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2010.04.25

龍馬伝第16回をみた

 龍馬伝第16回「勝麟太郎」をみた。

 龍馬が京都・大坂から江戸へ移った。

 その厳密な月日はわからない。このころの龍馬の動向は史料不足でいかん。

 が、その龍馬の史料不足が解消されだすのもこの時期である。松平春嶽や勝海舟にちかづいたため、その記録に動きが残されるからである。

 この時期の龍馬の江戸滞在が確認できるのは、文久2年(1862)9月10日である。

 同日付の村田忠三郎宛の江戸在の間崎哲馬(滄浪)の書翰に、「此地、(上田)楠ニ(次)兄弟・(門田)為之助、外輪ニテハ龍馬、いづれも苦心尽力。小子事も無事ニ周旋」とある(『坂本龍馬関係文書』1巻、482~484ページ)。

 同じ間崎哲馬(滄浪)の漢詩に、「壬戌秋日、門田為之助・坂本龍馬・上田楠次とともに会飲す。時新令始下」とある(『坂本龍馬関係文書』1巻、484ページ)。

 「壬戌(みずのえ・いぬ)」は文久2年である。

 「新令」は同年閏8月22日に発せられた、参勤交代の大名の江戸滞在期間短縮・妻子の帰国を認めるなどの文久改革令のことであろう(「昭徳院殿御実紀」『続徳川実紀』第4篇、371ページなど、1967年)。

 だから文久2年(1862)閏8月22日から9月10日ごろ、龍馬は江戸に来ていたと推定されるのだ。

 ちなみにその後の動きも少しわかる。

 同年11月12日、久坂玄瑞と「万年屋」(万年楼)で飲んだことが久坂の日記でわかる(「筆廼末仁満爾(ふでのまにまに)」『久坂玄瑞全集』311ページ)。

 同日記事の全文は「暢夫同行。勅使館に往。武市を訪。龍馬と万年屋一酌。品川に帰る。」であるから、

 もしかしたら高杉晋作(暢夫)と武市半平太も一緒だったかもしれない。

 武市も当時江戸にいた。ドラマで描かれたように、勅使三条実美・姉小路公知に随行して京都から来ていた。ドラマでは姉小路公知は描かれませんでしたね。

 実は武市は三条ではなく、姉小路公知の雑掌(諸大夫)柳川左門として東下している。「勅使館に往って武市を訪ねる」とは、そういう意味だ。

 勅使や武市の江戸滞在期間は、同年10月28日~12月7日である。

 ドラマでは久坂・高杉・武市・龍馬の飲み会はなかった。あったらよかったのに。ありえる話なのだから。惜しい。だからいうのだ。事実はフィクションより興味深いのだ。

 このころ龍馬が千葉道場に滞在していたかどうかはよくわからない。が、ありえるとは思う。

 ドラマでは、龍馬が千葉定吉や重太郎に懇願して松平春嶽拝謁に成功し、その紹介で勝海舟に会っていた。

 この時期、松平春嶽に拝謁していることは事実である。

 ただし龍馬単独ではなく、間崎哲馬・近藤昶次郎(長次郎)が同伴している。

 春嶽側の記録類によれば、まず同年12月4日に拝謁願いを出している。そのうえで、翌日夜に許可がおりた(「枢密備忘」)。

 で、同年12月5日、3人で春嶽に会った。

 個人的に興味深いのは、そのとき建言したのが、「大坂近海防御之策」だったこと(「続再夢紀事」や「枢密備忘」)。

 当時の龍馬の関心がどこにあったかがよくわかる。「摂海」の防衛なのである。「摂海」とは、大坂・兵庫などをふくむ摂津国の海岸線のことである。

「摂海」を突破されれば、大坂や京都が攻撃を受ける。大坂はもちろん、京都は天皇と朝廷のいるミヤコなのである。日本の最も大事な都市なのである。

 すでに佐久間象山や徳弘孝蔵に砲術を学びにいっている。剣術修行中にもかかわらずである。

 のち勝海舟の門に入り軍艦術を学ぶ。これらはすべてこの国の防衛意識によって解ける。軍艦でアメリカに行きたいとか、商売をしたいとかというのは枝葉にすぎない。

 春嶽も龍馬らの建言に賛意をしめした。「至極尤成筋ニ御聞受被遊」(【意訳】きわめてもっともなこととお聞きになられた)(「枢密備忘」)。

 4日後の12月9日、ふたたび龍馬と近藤長次郎が春嶽邸を訪れ、建白書を提出した。そこには「摂海之図」も添付されていた。

 ここまでの話。管見ではほとんど紹介されたことがない。

 「枢密備忘」は、「大日本維新史料稿本」(東京大学史料編纂所蔵)文久2年(1862)12月5日条に掲載されている。

 龍馬らと春嶽の初会見については、これまで中根雪江の日記『続再夢紀事』ばかりが使われてきた。

 が、「枢密備忘」には『続再夢紀事』にない記載がある。

 12月5日の前日に拝謁の希望を求めたこと、当日春嶽は龍馬らの考えに賛意を示したこと、12月9日ふたたび龍馬と近藤長次郎が春嶽邸を訪れ、建白書を提出したことである。

 大事なことなのでふれておく。

 「大日本維新史料稿本」は、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースの「維新史料綱要」のコンテンツから誰でも閲覧・複写できる(無料)。

 僕が大学院生のときは、わざわざ東京まで閲覧に行っていた(交通費はもちろん、複写費も安価ではなかった)。いまは自宅で可能になった。なんてありがたいことだ。感謝してやまない。みなさんもぜひ活用ください。

 さて戻る。

 松平春嶽への拝謁がどのようにして実現したかはわからない。千葉父子の紹介があったかは不明である。

 ただ当時、松平春嶽は清河八郎の建議をうけて、有識な浪士の取り立てを進めていた。

 清河八郎と同じく浪士取り立てを進めていた講武所教授方松平主税助忠敏は、12月13日付の目付杉浦正一郎(梅潭)への書翰で、龍馬をその候補にあげていた(「浪士一件」国文学研究資料館蔵。下掲の三野行徳さん論文)。

 当時、龍馬は有能な浪士として、徳川政府に就職する可能性があったのだ。徳川政府の京都の浪士集団に新選組がいる。そう、つまり状況次第では龍馬が新選組隊士になった可能性さえあるのだ

 この魅力的な話は、最近、三野行徳さんによって深められている(「幕府浪士取立計画の総合的検討」大石学編『十九世紀の政権交代と社会変動』東京堂出版、2009年)。

 そういう経緯があるから、松平春嶽は比較的たやすく面会を求める浪士に会っていた可能性はある(もちろん誰かからの紹介状はもっていたと思われるが)。

 もしかしたら、同年12月5日の謁見をうけて、春嶽が松平忠敏に龍馬のことを話したのかも知れない。

 維新後の回想であるが、松平春嶽は、自ら勝海舟と横井小楠を龍馬に紹介したと述べている(1886年<明治19>12月11日付、土方久元宛春嶽書翰、宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、565ページ、光風社出版、1988年)。

 この回想、同伴したのを間崎哲馬・近藤昶次郎(長次郎)ではなく、岡本健三郎としているなど、記憶違いがありそうだが、話全体を積極的に否定する必要はなく、海舟や小楠を龍馬に紹介したのは春嶽でいいと思う。

 そうすると海舟のもとに行くのは、文久2年(1862)12月5日以後となる。

 ちなみに海舟の日記に龍馬が初めて登場するのは、文久2年(1862)12月29日条である(勝部真長ほか編『勝海舟全集』18巻、23ページ、勁草書房)。

 ただしこれが初訪問ではない。初訪問の記事は日記からは漏れている。

 古い書籍をみると、龍馬と海舟の対面を同年10月とするものを見受けられる(たとえば平尾道雄編『坂本龍馬のすべて』所収年譜、269ページ、新人物往来社、1979年)。

 が、すでに否定されたものといえる。いまだにこれを使用しておられる書籍もあるので、お気を付けください。

 海舟と龍馬の出会いがどのようなものだったかは全くわからない。

 龍馬が千葉重太郎と斬り殺しに行ったというのは、海舟自身の回想によるが(『氷川清話』74ページ、講談社文庫)、ご当人の回想なのに恐縮だが、まったく信用に足らない。

 なので論外なのだが、ドラマで描かれたようなシーンも、まったくの創作である。使える史料があるわけではない。

 ドラマで描いたような、龍馬入門以前に近藤長次郎が入門していたことはありえないとはいわない。

 が、少なくとも龍馬が知らなかったとは思えない。

 だってすでにふれたように、龍馬と長次郎はいっしょに春嶽に拝謁しているのだもの。勝の屋敷で久しぶりに再会した、ということはない。

 この時期、武市や以蔵が海舟に会いに行ったという史料はない、とかいろいろ語るべきことがあるが、今回はここまで。

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