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2010.05.03

龍馬伝第18回をみた

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 龍馬伝第18回「海軍を作ろう!」をみた。

 冒頭、龍馬が勝海舟とともに順動丸に乗って上国(大坂・京都)を目指していた。年次の設定は、前回の終わりと同じく、文久2年(1862)12月末である。

 実はこれに龍馬は乗っていなかったとも、前回に述べた。

 龍馬は勝に先だって、千葉重太郎・近藤昶次郎(長次郎)らとともに京都に来ていたらしい。海舟の日記によれば、12月28日、千葉重太郎とともに兵庫の海舟のもとに現れ、京都の話をした。

 翌文久3年(1863)正月元日、「龍馬、昶次郎、十太郎ほか一人を大坂へ到らしめ、京師に帰す」と勝日記にあることがその根拠。

 勝は兵庫から龍馬らを大坂に派遣し、そのまま京都へ帰らせたという。

 ここから当時の龍馬の居住地が京都とわかる。その場所は残念ながら分からない。龍馬らを順動丸に変わった朝陽丸に乗せていない。

 龍馬らが兵庫にあらわれたのと同じ12月28日、老中格小笠原長行も兵庫へやってきたのだが、ドラマではまったく描かれなかった。

 今回の上国行きは、将軍上洛に先だって、老中格小笠原長行を運ぶことが主目的であった。神戸村に海軍操練所をつくるのが主目的ではない。

 神戸村に海軍操練所に設置されるのは、まだ先のことである。

 将軍が上坂し、4月23日、大坂港で順動丸に乗る。兵庫・和田・神戸と巡察するのだが、その際、勝は神戸村に海軍操練所をつくりたいと将軍に直訴した。将軍は「直に英断」を下す。つまり許可した(「海舟日記」『勝海舟全集』18巻、47ページ、勁草書房)。

 その翌日、大坂城に登ると、さっそく許可された文書が下る(同)。27日には、神戸に替地が与えられ塾を開くことも許された(『勝海舟全集』18巻、49ページ)。

 こうして神戸海軍操練所と勝塾は開始されるのである。

 ただ将軍に願い出る以前から計画されていたことは容易に想像できるから、その前身の勝塾があってもいいかも知れない。

 それが大坂の勝の寓居「専称寺」にあったとするのは、近藤長次郎の遺児百太郎の回想録である(吉村淑甫氏『近藤長次郎』144ページ、毎日新聞社、1992年)。

 勝日記の同年(文久3年)3月1日条に「此日、旅宿を北溜屋町真正寺に定む」とあり(『勝海舟全集』18巻、32ページ)、北溜屋町も真正寺も実在しないので、近藤百太郎のいう「専称寺」のことだろうと考えられている。

 専称寺は現存しないが、過去に大坂北鍋屋町(現大阪市中央区淡路町3丁目)に存在したことがわかっている。北溜屋町(タメヤマチ・tameyamachi)と北鍋屋町(ナベヤマチ・nabeyamachi)、音は似ているので海舟の聞き違い・記憶違いとされるわけだ。

 ドラマでは、今回その「専称寺」が登場した。そこで海軍修業が行われていた。龍馬のドラマで初めてではないか。画期的だと思った。

 が、本当にあんな整然とした塾組織が専称寺にあったかは疑問がのこる。 

 この時期、勝の旅宿は、専称寺以外にも「本町三丁目」(文久3年1月21日付、母宛、望月亀弥太書翰『維新志士の手紙―望月亀弥太・間崎滄浪』5ページ)や、「安治川一丁目順正寺」(「海舟日記」同年2月27日、上記『海舟全集』18巻、31ページ)が使用されている。

 神戸に先行した、大坂の勝塾の実態は実はよくわからない。

 今回、大和屋の娘お徳が登場した。これが長次郎の妻(百太郎の母)になるのだが、長次郎が結婚していて、遺児がいたことはかなり最近まで知られていなかった。

 事実上初めて紹介したのが、前述の吉村淑甫氏『近藤長次郎』である。

 同書が紹介する遺児百太郎の回想によると、佐藤与之助が仲人をしたという(144ページ)。

 佐藤与之助も今回初登場だった。龍馬は最初、与之助の方言を聞き取れなかった。というのは、与之助は東北出身なのである。出羽国飽海郡高瀬村である(現山形県)。それを示したのだろう(『初代鉄道助/佐藤政養』2ページ、佐藤政養先生銅像建立奉賛会、1965年)。

 龍馬が「佐藤先生」と呼んでいたが、龍馬とは同格である(年齢は海舟より2つ上。龍馬より14才上。えっ、龍馬と海舟って、ひと回りしか違わないの!そう)。

 勝は龍馬を客分のような扱いをしたというから(文久3年5月17日付、姉乙女宛、龍馬書翰、宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、18ページ)、前回のように勝の荷物持ちをさせたり、与之助に上からモノをいわれたりするのはイメージがちがう。

 またまた長くなった。

 山内容堂が武市に龍馬の亡命を免罪にするといったり、容堂の武市グループ分裂策の一環として、望月亀弥太や高松太郎、千屋寅之助が勝塾に送り込まれたりと、いろいろ事実でないシーンがつづいた。

 武市と容堂の関係もなんだかひどい。このドラマ、武市と容堂が魅力的でない。こんな非魅力的な個性の人物たちに、同時代の支持者がたくさんつくものだろうか。

 このドラマで山内容堂や、土佐の上士がよくいう、「郷士は犬猫同然」の発言って、出典はなんだろう。

 郷士が「犬猫同然」で人間扱いされないなら、農民・職人・商人(農工商)やそれ以下とされた賤民階級の人たちはどんな扱いなのだろう。素朴な疑問。

 本当にドラマのような郷士の虐待ってあったのだろうか。

 最後にいい忘れていたことを。

 同年3月7日、将軍家茂が上洛し、参内した。

 ドラマでは、その場で、攘夷の期日を明確にするよう求められた。松平容保、島津久光、伊達宗城、山内容堂が同席した食事会で、松平容保が「黒幕がいる」と述べ、長州か土佐か、久光が「武市半平太の一派がいる」というようなシーンがあった。

 参内のときの内容も、松平容保、島津久光、伊達宗城、山内容堂が同席した食事会もありえない。だってたとえば久光の着京は3月14日で、将軍の初参内のとき、京都にいないから(たとえば『伊達宗城在京日記』174ページ)(18日にはもう帰っちゃう)。

 致命的だったのは、その久光の肩書が「薩摩藩主」だったこと(2008年の大河ドラマ「篤姫」をご覧になっていた方はご承知ですね。久光は「藩主」になったことはありません。「藩主」の父ですね)。おそらくNHKにクレームが殺到していることだろう。監修・考証の先生方、お気の毒です。

 管見では、2005年の大河ドラマ「義経」第1話の冒頭のテロップ、「播磨・一ノ谷」以来の失態だった(一ノ谷は摂津国です)。

 土曜日の再放送までに修正が可能か。もう諦められるか。

 そろそろこのへんで。

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