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2010.04.19

龍馬伝15回をみた

 龍馬伝第15回「ふたりの京」をみた。

 山内豊範の上洛から三条実美の江戸派遣までだったので、ドラマの時間設定は、文久2年(1862)8月25日~10月12日である。

 このころの龍馬の動きはよくわからない。前回ふれたが、樋口真吉の日記によって、7月23日に大坂にいたことがわかるていどだ(『遣倦記』12ページ)。

 『維新土佐勤王史』がいうように、京都に入ったかどうかは実証できない。

 『維新土佐勤王史』は、京都で(江戸から土佐へ帰る途中の)大石弥太郎の旅宿に入ったとする。

 大石の指示で、沢村惣之丞と洛西妙心寺を訪問している。まもなく上洛してくる山内豊範一行の滞在地として適切かどうかの調査という。河原町の京屋敷には多数の人間を収容する許容がないから。

 なぜ洛西妙心寺なのかといえば、家祖山内一豊と正妻見性院の菩提寺、塔頭大通院があるからである。

 結果、妙心寺は敷地が広く、塀も高い。家臣が殿様を守るには適切だと判断したので、それを住吉陣屋の望月清平に連絡したという。

 もしこれが事実として、手紙での連絡ではなく、直接住吉に出向いたとすれば、それが樋口真吉に小遣いをもらったとき(文久2年7月23日)ではと思いたくなるのだが、これは我田引水である。

 ともかく、『維新土佐勤王史』によれば、このあと龍馬は江戸へ向かった。間崎哲馬(滄浪)の手記によれば、閏8月下旬には江戸にいるようである。

 少なくとも文久2年7月23日から閏8月下旬のあいだに大坂から江戸へ移っているのである。

 ドラマでは平井加尾と龍馬は半同棲状態だったが、これは事実ではない。

 平井加尾の回想によれば、文久元年9月13日付で加尾に送った龍馬の不思議な手紙、すなわち「一、高マチ袴。一、ブツサキ羽織。一、宗十郎頭巾。外に細き大小一腰各々一ツ御用意あり度(たく)存上候」を受けて、それぞれ用意していたのに、ついに龍馬は現れなかったとある。

 龍馬は(いつのことかわからないが)、土佐で加尾と別れてから、生涯一度も会わなかったと思われる。本当に恋愛関係だったかもわからない。当然、勝海舟の存在を龍馬に教えることもない。

 兄収二郎の上洛を受けて、父母の面倒をみるため加尾が帰国するというのは本当。上洛前の兄収二郎に、京都の政治情報を連絡していたのも事実。書翰が複数現存している。加尾は武市や兄収二郎の政治活動を助けていたのだ。

 そのため帰国直前には、収二郎が木屋町三条の自らの旅宿に武市らを招いて、加尾の餞別の宴を催している(「平井女史の涙痕録」)。

 「平井女史の涙痕録」によれば、10月10日、加尾は京都を離れた。武市らが三条実美・姉小路公知に従って江戸へ下る2日前のことである。

 兄収二郎は土佐屋敷の裏門から木屋町七条まで見送り、名残を惜しんだという。

 あと本間精一郎や目明し文吉の殺害を以蔵が単独で行っていたが事実ではないとか、武市は三条実美ではなく、姉小路公知の雑掌として江戸に下ったのだ、しかも徒歩ではなく駕籠だったとか、いろいろ事実でないことがありましたが、深めることはせず、今回はここまで。 

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