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2010.03.28

龍馬伝第12回をみた

 龍馬伝第12回「暗殺指令」をみた。

 つっこみどころ、満載だった。

 今回は前回(第11回「土佐沸騰」)のつづき。「土佐勤王党」結成からだった。

 前回のおわり、武市半平太(大森南朋さん扮する)が「土佐勤王党」結成の理由を語っている。

 「攘夷は京におられるミカドのご意志。つまり攘夷こそがミカドの御ために働くいうことぜよ」。

 今回の冒頭でも類似のことを言っておられた。「勤王党」という名ですからね。あとその思想を「尊王攘夷」なんてよぶから、いかにも妥当なように聞こえたかも知れないが、実はかなりかたよっている。

 そもそも「土佐勤王党」なる団体名は後世のものである。同時代の名前ではない。では当時何とよんでいたのか。まったくわからない。実は団体名はなかったのではないか。このことを論じた人は、管見では皆無である。

 「盟に曰く」にはじまる、その宣言文で武市は、天皇のためだけに働くとはいっていない。何と言っているか(『武市瑞山関係文書』1巻、36~37ページ)。

 この国が西洋に侮辱をうけている、これを天皇がなげいているが、誰一人その災禍を除くものがいない。といったうえで、我が老公(山内容堂)の話題になる。

 我が老公はこれを心配して政府中枢に働きかけたが、そのせいでかえって罪に服することになった(安政の大獄に連座したことをさす)。

 そして「君、恥かしめを受る時は臣死すと。」と述べる。天皇の意志を実行しようとした我が老公が侮辱を受けているから我々は立たねばならぬ、ともってくるわけだ。

 つまり基準は山内容堂なのである。

 「錦旗、若(も)し一(ひ)とたび揚らバ、団結して水火をも踏むと、爰に神明に誓」う。すなわち「天皇の命令が下ったら、団結してどんな災難にもたちむかっていくぞと神に誓う」とあるから天皇中心かと思いがちだが、ちがう。

 その続きは、「上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患(うれい)をも払はんとす」なのだ。

 訳すと「天皇の心を静めてあげ、(それを実行しようという)老公の志をつぎ、万民の不安を解消してやろう」。

 最後に一般民に言及していることを見逃してはならない。みたこともない天皇オンリーではなく、庶民の現実の生活の救いを叫んでいるのである。

 これがあるから武市は、多くの者に支持されたと思うべきだろう。賛同するもの、約200名が連署・血判するのである。

 後世についた「勤王党」や「尊王攘夷運動」なる名前により、解釈がかたよってしまったことが惜しまれる。

 岡田以蔵(佐藤健さん扮する)が、龍馬のあと連署・血判していたのは違和感があった。実は「盟」や連署・血判は、原本が現存しない。写本だけである。そこには以蔵の名はない。

 それはのち、文久3年(1863)2月、老公山内容堂が組織の存在を知り、連署・血判状の提出を命じた際、吉田東洋を含む各地の殺人事件の実行者の名を消したためと考えられている(たとえば松岡司さん『武市半平太伝―月と影と』44ページ、新人物往来社、1997年)。

 上記は、上岡胆治の日記、文久3年(1863)2月26日ごろの記載が根拠のひとつである(上岡胆治『憤余管見録』72ページ、高知県文教協会、1976年)。

 「薩の三士の事に依て、盟書を早く京都に取り帰るの事もあり」。

 【意訳】薩摩屋敷(にかくまわれている吉田東洋を殺害した那須信吾ら)の三士のことがあるので、盟書を京都で(内容を)取り替えるということがあった)。

 いい遅れた。当初は、岡田以蔵の名もあったと思われる。が、署名・血判をした場所は土佐高知ではない。組織した直後、つまり前回ふれたように江戸であったと思われる。以蔵は武市とともに江戸にいたのだから。

 それは島村衛吉が、土佐獄中で「小笠原(保馬)・岡田(以蔵)両人、江戸ニテ盟セシ人ナリ」と述べている(慶応元年(1865)正月中旬カ、武市半平太宛、島村衛吉書翰、『武市瑞山関係文書』2巻、27ページ。参考として「高知藩維新形勢始末史料稿」『皆山集』5巻、125~128ページ)。

 ちなみに山内容堂は組織の存在をながく知らなかった。外部の松平春嶽に教えてもらって知るようだ(松岡司さん『武市半平太伝』152ページ、1997年。文久3年2月8日付松平春嶽宛・山内容堂書翰が出典か、平尾道雄編『容堂公遺翰』下、7ページ)。今回のドラマ中、武市は堂々と吉田東洋に組織の存在を語っていたがありえない。

 ながくなった。

 龍馬が長州萩にむかった。岩崎弥太郎こと香川照之さんのナレーションが、「龍馬にとって剣術修行でない旅は初めてじゃった」と述べたが、ごめんなさい。大まちがいです。

 この旅は前回二度の江戸旅行と同じく、剣術修行を名目に山内家から許可が出たものである。讃岐丸亀への剣術修行である。これは例の平尾道雄による写ししか現存しない「福岡家御用日記」が典拠である(文久元年(1861)10月9日および10月12日条)。

 そののち(同年11月ごろ)、旅行先から期間延長を申し出る。安芸国「坊砂」へも行きたいからというものである(文久2年(1862)2月24日条)。山内家はこれも許可している。

 「坊砂」という地名は聞かない(たとえば『広島県の地名』平凡社に立項されない)。原本の誤りか、筆写した平尾道雄の誤りか。これまた管見では、実際はどこなのか論じられた方はいないようだ。

 この延長期間中、文久2年(1862)1月14日、ほんらいの目的とは異なる行為として、長州萩に入り、武市の手紙を久坂玄瑞に渡す(「江月斎日乗」同日条。福本義亮編『久坂玄瑞全集』289ページ、1992年)。

 武市が長州行きを許可していたが、それはニュアンスがちがう。旅行の許可さえ武市の裁量でできるかのようである。誤解のものだ。

 まだまだいっばいあるが、とても時間がないので、今回はここまで。

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