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2010.04.30

【講演】幕末ミニ講座―あらたな坂本龍馬史蹟の誕生

 突然ですが、明日JR京都駅ビル屋上で「幕末ミニ講座」をいたします。

「葉っぴぃてらす/古都にぎわいステージ・春」というイベントの一環です。

 よろしければお越しください。無料です。

                記

 日時:2010年5月1日(土)午後3:00ごろから、30分間

 会場:JR京都駅ビル屋上(大空広場)・葉っぴぃてらす(下京区烏丸通塩小路下ル)

 演題:幕末ミニ講座―あらたな坂本龍馬史蹟の誕生

 講師:中村武生(歴史地理史学者/立命館大学・京都女子大学非常勤講師)

 主催:京都駅ビル

 参加費無料

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2010.04.29

【巡検】安井門跡旧境内をあるきます

 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」の次回ご案内です。

 日時:2010年5月11日(火)午前9時-11時

 行き先:安井門跡旧境内(安井金毘羅社など、東山区)

 集合:祇園石段下(八坂神社西門、東山区東大路通四条東側)

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(立命館大学・京都女子大学非常勤講師)

 主催:京都史蹟隊(通称:中村ゼミ)

 ※雨天決行。予約不要。直接集合場所にお越しください。

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2010.04.28

円徳院庭園に感心し赤穂浪士を論ず

4/28(火)あめ

 朝イチ、「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」に出講する。

 今回は高台寺旧境内の円徳院。すばらしい庭園でした(国指定名勝)。「北政所終焉の地」などという虚説を掲げるのはもったいないと主張する。

 午後から京都駅前のキャンパスプラザで、「基礎からまなぶ日本歴史」に出講。ようやく赤穂事件に入る。もうすぐ赤穂研修旅行があるからね。その予習。

 午後2時から、NPO法人京都歴史地理同考会の理事会。来月9日午前11時から、また京都市内で1基、建碑除幕式をする。その打ち合わせなど。

 夜は、通夜に参列。大雨でした。

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2010.04.27

立命館大学の帰途、えらい現場の真横を通った

4/26(月)はれ

 お昼に身内の訃報が入った。

 午後から立命館大学に出講。もう3回目。そろそろ慣れてきた。あいかわらず笑いがある。濃密な話題をしているのに。ありがたいことだ。

 この講義のおかげで、久しぶりに立ち向かっているテーマがある。まとまればいいなあ。

 午後6時、某所で市バスを降り、地下鉄に乗り換えようとしたら、パトカーや警察に出会った。路傍の人が警察官に「○×の方向へ逃げた」としゃべっていた。

 先を急いでいたので何事が確認せず地下鉄に乗る。

 あとから知ったのだが、以下の事件だったようだ↓

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100426-00000039-kyt-l26

 明日通夜なので喪に服すべきなのだが、予約していたことがあったので、奥さんと外食した。

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2010.04.26

近藤勇の祥月命日だったが、

4/25(日)はれ

 久しぶりに出かける仕事がない日。

 某研究会に参加しようと思っていたが、疲労で立てなかった。残念。

 昼、「アタック25」をみた。本日は近藤勇の祥月命日(慶応4年=1868)だから、きっと問題にされると思ったのに出なかった。がっかり。

 たまっていた原稿、ひとつ上げた。

 夜は「龍馬伝」をみなかった。保存されているので、近日見ます。

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2010.04.25

龍馬伝第16回をみた

 龍馬伝第16回「勝麟太郎」をみた。

 龍馬が京都・大坂から江戸へ移った。

 その厳密な月日はわからない。このころの龍馬の動向は史料不足でいかん。

 が、その龍馬の史料不足が解消されだすのもこの時期である。松平春嶽や勝海舟にちかづいたため、その記録に動きが残されるからである。

 この時期の龍馬の江戸滞在が確認できるのは、文久2年(1862)9月10日である。

 同日付の村田忠三郎宛の江戸在の間崎哲馬(滄浪)の書翰に、「此地、(上田)楠ニ(次)兄弟・(門田)為之助、外輪ニテハ龍馬、いづれも苦心尽力。小子事も無事ニ周旋」とある(『坂本龍馬関係文書』1巻、482~484ページ)。

 同じ間崎哲馬(滄浪)の漢詩に、「壬戌秋日、門田為之助・坂本龍馬・上田楠次とともに会飲す。時新令始下」とある(『坂本龍馬関係文書』1巻、484ページ)。

 「壬戌(みずのえ・いぬ)」は文久2年である。

 「新令」は同年閏8月22日に発せられた、参勤交代の大名の江戸滞在期間短縮・妻子の帰国を認めるなどの文久改革令のことであろう(「昭徳院殿御実紀」『続徳川実紀』第4篇、371ページなど、1967年)。

 だから文久2年(1862)閏8月22日から9月10日ごろ、龍馬は江戸に来ていたと推定されるのだ。

 ちなみにその後の動きも少しわかる。

 同年11月12日、久坂玄瑞と「万年屋」(万年楼)で飲んだことが久坂の日記でわかる(「筆廼末仁満爾(ふでのまにまに)」『久坂玄瑞全集』311ページ)。

 同日記事の全文は「暢夫同行。勅使館に往。武市を訪。龍馬と万年屋一酌。品川に帰る。」であるから、

 もしかしたら高杉晋作(暢夫)と武市半平太も一緒だったかもしれない。

 武市も当時江戸にいた。ドラマで描かれたように、勅使三条実美・姉小路公知に随行して京都から来ていた。ドラマでは姉小路公知は描かれませんでしたね。

 実は武市は三条ではなく、姉小路公知の雑掌(諸大夫)柳川左門として東下している。「勅使館に往って武市を訪ねる」とは、そういう意味だ。

 勅使や武市の江戸滞在期間は、同年10月28日~12月7日である。

 ドラマでは久坂・高杉・武市・龍馬の飲み会はなかった。あったらよかったのに。ありえる話なのだから。惜しい。だからいうのだ。事実はフィクションより興味深いのだ。

 このころ龍馬が千葉道場に滞在していたかどうかはよくわからない。が、ありえるとは思う。

 ドラマでは、龍馬が千葉定吉や重太郎に懇願して松平春嶽拝謁に成功し、その紹介で勝海舟に会っていた。

 この時期、松平春嶽に拝謁していることは事実である。

 ただし龍馬単独ではなく、間崎哲馬・近藤昶次郎(長次郎)が同伴している。

 春嶽側の記録類によれば、まず同年12月4日に拝謁願いを出している。そのうえで、翌日夜に許可がおりた(「枢密備忘」)。

 で、同年12月5日、3人で春嶽に会った。

 個人的に興味深いのは、そのとき建言したのが、「大坂近海防御之策」だったこと(「続再夢紀事」や「枢密備忘」)。

 当時の龍馬の関心がどこにあったかがよくわかる。「摂海」の防衛なのである。「摂海」とは、大坂・兵庫などをふくむ摂津国の海岸線のことである。

「摂海」を突破されれば、大坂や京都が攻撃を受ける。大坂はもちろん、京都は天皇と朝廷のいるミヤコなのである。日本の最も大事な都市なのである。

 すでに佐久間象山や徳弘孝蔵に砲術を学びにいっている。剣術修行中にもかかわらずである。

 のち勝海舟の門に入り軍艦術を学ぶ。これらはすべてこの国の防衛意識によって解ける。軍艦でアメリカに行きたいとか、商売をしたいとかというのは枝葉にすぎない。

 春嶽も龍馬らの建言に賛意をしめした。「至極尤成筋ニ御聞受被遊」(【意訳】きわめてもっともなこととお聞きになられた)(「枢密備忘」)。

 4日後の12月9日、ふたたび龍馬と近藤長次郎が春嶽邸を訪れ、建白書を提出した。そこには「摂海之図」も添付されていた。

 ここまでの話。管見ではほとんど紹介されたことがない。

 「枢密備忘」は、「大日本維新史料稿本」(東京大学史料編纂所蔵)文久2年(1862)12月5日条に掲載されている。

 龍馬らと春嶽の初会見については、これまで中根雪江の日記『続再夢紀事』ばかりが使われてきた。

 が、「枢密備忘」には『続再夢紀事』にない記載がある。

 12月5日の前日に拝謁の希望を求めたこと、当日春嶽は龍馬らの考えに賛意を示したこと、12月9日ふたたび龍馬と近藤長次郎が春嶽邸を訪れ、建白書を提出したことである。

 大事なことなのでふれておく。

 「大日本維新史料稿本」は、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースの「維新史料綱要」のコンテンツから誰でも閲覧・複写できる(無料)。

 僕が大学院生のときは、わざわざ東京まで閲覧に行っていた(交通費はもちろん、複写費も安価ではなかった)。いまは自宅で可能になった。なんてありがたいことだ。感謝してやまない。みなさんもぜひ活用ください。

 さて戻る。

 松平春嶽への拝謁がどのようにして実現したかはわからない。千葉父子の紹介があったかは不明である。

 ただ当時、松平春嶽は清河八郎の建議をうけて、有識な浪士の取り立てを進めていた。

 清河八郎と同じく浪士取り立てを進めていた講武所教授方松平主税助忠敏は、12月13日付の目付杉浦正一郎(梅潭)への書翰で、龍馬をその候補にあげていた(「浪士一件」国文学研究資料館蔵。下掲の三野行徳さん論文)。

 当時、龍馬は有能な浪士として、徳川政府に就職する可能性があったのだ。徳川政府の京都の浪士集団に新選組がいる。そう、つまり状況次第では龍馬が新選組隊士になった可能性さえあるのだ

 この魅力的な話は、最近、三野行徳さんによって深められている(「幕府浪士取立計画の総合的検討」大石学編『十九世紀の政権交代と社会変動』東京堂出版、2009年)。

 そういう経緯があるから、松平春嶽は比較的たやすく面会を求める浪士に会っていた可能性はある(もちろん誰かからの紹介状はもっていたと思われるが)。

 もしかしたら、同年12月5日の謁見をうけて、春嶽が松平忠敏に龍馬のことを話したのかも知れない。

 維新後の回想であるが、松平春嶽は、自ら勝海舟と横井小楠を龍馬に紹介したと述べている(1886年<明治19>12月11日付、土方久元宛春嶽書翰、宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、565ページ、光風社出版、1988年)。

 この回想、同伴したのを間崎哲馬・近藤昶次郎(長次郎)ではなく、岡本健三郎としているなど、記憶違いがありそうだが、話全体を積極的に否定する必要はなく、海舟や小楠を龍馬に紹介したのは春嶽でいいと思う。

 そうすると海舟のもとに行くのは、文久2年(1862)12月5日以後となる。

 ちなみに海舟の日記に龍馬が初めて登場するのは、文久2年(1862)12月29日条である(勝部真長ほか編『勝海舟全集』18巻、23ページ、勁草書房)。

 ただしこれが初訪問ではない。初訪問の記事は日記からは漏れている。

 古い書籍をみると、龍馬と海舟の対面を同年10月とするものを見受けられる(たとえば平尾道雄編『坂本龍馬のすべて』所収年譜、269ページ、新人物往来社、1979年)。

 が、すでに否定されたものといえる。いまだにこれを使用しておられる書籍もあるので、お気を付けください。

 海舟と龍馬の出会いがどのようなものだったかは全くわからない。

 龍馬が千葉重太郎と斬り殺しに行ったというのは、海舟自身の回想によるが(『氷川清話』74ページ、講談社文庫)、ご当人の回想なのに恐縮だが、まったく信用に足らない。

 なので論外なのだが、ドラマで描かれたようなシーンも、まったくの創作である。使える史料があるわけではない。

 ドラマで描いたような、龍馬入門以前に近藤長次郎が入門していたことはありえないとはいわない。

 が、少なくとも龍馬が知らなかったとは思えない。

 だってすでにふれたように、龍馬と長次郎はいっしょに春嶽に拝謁しているのだもの。勝の屋敷で久しぶりに再会した、ということはない。

 この時期、武市や以蔵が海舟に会いに行ったという史料はない、とかいろいろ語るべきことがあるが、今回はここまで。

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2010.04.24

【巡検】円徳院(高台寺旧境内)に行きます

 次回の「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のご案内です。

 日時:2010年4月27日(火)午前9時-11時

 行き先:円徳院(高台寺旧境内、東山区)

 集合:祇園石段下(八坂神社西門、東山区東大路通四条東側)

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(立命館大学・京都女子大学非常勤講師)

 主催:京都史蹟隊(通称:中村ゼミ)

 ※雨天決行。予約不要。直接集合場所にお越しください。

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2010.04.23

高著を恵贈いただきましてありがとうございます

 本日までに以下の高著・玉稿を頂戴しました。記して御礼申し上げます。

●中西裕樹さんから

 『きらめく☆侍アート~川口コレクション名品選』(高槻市立しろあと歴史館第16回企画展図録、2010年3月) 

 『ヒストリア』217号(特集幕末京都口の関門―枚方・楠葉台場跡、大阪歴史学会、2009年10月)

 『高槻市立しろあと歴史館常設展示図録』(高槻市立しろあと歴史館など編、2003年3月)

●久住真也さんから

 久住真也さん「幕末期武家参内に関する空間的考察―諸大夫の間と仮建を中心に」『中央史学』33号抜刷、2010年3月

●馬部隆弘さんから

 『楠葉台場跡』(財団法人枚方市文化財研究調査会ほか、2010年2月)

●高橋慎一朗さんから

 高橋慎一朗さん『中世都市の力―京・鎌倉と寺社』(高志書院、2010年3月)

●高木秀也さんから

 『歴史秘話ヒストリア』江戸~幕末ヒーロー伝(NHK制作班編、ワニブックス、2010年4月)

●椎名慎太郎さんから

 椎名慎太郎さん・石部典子さん『教えて椎名先生』(山梨新報社、2010年2月)

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2010.04.22

平井加尾と龍馬をあるく

4月21日(水)はれ

 京都女子大学に本年度初出講。150人ちかくの受講生。たいへんだ。

 午後から、よみうり京都文化センターに出講。平井加尾と龍馬の史蹟めぐり。

 河原町御池の長州屋敷跡から、天誅事件の舞台地(島田左近・本間精一郎殺害現場、目明し文吉遺体ざらしの地など)、土佐屋敷跡などをあるく。

 大河「龍馬伝」では、平井加尾は三条家に住み込みで働いていたようにみえたが、そうではない。

 加尾は土佐河原町屋敷に住んでいた。平井加尾の回想「平井女史の涙痕録」からわかる(『坂本龍馬全集』4訂、1988年)。

 同じく「龍馬伝」では、本間精一郎殺害は岡田以蔵のみで実施されていたが、武市半平太の在京日記などから推定すると、平井収二郎ら7人も参加している。いうまでもない加尾の兄である。

 加尾の離京に際して、収二郎の木屋町三条の宿舎でお別れ会が開かれ、武市らが参加した(「平井女史の涙痕録」)。龍馬は参加していたかどうか、などお話しした。できないのである。当時、江戸にいたから。

 加尾と龍馬は意外と語られていないことがある。「平井女史の涙痕録」や加尾と収二郎の往復書翰をつかうとまだまだ遊べそうだ。楽しかった。

 終了後は、枡屋喜右衛門(古高俊太郎)方跡に建つ、喫茶店ソワレで懇親会。

 夜は緊急集会があって、いろいろ反省した。

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2010.04.21

ご協力感謝いたします

 おかげさまでブログ人気ランキング、順位が上昇いたしました。

 ご協力にあつく感謝もうしあげます。

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2010.04.19

龍馬伝15回をみた

 龍馬伝第15回「ふたりの京」をみた。

 山内豊範の上洛から三条実美の江戸派遣までだったので、ドラマの時間設定は、文久2年(1862)8月25日~10月12日である。

 このころの龍馬の動きはよくわからない。前回ふれたが、樋口真吉の日記によって、7月23日に大坂にいたことがわかるていどだ(『遣倦記』12ページ)。

 『維新土佐勤王史』がいうように、京都に入ったかどうかは実証できない。

 『維新土佐勤王史』は、京都で(江戸から土佐へ帰る途中の)大石弥太郎の旅宿に入ったとする。

 大石の指示で、沢村惣之丞と洛西妙心寺を訪問している。まもなく上洛してくる山内豊範一行の滞在地として適切かどうかの調査という。河原町の京屋敷には多数の人間を収容する許容がないから。

 なぜ洛西妙心寺なのかといえば、家祖山内一豊と正妻見性院の菩提寺、塔頭大通院があるからである。

 結果、妙心寺は敷地が広く、塀も高い。家臣が殿様を守るには適切だと判断したので、それを住吉陣屋の望月清平に連絡したという。

 もしこれが事実として、手紙での連絡ではなく、直接住吉に出向いたとすれば、それが樋口真吉に小遣いをもらったとき(文久2年7月23日)ではと思いたくなるのだが、これは我田引水である。

 ともかく、『維新土佐勤王史』によれば、このあと龍馬は江戸へ向かった。間崎哲馬(滄浪)の手記によれば、閏8月下旬には江戸にいるようである。

 少なくとも文久2年7月23日から閏8月下旬のあいだに大坂から江戸へ移っているのである。

 ドラマでは平井加尾と龍馬は半同棲状態だったが、これは事実ではない。

 平井加尾の回想によれば、文久元年9月13日付で加尾に送った龍馬の不思議な手紙、すなわち「一、高マチ袴。一、ブツサキ羽織。一、宗十郎頭巾。外に細き大小一腰各々一ツ御用意あり度(たく)存上候」を受けて、それぞれ用意していたのに、ついに龍馬は現れなかったとある。

 龍馬は(いつのことかわからないが)、土佐で加尾と別れてから、生涯一度も会わなかったと思われる。本当に恋愛関係だったかもわからない。当然、勝海舟の存在を龍馬に教えることもない。

 兄収二郎の上洛を受けて、父母の面倒をみるため加尾が帰国するというのは本当。上洛前の兄収二郎に、京都の政治情報を連絡していたのも事実。書翰が複数現存している。加尾は武市や兄収二郎の政治活動を助けていたのだ。

 そのため帰国直前には、収二郎が木屋町三条の自らの旅宿に武市らを招いて、加尾の餞別の宴を催している(「平井女史の涙痕録」)。

 「平井女史の涙痕録」によれば、10月10日、加尾は京都を離れた。武市らが三条実美・姉小路公知に従って江戸へ下る2日前のことである。

 兄収二郎は土佐屋敷の裏門から木屋町七条まで見送り、名残を惜しんだという。

 あと本間精一郎や目明し文吉の殺害を以蔵が単独で行っていたが事実ではないとか、武市は三条実美ではなく、姉小路公知の雑掌として江戸に下ったのだ、しかも徒歩ではなく駕籠だったとか、いろいろ事実でないことがありましたが、深めることはせず、今回はここまで。 

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2010.04.18

石碑による京都史蹟を論じて龍馬の戦争抑止論に絶句した

※人気ブログランキングの順位がトップテンから落ちています。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。

 高知旅行のつかれが残っているなか、嵯峨野学藝倶楽部「京都歴史講座」に出講(主催:伝統プロデュース連)。

 高知旅行参加者は(疲労で)誰も参加されないと思っていたのに、K藤M子さんとM本Iくえさんがおられた。熱心さに舌をまく。

 ここでは「石碑が建てられたため史蹟が生まれた。だから誰がいつ、何のために石碑を建てたのか」という問題意識で、京都史蹟論を連続講演している。

 今回は角田文衛博士と財団法人古代学協会(平安博物館・古代学研究所)の21の建碑をとりあげた。

 自身の建碑活動が、知らず知らず角田文衛博士と財団法人古代学協会の活動に影響を受けていることを日々痛感している。もちろんそれは主に山田邦和博士を媒介してだが。そんなお話をした。

 夕方からは、木屋町六角下ルの「龍馬」で、「基礎からまなぶ坂本龍馬」に出講。こちらも高知旅行参加者がひとりこられた(S本K彦さん)。

 今回は、土佐亡命後の龍馬が勝海舟に出会うまでを論じた。いつもいっていることだが、龍馬をとくカギは、攘夷や開国・倒幕ではない、これは手段に過ぎない。目的は「海防(国防)」なのだ、と述べた。

 夜、龍馬で「龍馬伝」をみた。枝葉のミステイク・非事実はいい。

 本質にかかわること。龍馬の堅固な武装目的は、外敵にけんかをふっかけられないためという発言があった。

 現代の「核武装、戦争抑止」論を幕末をえがくのに使われたのですね。

 本ドラマはやはり「平和論者龍馬」にしたいらしい。

 残念ですが実像とかけはなれています。もうすでに「坂本龍馬」ではありません。

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2010.04.17

高知に行ってました

 高知に行ってました(4月16日~)。

 京都新聞旅行センターのイベントです。

 とても楽しかった。

 参加のみなさま、スタッフのみなさま、ありがとうございました。

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2010.04.13

立命館大学に初出勤

 4/12(月)あめ

 立命館大学に初出勤した。

 講師のメールボックスをみて、びっくり。驚くほど知っている方々の名前があった(つまり名だたる方々が非常勤講師として出講している)。

 さすがは「立命」、と思った。同志社大学もそうだったんだろうけど、メールボックスがなかったので、出講していた当時は分からなかった。

 だからまあ、緊張した。その人たちにそこらへんでばったりということがあるから。いわば僕の学問の先生や先輩たちである。

 僕の担当は「京都地域論」という科目である。約100名も受講者があった。

 講義した部屋から墓地がみえた。等持院の墓地である。坂本龍馬に影響を与えたとされる、河田小龍の墓がある。これまた感激。

 立命館大学には尋常ではない思い入れがある。雨のなかだけど、講義のあとは広い校地をいったりきたりした。図書館利用カードもさっそく入手した。河田小龍の墓参もした。

 半期だけだけれど、楽しいことになりそうだ。

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2010.04.12

【巡検】東大谷・双林寺へ

 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のお知らせです。

 次回は、東大谷・双林寺(東山区)を参観予定です。

           記

 日時:2010年4月13日(火)午前9時~11時

 集合:祇園石段下(京都市東山区東大路通四条交差点東側)

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(歴史地理史学者、立命館大学・京都女子大学非常勤講師)

 ※どなたでも参加できます。予約不要。雨天決行

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2010.04.11

京都府知事選があった

 たまっていた用事をする。

 午後、髪を切った。

 夕方、京都府知事選の投票に行った。

 夜、「龍馬伝」をやっていた。ついに龍馬が京都にきた。

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2010.04.10

龍馬伝第14回をみた

 龍馬伝第14回「お尋ね者龍馬」をみた。

 龍馬が大坂に現れた。

 武市半平太と出会っていたので、舞台設定は文久2(1862)7月12日以後である。

 この時期、山内家当主豊範は、参勤交代のため江戸に向かう。その途中に大坂に滞在しているのである(『山内家史料幕末維新』第3編上、421~426ページ)。

 半平太や平井収二郎、実は岩崎弥太郎もこれに同行している。

 ここで当主豊範がはしかにかかる。そのため大坂から出られなくなった。そのため1カ月以上、大坂に滞在する(8月23日に発す)。

 豊範だけではなく、平井収二郎の日記によれば、家臣のうち30歳以下で罹らなかった者はいなかったという。たまたま収二郎は罹らなかった。

 ただそれが幸いした。大坂滞留中、京都に立ち寄り禁裏警衛するよう指示する孝明天皇の内勅が届けられたのだ。

 というのは、土佐出発以来、豊範一行は京都に立ち寄るべきか否か、もめていたから。

 参勤交代行列は、通常京都に立ち寄らない。

 大坂から伏見に入り、しばらく滞在のあと伏見街道を北上する。

 伏見街道は、鴨川の東に位置する南北の道である。京都は鴨川の西に位置する。つまり左折(西行)して鴨川を渡らない限り、京都に入ることはない。

 実際、五条通などで右折(東行)するため京都に入らず、山科・大津・草津を通って関東へ向かう。

 理由は、徳川政府(御公儀)が諸侯と朝廷の接触を嫌ったからといわれる(ほんとうかどうかの実証が必要だが)。

 すでに薩摩や長州は上洛している。

 この事態に、遅れを取りたくない土佐山内家の急進派たち(つまり武市半平太グループ)は、参勤交代で京都至近を通るのだから、ぜひ上洛したいと願った。

 が、老公容堂をはじめ、これまでの秩序を守りたい者たちは、これをためらう。土佐出発から大坂入りまでずっと議論が続いていた。

 そこへ突然、天皇の内勅が下ったわけだから、上洛したい者たちに大義名分ができた。江戸の御公儀(徳川政府)の規範にふれるが、内勅を無視できなかったといえるから。

 内勅降下は武市らの運動もあったと思うが、朝廷の力向上を進める中山忠能の働き掛けも大きかった。中山忠能が土佐上洛を求める文書(草稿ふくむ)が複数残っている(『中山忠能履歴資料』3巻、242ページほか)。

 話が龍馬からそれすぎた。

 前回ふれたように、このころの龍馬の行動はよくわからない。信用できる史料がないから。

 どこまで信用してよいかわからない『維新土佐勤王史』は、龍馬は6月11日に大坂に入ったそうだ(301ページ)。豊範一行の大坂入りの一カ月前である。

 そこで京都から沢村惣之丞を呼んで最近の政治情勢を聞くとともに、大坂南郊住吉の土佐陣屋にいる望月清平に連絡をした。

 ドラマではなぜか大坂にいた沢村惣之丞が、たまたま出会った住吉在陣中の溝渕広之丞におごってもらい、龍馬の話題をしていたが、『維新土佐勤王史』の既述とも異なる。

 当時、溝渕広之丞が住吉に在陣していたかどうかも分からないようだ(渋谷雅之さん『溝渕廣之丞のことなど』220ページ)。

 望月清平は龍馬の出現に驚き、田中作吾を龍馬の旅宿に遣わして警告した。

 寺田屋事件による吉村虎太郎の強制帰国や、吉田東洋殺害の嫌疑が龍馬にかかっていることを伝え、いつ長堀の土佐屋敷から捕吏が向かうかわからない、すぐに大坂を立ち去れと。

 龍馬はこれを受けて、「即時に入京」したと『維新土佐勤王史』はいう。

 これを受け入れるなら、龍馬は大坂や住吉で武市や以蔵、弥太郎と会うことはない。もちろん井上佐一郎絞殺も(文久2年(1862)8月2日)。

 ただ樋口真吉の日記によれば、7月23日、大坂にいた樋口と龍馬は出会っている。樋口は龍馬に「一円」を贈与した(『遣倦記』12ページ)。「一円」は一両のことという。現在の3万円ぐらいか。

 『維新土佐勤王史』を信ずれば一旦京都にのぼり、また大坂に帰ってきたことになる。危険だから京都に上ったのに、問題なかったのだろうか。まだ当主山内豊範一行は大坂に滞在しているのである。

 このあたり残念だがよくわからん。

 望月清平は龍馬の人生に大きく関係した人物である。最晩年、刺客の足跡を聞いた龍馬が避難場所の相談をしたのは望月清平である。

 その弟亀弥太は龍馬とともに勝海舟の門に入り、池田屋事件で死ぬ。妻鞆(龍、西村ツル)の回想によれば、彼女とも知人で二条河原町の角倉邸前で亀弥太の遺体を見たという。

 望月兄弟はドラマの第1話から登場している。こういう深い関係だからと思っていたが、ほとんどセリフもなく、今回もスル―された。どういうこっちゃ。

 今回、住吉陣屋のセットがつくられていた。感激した。龍馬の、いや幕末のドラマで住吉陣屋がつくられたのは初めてではないか。

 最近、僕が案内する各所の龍馬巡検講座で、何度か住吉陣屋跡(現大阪市住吉区東粉浜2の東粉浜小学校付近)にご案内しているが、まったくタイムリーだった。

 ただ大坂逗留中の武市らの居所は、大坂長堀屋敷付近の宿であろう。岩崎弥太郎と同宿だった(弥太郎の日記「東征記」文久2年7月12日条、『岩崎弥太郎伝』上、284ページ)。住吉ではない。残念。

 弥太郎はミスで無断行動をとってしまった。そのため処分され、16日帰還命令をうける。7月20日大坂をたつ(上記「東征記」文久2年7月16日条、『岩崎弥太郎伝』上、286ページ、289・290ページ)。

  それがケガの功名となったといえるかもしれない。

前述のように文久2年(1862)8月2日、弥太郎と同じく吉田東洋門下だった井上佐一郎が、武市一派に殺害される。

 このとき弥太郎も大坂にいつづけたら、もしかしたら殺されていたかも知れないから。人生って何がどうころぶかわからん。

 本日はこのへんで。

 後藤象二郎がみつけた吉田東洋の死体に、顔があったのはおかしい(首級は取られ鏡河原・雁切橋ほとりにさらされたから)とか、井上佐一郎を絞殺したのは以蔵ひとりだけではなかったとか(「岡田以蔵斬罪宣告書」『武市瑞山関係文書』下259~261ページ)、いろいろ指摘できるが、もうやめます。

次回、ようやく龍馬は上洛する由。

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2010.04.09

長楽寺を参拝し龍馬・お龍を論じ「洛中洛外」刊行を考える

4/8(木)はれ

 午前9時、祇園石段下集合。いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」。本日は長楽寺。拝観料650円支払って、「建礼門院展」をみる。

 七条道場金光寺旧蔵品の一遍上人立像(国重文)を初めてみた。

 長楽寺を時宗に改宗させた国阿の木像がないことに違和感を感じたが、一遍像はじめてすべての木像が七条道場金光寺の旧蔵品だとわかると納得できた。

 長楽寺と国阿がとれほど縁がふかかろうが、七条道場金光寺とは関係ないからね。長楽寺には祖僧の独自の木像をもっていなかったのだ。

 今日は灌仏会なので、釈迦如来像に甘茶をかけて、僕らも甘茶をいただいた。

 そのあと裏山の幕末水戸志士の墳墓へ。こちらについては昨年末に当ブログに詳述した。ご感心ありましたらそちらをご覧ください。

 終了後、円山公園の龍馬・慎太郎像の前で花見をかねた昼食会をする。たくさんの人。

 午後1時30分から、京都新聞文化センターの「龍馬」講座に出講。本日は妻お龍(鞆)との出会い。次回は巡検。大仏南門付近をあるく。まだ大仏南門近くに「龍馬ら寓居跡(お龍との出会いの地)」碑は建たぬ。

 終了後、担当Y田係長と、来週に迫った「中村武生と行く、龍馬の土佐史蹟旅行」の最終打ち合わせ。さて7月の「長崎編」は実現するか。

 そのあと7階に移り、出版センターで、「中村武生さんとあるく洛中洛外」の出版話。担当N村さんと初会合。思っていたより、ステキな本になりそうな予感がしてきた。

 刊行予定は夏の末から秋の初めです。

 できたばかりの『第6回京都検定問題と解説』を拝受する。僕も執筆者です。書店にならぶのはもう少しお待ちください。

 夜は奇遇がかさなって、また80年代の曲ばかり流れる店に行く。

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2010.04.08

今年も岡田有希子の日がきた

 4月8日は灌仏会の日であるが、もうひとつ。

 岡田有希子(本名:佐藤佳代)の祥月命日である。

 1986年4月8日午後0時15分から20分の間に、東京都新宿区四谷で亡くなった。18歳7カ月だった。

 同期の菊池桃子さんや長山洋子さん、荻野目洋子さんらがいまも頑張っている。

 忘れないことが供養になると思っている。ゆえに今年も話題にするのである。

 墓所は愛知県愛西市東條町井桁57の成満寺である。最近うかがえていない。

 先日、1980年代の曲ばかり流れる店で、岡田有希子の曲が流れた。アルバム曲でもシングルB面でもなんでも分かるはずだったのに、曲名がわからなかった。

 「スプリング・アクシデント」という曲だった。最後のアルバム「ヴィーナス誕生」の一曲である。年月のせいか、年のせいか。少々、驚いた。

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2010.04.07

祇園社をあるいて綱吉を論じて石碑を打ち合わせて高瀬川で花見

4/6(火)はれ

 朝9時、「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」に出講。

 本日は、3日目(全7日)の2日目。知恩院三門に集合。

 知恩院三門は、「三解脱門」の略だから山門ではなく「三門」だとされるが、江戸中期の観光ガイドブック『都名所図会』には、「三門」ではなく山門とある。

 「三門」は、現代の人のこだわりではないか。

 当て字があたりまえの時代でもあるから、こだわりはないのかも知れない、なんてことを述べる。

 御影堂・阿弥陀堂参拝ののち、祇園社(八坂神社)へ。

 『都名所図会』の挿図を片手に歩き倒す。もともと祇園社は「祇園感神院」ともよばれていたから、寺の顔をもっていた。だから寺院建築もたくさんあった。

 本殿の西側に薬師堂、南東に多宝塔があったことを伝え、その跡地でたたずんでみた。

 また二軒茶屋にも。ただし今回は入らず。

 境内の北側を「祇園林」、東側の円山公園部分を「真葛原(まくずがはら)」と呼んでいたこともお伝えし、真葛原の東奥の安養寺の旧境内をしのんでみた。

 安養寺六坊の多くが廃絶したが、料亭の左阿弥や弁財天など意外と残っているものも少なくない。

 桜がとてもきれいであったが、場所取りテントと、その上で朝からごろごろ寝ている若者群にはみかねた。

 午後0時30分から京都駅前、キャンパスプラザ京都で「基礎からまなぶ!日本歴史」。まだ綱吉政権。次回ようやく赤穂事件か。

 午後2時、某所の石碑建立の打ち合わせ。そのあと大番頭(総務部長)K畑さんと現地にも行く。

 夕方5時から、K畑さんと木屋町三条上ルで花見を兼ねた懇親会。奥さんも合流。

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2010.04.06

【巡検】長楽寺へ

 「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」の次回ご案内です。

 日時:2010年4月8日(木)午前9時~11時

 行き先:長楽寺・東大谷(大谷祖廟)など ※花見によい季節です

 集合場所:祇園石段下(八坂神社西門前、京都市東山区東大路通四条)

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(歴史地理史学者、立命館大学・京都女子大学非常勤講師)

 ※どなたでも参加できます。予約不要。雨天決行

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2010.04.05

名古屋でも京都でも龍馬論

4/3(土)はれ

 栄中日文化センターに出講。「龍馬の生涯をていねいに読み直す」講座、第二期の初日。

 今回はまず平井加尾論。 ちょっとだけ、平井加尾と龍馬について新見解を出せた(と思う)。

 つづいて文久3年(1863)1月から3月の龍馬論。勝海舟に出会ったころの龍馬の動きを、海舟や杉浦梅譚の日記などを使って再検討してみた。

詳細は↓(ただしキャンセル待ち)

http://www.chunichi-culture.com/mgcgi/mgrqcgi.cgi?APPNAME=BunWeb&PRGNAME=kouza_ichiran_para&ARGUMENTS=-N10,-N11,-N12,-N15,-N23

 京都にもどって、関東からこられた友人C野F哉氏と懇親会。また龍馬論を学習。

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2010.04.04

【巡検】祇園社へ

 次回の「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のご案内です。

 次は知恩院から祇園社(八坂神社)に向かいます。さぞかし桜がきれいでしょう。

 日時:2010年4月6日(火)午前9時-11時

 集合場所:知恩院三門前

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(歴史地理史学者、立命館大学・京都女子大学非常勤講師)

 ※どなたでも参加できます。予約不要。当日集合場所へ直接お越しください。雨天決行。

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2010.04.03

幕末をたべた―二軒茶屋中村楼

4月1日(木)あめ

 NHK京都文化センターの講座で「幕末を食べる」が始まった。

 本日その第1回で、祇園社南門前の二軒茶屋中村楼に行った。全員参加で15名。

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 由緒の深いお店である。江戸中期の安永9年(1780)刊行の観光ガイドブック、『都名所図会』に掲載された祇園社の絵の、いまと同じ位置に描かれている。

 すると少なくとも320年も前に、同じ場所に確実に存在するわけだ。すごい。

 二軒茶屋は、その名のとおり、もと二軒あった。門前東側の柏屋と西側の藤屋である。西側の藤屋は廃絶し、東側の柏屋が中村屋となり、中村楼として現存しているのだ。

 この由緒をお話ししたら、もうお食事の時間になった。名物の田楽などおいしい料理をゆっくりゆっくりいただいた。

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 お食事会のあと、学習のつづき。幕末土佐山内家の家臣がよく使ったことを、寺村左膳や神山左多衛の日記で確認した(前者が慶応3年11月14日、後者が同11月15日)。

 そう、龍馬殺害の前日と当日である。そして有名になったのが、龍馬の刺客の遺留品の下駄のひとつが中村屋のものだったという話。「中」の印があったという。

 でもこれは鳥取池田家の風説留に記録されたものなので、あまり信用ができないと申し上げた。

 そのときはお話ししなかったのだが、ほかに有名なのが、先斗町の瓢亭の下駄が残されていたという話。

 事件直後、近江屋新助が、先斗町の瓢亭に問うと、職員が前日に新選組に貸したと述べたという。

 でもこの出典は岩崎鏡山「坂本と中岡の死」である。岩崎鏡山が近江屋新助の子息、井口新之助から聞いた話。同時代史料ではない。つまりいずれもあまり当てにならない。

 雨が降っていたが、最後に屋外へ出て、『都名所図会』に描かれた姿を現況と比較してみた。

 あと藤屋跡に現在建つ、「迷子石」をご紹介して終わった。

 楽しかった。次回も楽しみだ。

 詳しくは http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_542014.html

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2010.04.02

龍馬伝第13回をみた

 龍馬伝第13回「さらば土佐よ」をみた。

 冒頭、武市半平太が、吉田東洋の殺害を龍馬に迫る。

 そういう事実があったかどうかは分からないが、それを妻富が聞いていて、反対するシーンがあった。

 これは事実ではなかろう。富は武市が吉田東洋殺害の指示者とは知らなかったはずだ。

 というのは、のち武市が吉田東洋殺害の嫌疑で下獄した際、武市の妻富宛書翰に、

「吉田の国賊を切りしとて、御国の為なれハ、はづかしき事はすこしもなしされども、身に覚のなき事は致しかたもなし。夫(それ)ゆへに、左様の事はせぬと申候。上(かみ)からは、しきりに御うたがいなれとも、身ニ覚のなき事ゆへ、たとへ寸々にきざまれても心は動かしハせぬつもりにて候」

と述べているから(元治元年(1864)5月下旬カ。『武市瑞山関係文書』1巻、456ページ)。

 後藤象二郎が岩崎弥太郎に龍馬の殺害を命じたこと、吉田東洋が再び龍馬を評価したこと、もちろんフィクションである。いう必要もないか。

 今回のドラマ、吉村虎太郎を誰が演じるのか楽しみにしていた。

  龍馬の亡命まじかなので、それより先に亡命する虎太郎もそろそろと思っていたら、出なかった。亡命したうわさが流れただけだった。少々、残念。

 本ドラマでは、龍馬らが亡命する理由がよく分からない。

 当初は反対した家族が、最後は全員理解して暖かく龍馬の亡命を認めていた。

 違和感があるのは当然だが、理解するにはあまりに具体性のない亡命だと思った。

 何のためにいま龍馬は土佐を捨てするのか、それは土佐国内ではできないことなのか、その説明が不足している。他の視聴者は満足しておられるのだろうか。

 当時、薩摩や長州の有志による、京都での挙兵計画があった。

 ただし「討幕」ではない。安政の大獄の責任者である関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義の殺害計画である。

 これが成功するなら、江戸では政変がおこり、安政の大獄に連座した「正義」の大名が政界復帰できるという見込みであろう。

 龍馬は、長州萩で久坂玄瑞からこの情報をえたと思われる。

 おそらくこの挙兵、長州が主導していた(町田明広氏『島津久光=幕末政治の焦点』111ページ、講談社選書メチエ、2009年)。

 大名を総大将にして動くのではなく、有志達が集合し実施すべきである、もしそれによってそれぞれの所属していた大名がお取りつぶしになっても、ことがなれば(日本全体がよくなるなら)問題はないといった。

 久坂が龍馬に託した武市宛の書翰に、

 「竟(つい)に諸侯、恃(たのむ)に足らず。公卿、恃(たのむ)に足らず。草莽志士、糾合義挙の外(ほか)には迚(とて)も策これ無き事と、私共同志中申合居候事ニ御座候。失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれは苦しからず」

とある(文久2年(1862)1月21日付、武市半平太宛、久坂玄瑞書翰。『武市瑞山関係文書』1巻、60ページ)。

 大名家臣の発言としては革命的な意味をもつであろう(大名への忠が絶対的な価値だった時代であるから)。

 久坂は武市に、龍馬と「腹臓無く御談合したので詳しくは龍馬から聞いてほしい」と述べたあと、上記部分につながるので、龍馬が手紙の内容を知っていたことは確実である。

 龍馬亡命の直接は原因はこれであろう。

 龍馬は京都挙兵に参加するつもりで亡命したと考えるが自然である。

 ただし亡命後、龍馬は史料上、行方不明になる。

 かろうじて『維新土佐勤王史』が、京都にはいかず、九州へ薩摩島津家などを見聞に行ったとする。

 吉村虎太郎がすでに上方に向かったので、後塵を拝すのがいやだったという。 

 同行の沢村惣之丞とは下関でわかれた。沢村は龍馬の指示で、京都に向かい、公家侍となり朝廷の様子を探ることにした(同書、108ページ)。

 事実ではない、とはいわない。

 が、信用にたる史料がないので、もう少し考えたい。龍馬・沢村のいずれの行動も理解できないので。

 京都挙兵に参加しないならば、「いま」亡命する必要がないからだ。生命の危機などの緊急性でもないかぎり、衝動的に家族や主家を捨てるとは思いにくい。

 なお亡命のコースも、いわゆる「脱藩の道」など観光地としての整備も進められ、多くの方が受け入れておられる。が、とても無批判に受け入れられない。

 これは、村上恒夫氏の『坂本龍馬脱藩の道を探る』に掲載された、「覚・関雄之助口供之事」なる史料が根拠になっている(新人物往来社、1989年、95ページ)。

 関雄之助とは沢村惣之丞の別名である。

 1873年(明治6)11月15日、龍馬といっしょに亡命した沢村の口述記録を、「高松小埜」なる人物(龍馬の甥、小野淳輔こと高松太郎と解釈されている)が誌したものとされている。

 使えるものなら、最高の史料といいたいのだが、残念ながら、原文書が存在しない。

 1925年(大正14)ごろ、安岡大六が、高知県安田村の小島二郎から入手した原文書を、1968年(昭和43)2月下旬、福井清氏が筆写し、それを1986年(昭和61)7月ごろ、村上恒夫氏が見られ、発表されたというのが経過である(同書、88~98ページ)。

 関係者の尽力には心よりの敬意を示している。モノがまったく残らなかったら話にならなかったから。

 が、安岡大六が所蔵していた原文書があれば議論は可能なのだが、やはり現段階では龍馬の伝記を書くにあたっては、参考ていどの位置しか与えられない。

 ただまったく裏づけられないわけではない。

 ドラマのエンディング「龍馬伝紀行」にも紹介されていたが、那須信吾の書翰である(文久2年(1862)11月16日付、養父那須俊平宛)。

 「覚・関雄之助口供之事」によれば、途中まで那須俊平・信吾父子は、龍馬と沢村に同行している。

 3月26日(亡命は3月24日)、「韮ヶ峠」で信吾が別れ、27日、「宿間村」で俊平と別れている。

 那須父子は、高岡郡梼原村の住民である。亡命ルートの途中にあたるので、常識的には3月26日以前は、那須宅に宿泊した可能性が指摘できる。

 そこで先の那須信吾の書翰だ。「○当春、坂本龍馬同行ニ而(て)、内ニ而(て)宿リ、亡命仕候沢村惣之丞と申ハ」・・・・とつづく。

 「内」が那須宅でよければ、龍馬らは那須宅に泊まっている。少なくとも亡命の際、途中で那須父子に会っていることは確実だ。

 これは「覚・関雄之助口供之事」と矛盾しない。

 この那須信吾の書翰は、いつも便利で重宝している菊地明氏・山村竜也氏編『坂本龍馬日記』上巻の当該部分からなぜかもれており、あまり知られていないようだ。

 が、横田達雄氏編『那須信吾書簡』3巻(県立青山文庫後援会、1983年)10ページに掲載されている。ご参考まで。

 今後、これにとどまらず、さらに裏付けられる情報が出現すればありがたい。

 次回からは第2部で、わが京坂地区に龍馬は出現するようです。

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2010.04.01

 「新発見!龍馬の史料」

 「龍馬の貴重な史料があらたに発見された」というメールがきた。

 ヤフーニュースに載っているというので、パソコンを立ち上げようと思ったら、エイプリルフールだった。

 こんないたずらはやめてください。

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