龍馬伝第13回をみた
龍馬伝第13回「さらば土佐よ」をみた。
冒頭、武市半平太が、吉田東洋の殺害を龍馬に迫る。
そういう事実があったかどうかは分からないが、それを妻富が聞いていて、反対するシーンがあった。
これは事実ではなかろう。富は武市が吉田東洋殺害の指示者とは知らなかったはずだ。
というのは、のち武市が吉田東洋殺害の嫌疑で下獄した際、武市の妻富宛書翰に、
「吉田の国賊を切りしとて、御国の為なれハ、はづかしき事はすこしもなしされども、身に覚のなき事は致しかたもなし。夫(それ)ゆへに、左様の事はせぬと申候。上(かみ)からは、しきりに御うたがいなれとも、身ニ覚のなき事ゆへ、たとへ寸々にきざまれても心は動かしハせぬつもりにて候」
と述べているから(元治元年(1864)5月下旬カ。『武市瑞山関係文書』1巻、456ページ)。
後藤象二郎が岩崎弥太郎に龍馬の殺害を命じたこと、吉田東洋が再び龍馬を評価したこと、もちろんフィクションである。いう必要もないか。
今回のドラマ、吉村虎太郎を誰が演じるのか楽しみにしていた。
龍馬の亡命まじかなので、それより先に亡命する虎太郎もそろそろと思っていたら、出なかった。亡命したうわさが流れただけだった。少々、残念。
本ドラマでは、龍馬らが亡命する理由がよく分からない。
当初は反対した家族が、最後は全員理解して暖かく龍馬の亡命を認めていた。
違和感があるのは当然だが、理解するにはあまりに具体性のない亡命だと思った。
何のためにいま龍馬は土佐を捨てするのか、それは土佐国内ではできないことなのか、その説明が不足している。他の視聴者は満足しておられるのだろうか。
当時、薩摩や長州の有志による、京都での挙兵計画があった。
ただし「討幕」ではない。安政の大獄の責任者である関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義の殺害計画である。
これが成功するなら、江戸では政変がおこり、安政の大獄に連座した「正義」の大名が政界復帰できるという見込みであろう。
龍馬は、長州萩で久坂玄瑞からこの情報をえたと思われる。
おそらくこの挙兵、長州が主導していた(町田明広氏『島津久光=幕末政治の焦点』111ページ、講談社選書メチエ、2009年)。
大名を総大将にして動くのではなく、有志達が集合し実施すべきである、もしそれによってそれぞれの所属していた大名がお取りつぶしになっても、ことがなれば(日本全体がよくなるなら)問題はないといった。
久坂が龍馬に託した武市宛の書翰に、
「竟(つい)に諸侯、恃(たのむ)に足らず。公卿、恃(たのむ)に足らず。草莽志士、糾合義挙の外(ほか)には迚(とて)も策これ無き事と、私共同志中申合居候事ニ御座候。失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれは苦しからず」
とある(文久2年(1862)1月21日付、武市半平太宛、久坂玄瑞書翰。『武市瑞山関係文書』1巻、60ページ)。
大名家臣の発言としては革命的な意味をもつであろう(大名への忠が絶対的な価値だった時代であるから)。
久坂は武市に、龍馬と「腹臓無く御談合したので詳しくは龍馬から聞いてほしい」と述べたあと、上記部分につながるので、龍馬が手紙の内容を知っていたことは確実である。
龍馬亡命の直接は原因はこれであろう。
龍馬は京都挙兵に参加するつもりで亡命したと考えるが自然である。
ただし亡命後、龍馬は史料上、行方不明になる。
かろうじて『維新土佐勤王史』が、京都にはいかず、九州へ薩摩島津家などを見聞に行ったとする。
吉村虎太郎がすでに上方に向かったので、後塵を拝すのがいやだったという。
同行の沢村惣之丞とは下関でわかれた。沢村は龍馬の指示で、京都に向かい、公家侍となり朝廷の様子を探ることにした(同書、108ページ)。
事実ではない、とはいわない。
が、信用にたる史料がないので、もう少し考えたい。龍馬・沢村のいずれの行動も理解できないので。
京都挙兵に参加しないならば、「いま」亡命する必要がないからだ。生命の危機などの緊急性でもないかぎり、衝動的に家族や主家を捨てるとは思いにくい。
なお亡命のコースも、いわゆる「脱藩の道」など観光地としての整備も進められ、多くの方が受け入れておられる。が、とても無批判に受け入れられない。
これは、村上恒夫氏の『坂本龍馬脱藩の道を探る』に掲載された、「覚・関雄之助口供之事」なる史料が根拠になっている(新人物往来社、1989年、95ページ)。
関雄之助とは沢村惣之丞の別名である。
1873年(明治6)11月15日、龍馬といっしょに亡命した沢村の口述記録を、「高松小埜」なる人物(龍馬の甥、小野淳輔こと高松太郎と解釈されている)が誌したものとされている。
使えるものなら、最高の史料といいたいのだが、残念ながら、原文書が存在しない。
1925年(大正14)ごろ、安岡大六が、高知県安田村の小島二郎から入手した原文書を、1968年(昭和43)2月下旬、福井清氏が筆写し、それを1986年(昭和61)7月ごろ、村上恒夫氏が見られ、発表されたというのが経過である(同書、88~98ページ)。
関係者の尽力には心よりの敬意を示している。モノがまったく残らなかったら話にならなかったから。
が、安岡大六が所蔵していた原文書があれば議論は可能なのだが、やはり現段階では龍馬の伝記を書くにあたっては、参考ていどの位置しか与えられない。
ただまったく裏づけられないわけではない。
ドラマのエンディング「龍馬伝紀行」にも紹介されていたが、那須信吾の書翰である(文久2年(1862)11月16日付、養父那須俊平宛)。
「覚・関雄之助口供之事」によれば、途中まで那須俊平・信吾父子は、龍馬と沢村に同行している。
3月26日(亡命は3月24日)、「韮ヶ峠」で信吾が別れ、27日、「宿間村」で俊平と別れている。
那須父子は、高岡郡梼原村の住民である。亡命ルートの途中にあたるので、常識的には3月26日以前は、那須宅に宿泊した可能性が指摘できる。
そこで先の那須信吾の書翰だ。「○当春、坂本龍馬同行ニ而(て)、内ニ而(て)宿リ、亡命仕候沢村惣之丞と申ハ」・・・・とつづく。
「内」が那須宅でよければ、龍馬らは那須宅に泊まっている。少なくとも亡命の際、途中で那須父子に会っていることは確実だ。
これは「覚・関雄之助口供之事」と矛盾しない。
この那須信吾の書翰は、いつも便利で重宝している菊地明氏・山村竜也氏編『坂本龍馬日記』上巻の当該部分からなぜかもれており、あまり知られていないようだ。
が、横田達雄氏編『那須信吾書簡』3巻(県立青山文庫後援会、1983年)10ページに掲載されている。ご参考まで。
今後、これにとどまらず、さらに裏付けられる情報が出現すればありがたい。
次回からは第2部で、わが京坂地区に龍馬は出現するようです。
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