龍馬伝第14回をみた
龍馬伝第14回「お尋ね者龍馬」をみた。
龍馬が大坂に現れた。
武市半平太と出会っていたので、舞台設定は文久2(1862)7月12日以後である。
この時期、山内家当主豊範は、参勤交代のため江戸に向かう。その途中に大坂に滞在しているのである(『山内家史料幕末維新』第3編上、421~426ページ)。
半平太や平井収二郎、実は岩崎弥太郎もこれに同行している。
ここで当主豊範がはしかにかかる。そのため大坂から出られなくなった。そのため1カ月以上、大坂に滞在する(8月23日に発す)。
豊範だけではなく、平井収二郎の日記によれば、家臣のうち30歳以下で罹らなかった者はいなかったという。たまたま収二郎は罹らなかった。
ただそれが幸いした。大坂滞留中、京都に立ち寄り禁裏警衛するよう指示する孝明天皇の内勅が届けられたのだ。
というのは、土佐出発以来、豊範一行は京都に立ち寄るべきか否か、もめていたから。
参勤交代行列は、通常京都に立ち寄らない。
大坂から伏見に入り、しばらく滞在のあと伏見街道を北上する。
伏見街道は、鴨川の東に位置する南北の道である。京都は鴨川の西に位置する。つまり左折(西行)して鴨川を渡らない限り、京都に入ることはない。
実際、五条通などで右折(東行)するため京都に入らず、山科・大津・草津を通って関東へ向かう。
理由は、徳川政府(御公儀)が諸侯と朝廷の接触を嫌ったからといわれる(ほんとうかどうかの実証が必要だが)。
すでに薩摩や長州は上洛している。
この事態に、遅れを取りたくない土佐山内家の急進派たち(つまり武市半平太グループ)は、参勤交代で京都至近を通るのだから、ぜひ上洛したいと願った。
が、老公容堂をはじめ、これまでの秩序を守りたい者たちは、これをためらう。土佐出発から大坂入りまでずっと議論が続いていた。
そこへ突然、天皇の内勅が下ったわけだから、上洛したい者たちに大義名分ができた。江戸の御公儀(徳川政府)の規範にふれるが、内勅を無視できなかったといえるから。
内勅降下は武市らの運動もあったと思うが、朝廷の力向上を進める中山忠能の働き掛けも大きかった。中山忠能が土佐上洛を求める文書(草稿ふくむ)が複数残っている(『中山忠能履歴資料』3巻、242ページほか)。
話が龍馬からそれすぎた。
前回ふれたように、このころの龍馬の行動はよくわからない。信用できる史料がないから。
どこまで信用してよいかわからない『維新土佐勤王史』は、龍馬は6月11日に大坂に入ったそうだ(301ページ)。豊範一行の大坂入りの一カ月前である。
そこで京都から沢村惣之丞を呼んで最近の政治情勢を聞くとともに、大坂南郊住吉の土佐陣屋にいる望月清平に連絡をした。
ドラマではなぜか大坂にいた沢村惣之丞が、たまたま出会った住吉在陣中の溝渕広之丞におごってもらい、龍馬の話題をしていたが、『維新土佐勤王史』の既述とも異なる。
当時、溝渕広之丞が住吉に在陣していたかどうかも分からないようだ(渋谷雅之さん『溝渕廣之丞のことなど』220ページ)。
望月清平は龍馬の出現に驚き、田中作吾を龍馬の旅宿に遣わして警告した。
寺田屋事件による吉村虎太郎の強制帰国や、吉田東洋殺害の嫌疑が龍馬にかかっていることを伝え、いつ長堀の土佐屋敷から捕吏が向かうかわからない、すぐに大坂を立ち去れと。
龍馬はこれを受けて、「即時に入京」したと『維新土佐勤王史』はいう。
これを受け入れるなら、龍馬は大坂や住吉で武市や以蔵、弥太郎と会うことはない。もちろん井上佐一郎絞殺も(文久2年(1862)8月2日)。
ただ樋口真吉の日記によれば、7月23日、大坂にいた樋口と龍馬は出会っている。樋口は龍馬に「一円」を贈与した(『遣倦記』12ページ)。「一円」は一両のことという。現在の3万円ぐらいか。
『維新土佐勤王史』を信ずれば一旦京都にのぼり、また大坂に帰ってきたことになる。危険だから京都に上ったのに、問題なかったのだろうか。まだ当主山内豊範一行は大坂に滞在しているのである。
このあたり残念だがよくわからん。
望月清平は龍馬の人生に大きく関係した人物である。最晩年、刺客の足跡を聞いた龍馬が避難場所の相談をしたのは望月清平である。
その弟亀弥太は龍馬とともに勝海舟の門に入り、池田屋事件で死ぬ。妻鞆(龍、西村ツル)の回想によれば、彼女とも知人で二条河原町の角倉邸前で亀弥太の遺体を見たという。
望月兄弟はドラマの第1話から登場している。こういう深い関係だからと思っていたが、ほとんどセリフもなく、今回もスル―された。どういうこっちゃ。
今回、住吉陣屋のセットがつくられていた。感激した。龍馬の、いや幕末のドラマで住吉陣屋がつくられたのは初めてではないか。
最近、僕が案内する各所の龍馬巡検講座で、何度か住吉陣屋跡(現大阪市住吉区東粉浜2の東粉浜小学校付近)にご案内しているが、まったくタイムリーだった。
ただ大坂逗留中の武市らの居所は、大坂長堀屋敷付近の宿であろう。岩崎弥太郎と同宿だった(弥太郎の日記「東征記」文久2年7月12日条、『岩崎弥太郎伝』上、284ページ)。住吉ではない。残念。
弥太郎はミスで無断行動をとってしまった。そのため処分され、16日帰還命令をうける。7月20日大坂をたつ(上記「東征記」文久2年7月16日条、『岩崎弥太郎伝』上、286ページ、289・290ページ)。
それがケガの功名となったといえるかもしれない。
前述のように文久2年(1862)8月2日、弥太郎と同じく吉田東洋門下だった井上佐一郎が、武市一派に殺害される。
このとき弥太郎も大坂にいつづけたら、もしかしたら殺されていたかも知れないから。人生って何がどうころぶかわからん。
本日はこのへんで。
後藤象二郎がみつけた吉田東洋の死体に、顔があったのはおかしい(首級は取られ鏡河原・雁切橋ほとりにさらされたから)とか、井上佐一郎を絞殺したのは以蔵ひとりだけではなかったとか(「岡田以蔵斬罪宣告書」『武市瑞山関係文書』下259~261ページ)、いろいろ指摘できるが、もうやめます。
次回、ようやく龍馬は上洛する由。
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