参加費無料ですが、できれば「お気持ち」(供養料)をご持参くださるとありがたいです。

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2010.05.20

平安宮内裏跡の建碑と勝海舟と出会った龍馬を論ずる

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5/16(日)はれ

 午前中、嵯峨野学芸倶楽部「京都歴史講座」に出講(主催:伝統プロデュース連)。

 2005年~2008年、平安宮内裏跡に初めて組織的な建碑をされた全京都建設共同組合の事業の意義を紹介した。

 あわせて、2008年の「源氏物語千年紀」に、やはり平安宮内裏跡に約10基の解説板を建てられた京都市市民文化局(文化財保護課)の事業も。

 古代天皇の生活の場である(すなわち最重要旧蹟のひとつといってよい)、内裏跡に何らの顕彰碑・解説板が無いという大恥がこれでそそがれた。

 今度は建物の復興ですね。平城宮大極殿にまけず、平安宮は清涼殿(天皇の部屋)をつくってください。

 夕方からは、木屋町六角下ルの酒場「龍馬」で、「基礎からまなぶ坂本龍馬」に出講。勝海舟と出会ったころの龍馬を、原史料にもとづいて論じた。

 夜は、一家の重大事のため、木屋町三条上ルの店で集会。

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2010.05.18

福島克彦氏、桃崎有一郎氏から玉稿を頂いた

 5月17日(月)はれ

 立命館大学に出講したら、以下の玉稿を賜った。

 記して謝意を表します。

 ○福島克彦さん「小企画『瀬戸内海をゆく油売り』の展示史料について」(『大山崎町歴史資料館館報』16号)、2010年3月

 ○桃崎有一郎さん「中世里内裏の空間構造と『陣』―『陣』の多義性と『陣中』の範囲」(『日本歴史』686号)、2005年7月

 ○同「大村拓生著『中世京都首都論』」(『日本歴史』706号)、2007年2月

 ○同「中世後期における朝廷・公家社会秩序維持のコストについて―拝賀儀礼の分析と朝儀の経済構造」(『史学』第76巻第1号)、2007年6月

 ○同「初期室町幕府の執政と『武家探題』鎌倉殿の成立―『将軍』尊氏・『執権』直義・『武家探題』義詮」(『古文書研究』第68巻)、2010年1月

  ○同「中世京都の研究者が現代京都に住んでみる」(『鴨東通信』No.77)、2010年4月

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2010.05.17

龍馬の土佐住吉陣屋跡めぐりをする

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5/15(土)はれ

 よみうり文化センター天満教室に出講。

 また坂本龍馬講座。今回は大坂南郊、住吉の土佐陣屋跡をめぐる。

 信用してよいかわからないが、『維新土佐勤王史』によれば、龍馬は少なくとも文久2年(1862)末と同3年(1863)の二度、住吉に立ち入っている。

 住吉陣屋は今回の大河でも登場しましたね。

 『皆山集』所収の住吉陣屋図を使って、現地の推定をする。現東粉浜小学校付近である。

 最近は地元でも知られてきたようで、我々一行に見知らぬおっちゃんが近づいてきた。

 いま現地に石碑など跡地を示すものはない。地元が盛り上がってくれれば、建碑も実現するかも。期待している。

 住吉陣屋跡の遺構とされる石垣が、近くの生根神社絵馬堂の基礎に使用されているという。出典はわからないが、とにかくやってきた。

 そのあと、龍馬が宿泊したという三文字屋跡にたつ。三文字屋なんてわかるもんかと思っていたが、実はよく知られた店だった。摂津名所図会に数枚の挿絵つきで紹介されているし、「東海道中膝栗毛」では弥二・喜多がかかわっている。

 いま跡地は住吉警察署という。これまたどうしてわかるか知らないが。やはり現地に痕跡はない。石碑もない。

 住吉大社に参拝。龍馬が泊まった「通夜堂」も何なのか、どこだったのかわからない。

 そのあとは、龍馬が住吉陣屋の桧垣清治と訪れた、北畠顕家墓に参る。

 阪堺電車に乗って、「北畠」で下車。現北畠公園。

 江戸中期、当地の「大名塚」なるものを北畠顕家の墓と比定し、建碑したのが儒学者並河永(誠所)である。

 並河誠所は興味深い。

 徳川政府の公認をうけて、畿内の地誌を編纂した。それが『五畿内志(山城志・大和志・摂津志・河内志・和泉志)』だが、その調査過程で忘れられた過去の著名人の墓らしいものを見つけると、建碑している。

 この北畠顕家墓もそのひとつ。それだけではない。

 河内国藤坂村(現大阪府枚方市藤阪)の「オニ(於爾)墓」もそう。

 並河が発見した河内国禁野村、和田寺の記録(元和2年(1616)の「王仁墳廟来朝紀」)によれば、古事記・日本書紀に登場する百済の学者、王仁の墓という。ワニがオニになまって勘違いされている、という判断。

 現地には自然石以外の標がないため、長尾陣屋にあった領主旗本久貝氏に指示し、「博士王仁之墓」の標石を建てさせた。

 いずれもその後大阪府の指定史蹟になった。すごいことだ。いわば江戸時代に史蹟をつくった人である。

 ただ藤坂の「オニ墓」が王仁の墓だというのはかなり無理がある。

 まず5世紀の人の墓の位置を、17世紀の記録で判断するという手法に問題がある。

 そもそも王仁の子孫は西文(かわちのふみ)氏で、現羽曳野市あたりに居住した。枚方に墓がある理由がない。

 ましてや5世紀は巨大古墳の時代である。倭王(のちの天皇)から招聘された学者の墓が自然石だけであるはずはない(以上、片山長三「王仁塚」『懐徳』26号、72~79ページ、1955年)。

 並河の比定は誤りだろう。

 北畠顕家戦死地の有力地も、堺市石津とされるので、大阪市阿倍野付近の当地は誤りかもしれない。やはり並河の比定は誤りである可能性は高い。

が、『維新土佐勤王史』がいう、龍馬が参拝した北畠顕家の墓はここに間違いない。

 ゆえに当地は南北朝史蹟というよりも、幕末史蹟ですねと述べた。

 ここで終了。

 懇親会などしたかったが、疲労がたまっていたのでまっすぐ帰る。

 ※建碑されると「史実」になり、行政による指定史蹟となる場合がある。すると、その後の研究成果によって史実としては否定されても、史蹟の指定解除をうけることは少ない。

 碑の力って、すごいと思われませんか。こわいことでもあります。だから観光客は路傍の石碑が示すことを無批判に受けて入れてはいけないし、建碑主体者は位置も表記も慎重であるべきなのです(自戒をこめて)。

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2010.05.15

【旅行】中村武生と行く!龍馬の長崎・大宰府をたずねて

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 告知です。

 「中村武生と行く!龍馬の旅」(京都新聞旅行センター主催)。

 好評につき、高知に引き続いて、長崎・大宰府・福岡で実施されることになりました。

 2010年7月29日(木)~31日(土)です。

 詳細はまた改めます。どうぞお楽しみに。

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2010.05.14

【巡検】八坂塔、庚申堂、正法寺に行きます

 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のご案内です。

 日時:2010年5月25日(火)午前9時~11時

 行き先:八坂塔、庚申堂、正法寺

 集合場所:祇園石段下(京都市東山区東大路通四条交差点東側)

 同行:中村武生(歴史地理史学者、立命館大学非常勤講師)

 参加費:ワンコイン(500円)

 ※雨天決行、予約不要(直接集合場所におこしください)

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桐野作人先生の高著『関ケ原 島津退き口―敵中突破300里』を頂戴する

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 歴史作家(歴史研究者でもある)、桐野作人先生から、高著『関ケ原 島津退き口―敵中突破300里』(学研新書、2010年6月1日刊行。790円+税)を恵贈いただきました。

 ありがとうございます。あつく御礼申し上げます。

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2010.05.12

【巡検】愛宕念仏寺跡、六波羅蜜寺

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 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」の次回ご案内です。

 日時:2010年5月13日(木)9時~11時

 行き先:愛宕念仏寺(愛宕観音)跡、六波羅蜜寺など

 集合場所:「清水道」交差点南西角(京都市東山区東大路通松原下ル西側)

 参加費:ワンコイン(500円) ※六波羅蜜寺の拝観料は含まず。別途お支払いください

 同行:中村武生(歴史地理史学者/立命館大など非常勤講師)

 主催:京都史蹟隊(通称中村武生ゼミ)

 ※雨天決行。予約不要(直接集合場所におこしください)

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2010.05.11

龍馬の新碑の除幕式がありました

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 5月9日(日)午後11時から、 東山区で龍馬の新碑の除幕式がありました。

 龍馬とお龍の出会いの地、「大仏南門(蓮華王院南大門)」そばです(京都市東山区東大路通塩小路西入ル北側)。

 建立主体は、非営利活動法人京都歴史地理同考会です。

 名古屋市の古橋明子さんの浄財、東山区の法住寺さんの土地提供、その他みなさんのお力で実現しました。ありがとうございました。あつく御礼申し上げます。

 記事はこちら→http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/news/20100509-OYT8T01054.htm

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2010.05.09

龍馬伝18回再放送をみた

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 龍馬伝18回「海軍を作ろう!」の再放送をみた。

 島津久光の肩書部分の訂正が入るか気になり、再放送をみた。

 驚いた。

 本放映で「薩摩藩主」だったテロップが、「薩摩藩『国父』」に変わっていた。

 訂正されたのだ。

 人間誰でもミスはあります。それを受け入れ、すぐさま措置された関係者の危機意識の高さに敬意を表します。

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2010.05.08

京都に龍馬の新碑が建った

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5月7日(金)あめ夕方からはれ

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 午前中、念願の坂本龍馬ら寓居跡の石碑がついに建つ。

 ブルーシートのなかである。

 除幕式まではまだ公開できない。いましばらくお待ちください。

 午後からいつもの「くずし字入門」に出講。

 今回からミヤコの城壁・環濠(御土居堀)の史料が始まった。受講者の食いつきもよかった。しばらく続けます。

 夜、一家の朗報入る。驚く。

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2010.05.07

幾松で木戸孝允居所論をする

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5月6日(木)はれ

 連休明け、最初の仕事は木屋町御池だった。

 NHK京都文化センターの講座「幕末を食べる」。前回の二軒茶屋中村楼につづき、今回は「幾松」。

 幾松でお食事をいただいたのち、維新後の木戸孝允の京都の居住地を、当人の日記や書翰によって検討した。原則木屋町に住んでいるが、土手町や三本木にも住宅を持っていたことを紹介した。

 そのあとはNPO法人京都歴史地理同考会理事のK畑さんと、事務処理で京都市役所と京都府庁に出かける。

 さらにそのあとはやはり同会理事のM本さんをまじえて、堀川で打ち合わせ。

 濃度のある一日だった。

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2010.05.05

池田屋事件にまだ悩んでいる

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 講談社のメルマガに毎月「本気で考える池田屋事件」なる連載をしている。

 ご覧になられるときはこちら→https://eq.kds.jp/kmail/bn/?r=c&m=8&c=4

 2007年5月に始まったと思う。

 もう33回過ぎた。

 池田屋事件だけでどれだけ書くことがあるねんと思われるかも知れないが、あるのだ。

 早く片付けて単著にしないといけないのだが、まだ続いている。

 今回ようやく近藤勇が池田屋に斬り込みそうである。

 池田屋事件について、僕はかなり正確な認識をもっていると思っていた。だから書物にできると思ったのだが、そうでもなかった。

 書き出して気づくことだらけだ。

 今回もまた。

 実証性の高い史料があるわけでもないのに、あたりまえのように語られていることがあった。そのことに気づいていない方がほとんどだと思う。

 先入観はおそろしい。

 とはいえ、僕の池田屋事件像はより正確になってきたと思う。が、終了までにはもう少しショックがありそうだ。

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2010.05.04

橋本左内「啓発録」をよむ

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 やる気が起きないときに読み、奮起させてくれる一文がある。

 橋本左内の「啓発録」である。

 景岳会編『橋本景岳全集』上巻の最初に載っている(1-10ページ、畝傍書房、1943年)。

 本日、また読んでみた。襟を正す思いになった。やる気になった。

 ご存じない方で、もしご関心がありましたら、短い文章ですし、講談社学術文庫『啓発録』に伴五十嗣郎さんの現代語訳版があるので、ぜひご覧ください。

 橋本左内数え15歳の、自分を律するための文です。僕の、まちがいなく選ぶ「この一冊」です。

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2010.05.03

龍馬伝第18回をみた

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 龍馬伝第18回「海軍を作ろう!」をみた。

 冒頭、龍馬が勝海舟とともに順動丸に乗って上国(大坂・京都)を目指していた。年次の設定は、前回の終わりと同じく、文久2年(1862)12月末である。

 実はこれに龍馬は乗っていなかったとも、前回に述べた。

 龍馬は勝に先だって、千葉重太郎・近藤昶次郎(長次郎)らとともに京都に来ていたらしい。海舟の日記によれば、12月28日、千葉重太郎とともに兵庫の海舟のもとに現れ、京都の話をした。

 翌文久3年(1863)正月元日、「龍馬、昶次郎、十太郎ほか一人を大坂へ到らしめ、京師に帰す」と勝日記にあることがその根拠。

 勝は兵庫から龍馬らを大坂に派遣し、そのまま京都へ帰らせたという。

 ここから当時の龍馬の居住地が京都とわかる。その場所は残念ながら分からない。龍馬らを順動丸に変わった朝陽丸に乗せていない。

 龍馬らが兵庫にあらわれたのと同じ12月28日、老中格小笠原長行も兵庫へやってきたのだが、ドラマではまったく描かれなかった。

 今回の上国行きは、将軍上洛に先だって、老中格小笠原長行を運ぶことが主目的であった。神戸村に海軍操練所をつくるのが主目的ではない。

 神戸村に海軍操練所に設置されるのは、まだ先のことである。

 将軍が上坂し、4月23日、大坂港で順動丸に乗る。兵庫・和田・神戸と巡察するのだが、その際、勝は神戸村に海軍操練所をつくりたいと将軍に直訴した。将軍は「直に英断」を下す。つまり許可した(「海舟日記」『勝海舟全集』18巻、47ページ、勁草書房)。

 その翌日、大坂城に登ると、さっそく許可された文書が下る(同)。27日には、神戸に替地が与えられ塾を開くことも許された(『勝海舟全集』18巻、49ページ)。

 こうして神戸海軍操練所と勝塾は開始されるのである。

 ただ将軍に願い出る以前から計画されていたことは容易に想像できるから、その前身の勝塾があってもいいかも知れない。

 それが大坂の勝の寓居「専称寺」にあったとするのは、近藤長次郎の遺児百太郎の回想録である(吉村淑甫氏『近藤長次郎』144ページ、毎日新聞社、1992年)。

 勝日記の同年(文久3年)3月1日条に「此日、旅宿を北溜屋町真正寺に定む」とあり(『勝海舟全集』18巻、32ページ)、北溜屋町も真正寺も実在しないので、近藤百太郎のいう「専称寺」のことだろうと考えられている。

 専称寺は現存しないが、過去に大坂北鍋屋町(現大阪市中央区淡路町3丁目)に存在したことがわかっている。北溜屋町(タメヤマチ・tameyamachi)と北鍋屋町(ナベヤマチ・nabeyamachi)、音は似ているので海舟の聞き違い・記憶違いとされるわけだ。

 ドラマでは、今回その「専称寺」が登場した。そこで海軍修業が行われていた。龍馬のドラマで初めてではないか。画期的だと思った。

 が、本当にあんな整然とした塾組織が専称寺にあったかは疑問がのこる。 

 この時期、勝の旅宿は、専称寺以外にも「本町三丁目」(文久3年1月21日付、母宛、望月亀弥太書翰『維新志士の手紙―望月亀弥太・間崎滄浪』5ページ)や、「安治川一丁目順正寺」(「海舟日記」同年2月27日、上記『海舟全集』18巻、31ページ)が使用されている。

 神戸に先行した、大坂の勝塾の実態は実はよくわからない。

 今回、大和屋の娘お徳が登場した。これが長次郎の妻(百太郎の母)になるのだが、長次郎が結婚していて、遺児がいたことはかなり最近まで知られていなかった。

 事実上初めて紹介したのが、前述の吉村淑甫氏『近藤長次郎』である。

 同書が紹介する遺児百太郎の回想によると、佐藤与之助が仲人をしたという(144ページ)。

 佐藤与之助も今回初登場だった。龍馬は最初、与之助の方言を聞き取れなかった。というのは、与之助は東北出身なのである。出羽国飽海郡高瀬村である(現山形県)。それを示したのだろう(『初代鉄道助/佐藤政養』2ページ、佐藤政養先生銅像建立奉賛会、1965年)。

 龍馬が「佐藤先生」と呼んでいたが、龍馬とは同格である(年齢は海舟より2つ上。龍馬より14才上。えっ、龍馬と海舟って、ひと回りしか違わないの!そう)。

 勝は龍馬を客分のような扱いをしたというから(文久3年5月17日付、姉乙女宛、龍馬書翰、宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、18ページ)、前回のように勝の荷物持ちをさせたり、与之助に上からモノをいわれたりするのはイメージがちがう。

 またまた長くなった。

 山内容堂が武市に龍馬の亡命を免罪にするといったり、容堂の武市グループ分裂策の一環として、望月亀弥太や高松太郎、千屋寅之助が勝塾に送り込まれたりと、いろいろ事実でないシーンがつづいた。

 武市と容堂の関係もなんだかひどい。このドラマ、武市と容堂が魅力的でない。こんな非魅力的な個性の人物たちに、同時代の支持者がたくさんつくものだろうか。

 このドラマで山内容堂や、土佐の上士がよくいう、「郷士は犬猫同然」の発言って、出典はなんだろう。

 郷士が「犬猫同然」で人間扱いされないなら、農民・職人・商人(農工商)やそれ以下とされた賤民階級の人たちはどんな扱いなのだろう。素朴な疑問。

 本当にドラマのような郷士の虐待ってあったのだろうか。

 最後にいい忘れていたことを。

 同年3月7日、将軍家茂が上洛し、参内した。

 ドラマでは、その場で、攘夷の期日を明確にするよう求められた。松平容保、島津久光、伊達宗城、山内容堂が同席した食事会で、松平容保が「黒幕がいる」と述べ、長州か土佐か、久光が「武市半平太の一派がいる」というようなシーンがあった。

 参内のときの内容も、松平容保、島津久光、伊達宗城、山内容堂が同席した食事会もありえない。だってたとえば久光の着京は3月14日で、将軍の初参内のとき、京都にいないから(たとえば『伊達宗城在京日記』174ページ)(18日にはもう帰っちゃう)。

 致命的だったのは、その久光の肩書が「薩摩藩主」だったこと(2008年の大河ドラマ「篤姫」をご覧になっていた方はご承知ですね。久光は「藩主」になったことはありません。「藩主」の父ですね)。おそらくNHKにクレームが殺到していることだろう。監修・考証の先生方、お気の毒です。

 管見では、2005年の大河ドラマ「義経」第1話の冒頭のテロップ、「播磨・一ノ谷」以来の失態だった(一ノ谷は摂津国です)。

 土曜日の再放送までに修正が可能か。もう諦められるか。

 そろそろこのへんで。

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2010.05.02

龍馬伝第17回をみた

 龍馬伝第17回「怪物、容堂」をみた。

 龍馬が勝海舟に出会った直後なので、時期設定は、文久2年(1862)12月末ごろだろう(前回を参照ください)。

 勝海舟のもと、咸臨丸で龍馬はジョン万次郎(中浜万次郎)に初めて会っていた。

 龍馬がジョン万次郎(中浜万次郎)に会ったことがあったか、実はわからない。史料はまったくない。

 はたして文久2年(1862)12月末ごろ、ジョン万次郎(中浜万次郎)が勝海舟のもとにいたかどうかも疑わしい。

 勝海舟と交流があったことはまちがいない。

 万延元年(1860)、海舟が咸臨丸でアメリカに渡航したとき、ジョン万次郎(中浜万次郎)も教授方通弁主務として同船しているから。

 しかし帰国後の文久2年(1862)、万次郎は軍艦頭取小野広胖のもと、小笠原島開拓に従事している(同年8月3日には徳川政府より賞せられている)(「小笠原島紀事」ほか『維新史料綱要』4巻121ページ)。

 その後、万次郎(当時は手付普請役格)は、小笠原島捕鯨に関しても、上司である伊豆国韮山代官の江川太郎左衛門を介して、徳川政府に意見具申をし、10月28日責任者に任命されている(「小笠原島紀事」ほか『維新史料綱要』4巻209ページ)。

 ※この「江川太郎左衛門」は、有名な坦庵英龍ではなく、その子の英敏のこと。

 その後、小笠原に渡った。父島に住んでいた外国人を使い、捕鯨任務に従事する。

 が、翌文久3年(1863)上半期、そのうちアメリカ人ウイリアム・スミスが仲間のジョージ・ホートンとはかって、積荷を奪おうとした事件に遭遇する。

 万次郎は彼らを逮捕。5月17日、横浜のアメリカ領事に引き渡した(いわゆるホーツン事件)(『維新史料綱要』4巻434ページ)。

 この経緯をみると、ドラマのように文久2年(1862)末から翌年初頭ごろ、海舟のもと咸臨丸に乗りこみ、そこで龍馬と会うということはありえないのではないか。

 ちなみに咸臨丸に乗ったことも気になる。朝陽丸か順動丸なら問題ないのだが。咸臨丸は当時、ほんとうに海舟のもとにあったのだろうか。

 また舞台設定はどこだろうか。品川だろうか。

 というのは、海舟は龍馬と初めて会ったころ、とても忙しい。

 すなわち文久2年(1862)12月17日、老中格小笠原図書頭長行を乗せ、順動丸で品川を出帆、摂海(大坂湾付近)へ向かっている(以下「海舟日記」は『勝海舟全集』18巻、22ページ~23ページ)。

 ちなみにこれがドラマのエンディングにあった、龍馬が軍艦に乗っていたシーンにつながるのであるが、実は龍馬は乗っていなかったと考えられる(松浦玲氏『坂本龍馬』25ページ、2009年)。

 12月21日夜(九ツ時過ぎ=翌22日午前0時ごろ)、兵庫港(現神戸港)に着く。このとき順動丸は、港の漁船と接触し外輪を破損した。

 とりあえずは問題なかったようで、翌22日天保山前(大坂湾)に入る。

 その後海舟は、小笠原を案内して、大坂湾のほか、紀伊国加太苫浦や淡路国由良浦に出かける。12月24日、大坂に戻り東本願寺の別院に入った(『続再夢紀事』1巻)。

 小笠原と別れた海舟は、25日、兵庫に移る。26日、ようやく順動丸の修理が始まった。

 その翌27日、江戸から追いかけるように、朝陽丸が大坂湾にやってくる。28日には海舟のいる兵庫へ移る。このあと海舟はの修理中の順動丸は使わず、朝陽丸を使う。ここまで海舟の日記に咸臨丸はまったく登場しない。

 ところでここまで龍馬も登場しなかった。どうしたのだ、思っておられる方々、申し訳ありません。

 実は、龍馬が海舟の日記に登場するのは、その翌日、12月29日のことである。

 「千葉十(重)太郎来る、同時坂下(本)龍馬子来る、京師之事を聞く」とある。

 これが海舟の日記に龍馬が出てくる最初である。もちろんこれが出会いではない。それ以前なのだが、日記に出てこないから厳密な日は分からない。

 おもしろいのは龍馬は京都から来たらしいこと。

 千葉重太郎と同行しているのもドラマのイメージとちがう。

 海舟のもとに行くと、重太郎・佐那兄妹に道場で別れを告げていたが、いやいや重太郎とは別れないのだ。

 千葉佐那がいつ江戸に帰るのかと尋ねる。

 神戸村に向かい、そこにながくいるかのように行っていたが、いやいや京都にいたようだし、そもそも軍艦に乗れば神戸と江戸は瞬時に往復できる。

 永久の別れみたいな空気には違和感があった。

 佐那を褒めまくった姉乙女宛の龍馬書翰は、推定文久3年(1863)8月14日付である(宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、991-993ページ、光風社出版、1988年)。

 もし事実なら、勝門下になっても佐那と交流がつづいていたことになる。勝門下になって千葉道場と縁切れになる理由はない。

 佐那の回想によれば、龍馬が父千葉定吉に「伉儷(こうれい)求」め(結婚を望んだ)、定吉はそれを認めた。「聘礼として短刀一口を」龍馬に贈った。

 龍馬は、「春嶽公より拝領してすでに着古びた袷衣(桔梗の紋付けたるもの)一領を以てその聘礼に代」えた、という(『女学雑誌』352号、1893年(明治26)9月刊行、宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、962ページ)。

 もちろん裏付ける史料がないので、佐那が事実を述べているかどうか実証できないが、ドラマがあまりに一方的な佐那の片思いで終っていたので、記しておく。

 また長くなった。

 「望月亀弥太」が京都で初めてセリフを発した。以蔵に「人斬り」と言ったシーンだ。望月清平・亀弥太兄弟には個人的に思い入れがある。

 京都での殺戮を以蔵だけが担当していたみたいな描き方には問題がある。以前にもふれたが、武市グループのかなりの人が関係している。

 山内容堂と龍馬が対面した。そんな事実はない。最晩年に謁見を許されたことを記したものがあるが、それはまた改める。

 書きたいことがいっぱいいっぱいあるが、今回はこのへんで。

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京都駅ビルで龍馬史蹟論

5/1(土)はれ

 JR京都駅ビル主催の「葉っぴぃてらす・古都にぎわいステージ」というイベントがあった。

 その一環として、午後3時から、同ビル屋上で「幕末ミニ講座」を任された(30分間)。テーマは「幕末・京都・坂本龍馬」だったので、龍馬の京都史蹟のはなしをした。

 オチは来る5月9日(日)に除幕される新碑。また京都に龍馬史蹟が誕生するという話。

 この講演は、いつも引き受けているものと異なる。受講者が事前に承知してくるというものではない。たまたま駅ビルにいて、「幕末ミニ講座」が無料である、じゃあ行ってみるか、という感じで来られる。

 だからほとんどが未知の人たち。相手もこちらのことをほとんど知らない。そこで理解してもらい、笑いも取るというのは、なかなか難しい。

 昨年にひきつづき2回目なのだが、やはり少々きつい。

 とはいえ、たしかに笑いはあったし、数少ない既知の受講者からは「分かり安かった」といってもらったので、当人は一応安心している。

 夕方から奥さんと珍しく映画に行った。「シャッター・アイランド」をみた。これまた久しぶりの東宝シネマだったので、「鷹の爪」団のコマーシャルがあってうれしかった(島根県出身の吉田君がいる)。

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2010.05.01

「龍馬の葬儀場」が取り上げられた!

 去る4月26日(月)刊行の『週刊現代』(2010年5月8日・15日合併号。400円。講談社)に「龍馬と行く京都」が特集され、そこに、

 「龍馬の葬儀場」として、霊明神社(京都市東山区霊山町)が取り上げられた。

 霊明神社こと、霊明舎(霊明社)は、幕末期長州志士の京都での殉難者慰霊を一手に引き受けた場所である。神主村上氏は、霊山の坂本龍馬ら志士の遺体埋葬地の旧所有者であった。

 維新後、新政府の方針で墳墓の土地の大半が没収され、以後その地は現在の霊山護国神社の所有となった。

 そのため村上氏と霊明社はほんとうに忘れられた。

 が、現在も同じ場所に、霊明社と神主村上家は生き続けている。

 龍馬や長州志士の埋葬・祭祀を行い、その墳墓の地のもともとの所有者である村上氏と霊明社を忘れないで、という思いをこめて、これまでさまざまな場で書き記してきた。

 今回の特集記事に、霊明神社祭壇カラー写真で掲載されている。こんなこと初めてだ。すばらしい。

 文章そのものは、事実誤認がいくつかあって、少々残念。

 が、霊明神社がカラーでこんなに大きく取り上げられたのは本当にうれしい。ぜひみなさん、次号が出るまでに一度書店で手にとってください。

 ※現在、龍馬らの墓地を所有され、祭祀を続けておられる京都霊山護国神社の存在を否定するものではありませんので、誤解ありませんように。

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