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2010.03.14

龍馬伝第11回をみた

 龍馬伝第11回「土佐沸騰」をみた。

 今回は岩崎弥太郎の長崎からの帰郷と、桜田門外の変から始まった。年次は前者が安政7年(1860)4月、後者が同年3月。

 そうすると安政の大獄はすでに終わったことになる。既述したが、安政5年(1858)11月、水戸の住谷寅之助らが土佐国境で龍馬に連絡をとり、土佐入国の仲介を願った話が描かれなかった。

 この住谷の日記に、出会った龍馬の印象が記されている。「龍馬、誠実可成(かなり)ノ人物。併(しか)し撃剣家。事情迂闊(うかつ)、何も不知(しらず)トソ」(『坂本龍馬全集』4訂、656ページ)。

 政治史のなかの龍馬の位置を知れる、最初の重要な事実なのに、それを無視されたことに驚いた。当ドラマは事実を描くことにさほどの意義を感じておられないご様子。

 今回大きい扱いを受けたのは「井口村刃傷事件(永福寺門前事件)」だった。

 事件は文久元年(1861)3月4日におきた。下士池田寅之進が、永福寺門前で、その実弟中平忠次郎を上士山田広衛に殺害された。

 中平とともに現場にいた宇賀喜久馬の通報で事件を知った池田は、殺害現場に駆け付け、その場で山田と同行の益永繁斎を斬り殺す(益永は一命をとりとめたともいう)。

 池田と宇賀が切腹することで事件は決着したが、これをめぐって龍馬ら下士は池田宅に集会し、上士に対抗する姿勢をみせたというもの。

 が、意外と信用できる史料がない。

 主な出典は、いつもの『維新土佐勤王史』(65ページ)である。が、それほど大きい扱いはしていない。

 大きい扱いをしたのは、最初の龍馬の伝記『汗血千里駒』である。同書は事件を冒頭に置き、亡くなった池田から流れた血を、龍馬が刀の白下緒(しろさげお)をひたし赤く染めるシーンを描いた。龍馬の大物ぶりを予感させるエピソードとして使っている。

 ちなみに『維新土佐勤王史』も『汗血千里駒』も著者は同じで、坂崎紫瀾である。第一回でふれた、あの坂崎である。

 『汗血千里駒』は、井口村事件を土佐国内の上士と下士の対立の象徴たる事件として扱い、それを龍馬登場のきっかけに使った。

 が、同じ坂崎の著書『維新土佐勤王史』では、そのように描かないことは注意すべきだろう。両書の執筆意図がちがうからであろう。

 土佐山内家史料の決定版、『山内家史料』の当該部分は、同事件の立項さえしていない(『山内家史料/幕末維新第三編上/第十六代豊範公紀』)。

 編者である山内家の家史編集所は、この事件に見向きもしていないわけだ。単に史料がなかったからだけではないのだろう。

 吉田東洋に龍馬が見込まれ、上士に取り立てることを望まれたのはもちろんフィクションである。

 「土佐勤王党」結成は、同年(文久元年=1861)8月の江戸においてである。江戸滞在中の武市が、水戸や薩摩、長州の有志と深い交流をしたことに端を発する。

 今回は3月の井口村事件からの連続で「勤王党」は成立した。つまり土佐で成立した。成立過程に問題があるのは当然としても、武市の江戸滞在さえ描かれなかったのは、「勤王党」の性格をゆがめることになりかねない、と思った。

 土佐で成立したのに、誓書の連署・血判が江戸の仲間から始められていた。この矛盾を、「江戸におる同志はすでに仲間に加わった」の一言で片づけておられた。そんなシーンはなくてもよかったのではないか。

 写本とはいえ、現在知られる連署には、諱(いみな)が記されている。たとえば武市半平太なら、そのあとに「小楯」の文字がくる。これが省略されていた。使われた小道具でさえすでに事実を描こうとしておられないのである。なのに首領武市が土佐にいるのに、武市のあと「江戸の同志」から連署が始まっているわけだ。

 ドラマをつくる方々の、歴史的事実から自由になりきれないつらさを垣間見た気がした。

 今回はこのへんで。

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