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2010.05.02

龍馬伝第17回をみた

 龍馬伝第17回「怪物、容堂」をみた。

 龍馬が勝海舟に出会った直後なので、時期設定は、文久2年(1862)12月末ごろだろう(前回を参照ください)。

 勝海舟のもと、咸臨丸で龍馬はジョン万次郎(中浜万次郎)に初めて会っていた。

 龍馬がジョン万次郎(中浜万次郎)に会ったことがあったか、実はわからない。史料はまったくない。

 はたして文久2年(1862)12月末ごろ、ジョン万次郎(中浜万次郎)が勝海舟のもとにいたかどうかも疑わしい。

 勝海舟と交流があったことはまちがいない。

 万延元年(1860)、海舟が咸臨丸でアメリカに渡航したとき、ジョン万次郎(中浜万次郎)も教授方通弁主務として同船しているから。

 しかし帰国後の文久2年(1862)、万次郎は軍艦頭取小野広胖のもと、小笠原島開拓に従事している(同年8月3日には徳川政府より賞せられている)(「小笠原島紀事」ほか『維新史料綱要』4巻121ページ)。

 その後、万次郎(当時は手付普請役格)は、小笠原島捕鯨に関しても、上司である伊豆国韮山代官の江川太郎左衛門を介して、徳川政府に意見具申をし、10月28日責任者に任命されている(「小笠原島紀事」ほか『維新史料綱要』4巻209ページ)。

 ※この「江川太郎左衛門」は、有名な坦庵英龍ではなく、その子の英敏のこと。

 その後、小笠原に渡った。父島に住んでいた外国人を使い、捕鯨任務に従事する。

 が、翌文久3年(1863)上半期、そのうちアメリカ人ウイリアム・スミスが仲間のジョージ・ホートンとはかって、積荷を奪おうとした事件に遭遇する。

 万次郎は彼らを逮捕。5月17日、横浜のアメリカ領事に引き渡した(いわゆるホーツン事件)(『維新史料綱要』4巻434ページ)。

 この経緯をみると、ドラマのように文久2年(1862)末から翌年初頭ごろ、海舟のもと咸臨丸に乗りこみ、そこで龍馬と会うということはありえないのではないか。

 ちなみに咸臨丸に乗ったことも気になる。朝陽丸か順動丸なら問題ないのだが。咸臨丸は当時、ほんとうに海舟のもとにあったのだろうか。

 また舞台設定はどこだろうか。品川だろうか。

 というのは、海舟は龍馬と初めて会ったころ、とても忙しい。

 すなわち文久2年(1862)12月17日、老中格小笠原図書頭長行を乗せ、順動丸で品川を出帆、摂海(大坂湾付近)へ向かっている(以下「海舟日記」は『勝海舟全集』18巻、22ページ~23ページ)。

 ちなみにこれがドラマのエンディングにあった、龍馬が軍艦に乗っていたシーンにつながるのであるが、実は龍馬は乗っていなかったと考えられる(松浦玲氏『坂本龍馬』25ページ、2009年)。

 12月21日夜(九ツ時過ぎ=翌22日午前0時ごろ)、兵庫港(現神戸港)に着く。このとき順動丸は、港の漁船と接触し外輪を破損した。

 とりあえずは問題なかったようで、翌22日天保山前(大坂湾)に入る。

 その後海舟は、小笠原を案内して、大坂湾のほか、紀伊国加太苫浦や淡路国由良浦に出かける。12月24日、大坂に戻り東本願寺の別院に入った(『続再夢紀事』1巻)。

 小笠原と別れた海舟は、25日、兵庫に移る。26日、ようやく順動丸の修理が始まった。

 その翌27日、江戸から追いかけるように、朝陽丸が大坂湾にやってくる。28日には海舟のいる兵庫へ移る。このあと海舟はの修理中の順動丸は使わず、朝陽丸を使う。ここまで海舟の日記に咸臨丸はまったく登場しない。

 ところでここまで龍馬も登場しなかった。どうしたのだ、思っておられる方々、申し訳ありません。

 実は、龍馬が海舟の日記に登場するのは、その翌日、12月29日のことである。

 「千葉十(重)太郎来る、同時坂下(本)龍馬子来る、京師之事を聞く」とある。

 これが海舟の日記に龍馬が出てくる最初である。もちろんこれが出会いではない。それ以前なのだが、日記に出てこないから厳密な日は分からない。

 おもしろいのは龍馬は京都から来たらしいこと。

 千葉重太郎と同行しているのもドラマのイメージとちがう。

 海舟のもとに行くと、重太郎・佐那兄妹に道場で別れを告げていたが、いやいや重太郎とは別れないのだ。

 千葉佐那がいつ江戸に帰るのかと尋ねる。

 神戸村に向かい、そこにながくいるかのように行っていたが、いやいや京都にいたようだし、そもそも軍艦に乗れば神戸と江戸は瞬時に往復できる。

 永久の別れみたいな空気には違和感があった。

 佐那を褒めまくった姉乙女宛の龍馬書翰は、推定文久3年(1863)8月14日付である(宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、991-993ページ、光風社出版、1988年)。

 もし事実なら、勝門下になっても佐那と交流がつづいていたことになる。勝門下になって千葉道場と縁切れになる理由はない。

 佐那の回想によれば、龍馬が父千葉定吉に「伉儷(こうれい)求」め(結婚を望んだ)、定吉はそれを認めた。「聘礼として短刀一口を」龍馬に贈った。

 龍馬は、「春嶽公より拝領してすでに着古びた袷衣(桔梗の紋付けたるもの)一領を以てその聘礼に代」えた、という(『女学雑誌』352号、1893年(明治26)9月刊行、宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、962ページ)。

 もちろん裏付ける史料がないので、佐那が事実を述べているかどうか実証できないが、ドラマがあまりに一方的な佐那の片思いで終っていたので、記しておく。

 また長くなった。

 「望月亀弥太」が京都で初めてセリフを発した。以蔵に「人斬り」と言ったシーンだ。望月清平・亀弥太兄弟には個人的に思い入れがある。

 京都での殺戮を以蔵だけが担当していたみたいな描き方には問題がある。以前にもふれたが、武市グループのかなりの人が関係している。

 山内容堂と龍馬が対面した。そんな事実はない。最晩年に謁見を許されたことを記したものがあるが、それはまた改める。

 書きたいことがいっぱいいっぱいあるが、今回はこのへんで。

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