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2010.03.31

【講座】2010年4月・5月の中村武生ゼミ

 明日から4月ですね。

 2010年4月と5月の中村武生ゼミのご案内をいたします。

※どなたでも参加できます。予約不要です。直接会場にお越しください。

<中村武生の基礎からまなぶ!日本歴史>原則毎週火曜日

※この一週間の中村武生の活動、新聞の歴史記事、高校日本史レベルの講義などを1時間10分ほど語ります。

日程:4月6日(火)、4月13日(火)、4月20日(火)、4月27日(火)。

5月11日(火) 5月25日(火)。 ※5月4日(火)と5月18日(火)は休講です

<中村武生のくずし字入門>原則毎週金曜日 ※注意4月14日は水曜日です

※近世・近代のくずし字を実際に読む演習講座です。

日程:4月2日(金)、4月9日(金)、4月14日(水)4月23日(金)、4月30日(金)。

5月7日(金)、5月14日(金)、5月21日(金)、5月28日(金)。

                      記

会場:キャンパスプラザ京都(京都市下京区西洞院通塩小路下ル東側。JR京都駅烏丸中央改札より西へ徒歩5分。ピックカメラの北向かい)

時間:12時30分~13時40分(午後0時30分~1時40分)

参加費:ワンコイン(500円)。

定員:60人まで

講師:中村武生(歴史地理史学者・立命館大学・京都女子大学非常勤講師)

主催:京都史蹟隊(通称・中村武生ゼミ)

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2010.03.30

睡眠2時間で来賓・くずし字。

3/26(金)はれ

 朝までかかって、ある連載記事を書きあげる。

 睡眠2時間で起きる。すぐ『京都新聞』朝刊の「中村武生さんとあるく洛中洛外」最後の記事を確認する。ネタは「西郷隆盛の京屋敷をさがす」。本日最終回。1年間、長かった。

 よく聞かれるので。出版計画はあります。京都新聞出版センターが引き受けてくれる由です。

 伏見区竹田で某イベント開催。来賓として出席する。既知のS市議のお招きである。副知事、副市長、区長とえらい人ばっかりで驚いた。知事は選挙で欠席。市長は天皇・皇后帰洛でその接待の由。

 午後から「中村武生のくずし字入門」に出講。前回から新シリーズに入った。受講者、もう盛り上がっている。すごい。そのうち舞台地の巡検もするだろう。主人公の墓参は、特別許可をもらって。

 次回は4月2日(金)午後0時30分~1時40分です。会場はいつものキャンパスプラザ京都5階第3・4演習室です。参加費500円。予約不要、どなたでも参加できます、です。

 夜は木屋町三条の焼き肉店へ。一週間お仕事頑張った奥さんの慰労。

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2010.03.29

大坂の龍馬ゆかりの地をあるいた

3/25(木)

 既述だが、午前中、いつもの「江戸時代京都の観光モデルコース」2日目を終える。

 午後から京都新聞文化センター「龍馬講座」の巡検で、大阪市内へ。

 伏見と大坂を結ぶ船乗り場跡のうち、龍馬ゆかりといえる2ヶ所(「八軒家」堺屋重兵衛跡と、東横堀の思案橋西詰め河内屋与次兵衛跡)をたずねる。

 前者は、近年奥野聡子氏が、大阪市立中央図書館蔵の安政3年(1856)の水帳(土地台帳)から、新選組ゆかりの京屋忠兵衛の東隣地にあったことを明らかにされた(同氏「新選組定宿・京屋忠兵衛跡を発見!」『維新の道』136号、霊山歴史館、2010年)。

 神戸村に移る前の勝海舟の大坂の居所跡は複数ある。今回は2か所を訪ねた。

 まず近藤長次郎の息子百太郎が伝える「北鍋屋町専称寺」跡(吉村淑甫『近藤長次郎』144ページ、毎日新聞社、1992年)。

 『海舟日記』文久3年(1863)3月1日条に記載された、勝の旅宿「北溜屋町真正寺」は誤記で、正しくはここか。それなら同日龍馬らが京都より訪ねている(勁草書房版『勝海舟全集』18巻、32ページ)。

 やはり近年、前述奥野聡子氏が、大阪市立中央図書館蔵の水帳から北鍋屋町「専称寺」を確認された(同氏より教示)。

 また望月亀屋太の母宛書翰(文久3年(1863)1月21日付)にある、「本町三丁目、先生の御旅宿」も勝の旅宿跡のひとつである(横川正郎編・解読『維新志士の手紙/望月亀屋太・間崎滄浪』5ページ、維新志士の手紙刊行会、1997年)。

 詳しくはわからないが、現在の本町三丁目を訪ねてみた。

 それから地下鉄に乗り、西区西長堀駅ちかくの土佐屋敷跡へ。現在も立派な土佐稲荷社があるため意識できる。

 維新後は岩崎弥太郎のものになったので、いまも三菱関係社の保護が多いらしい。玉垣に「三菱」の多いこと。

 「岩崎弥太郎邸跡」の碑もあり、今年の史蹟めぐりにはまったく都合がよい。訪問者も多いはず。幕末期の石造物も少なからずあり、龍馬らが触ったかもと遊んでみる。

 大坂の龍馬や幕末史蹟はとても多い。が。京都に比して知られることが少ない。おしいことだ。

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2010.03.28

龍馬伝第12回をみた

 龍馬伝第12回「暗殺指令」をみた。

 つっこみどころ、満載だった。

 今回は前回(第11回「土佐沸騰」)のつづき。「土佐勤王党」結成からだった。

 前回のおわり、武市半平太(大森南朋さん扮する)が「土佐勤王党」結成の理由を語っている。

 「攘夷は京におられるミカドのご意志。つまり攘夷こそがミカドの御ために働くいうことぜよ」。

 今回の冒頭でも類似のことを言っておられた。「勤王党」という名ですからね。あとその思想を「尊王攘夷」なんてよぶから、いかにも妥当なように聞こえたかも知れないが、実はかなりかたよっている。

 そもそも「土佐勤王党」なる団体名は後世のものである。同時代の名前ではない。では当時何とよんでいたのか。まったくわからない。実は団体名はなかったのではないか。このことを論じた人は、管見では皆無である。

 「盟に曰く」にはじまる、その宣言文で武市は、天皇のためだけに働くとはいっていない。何と言っているか(『武市瑞山関係文書』1巻、36~37ページ)。

 この国が西洋に侮辱をうけている、これを天皇がなげいているが、誰一人その災禍を除くものがいない。といったうえで、我が老公(山内容堂)の話題になる。

 我が老公はこれを心配して政府中枢に働きかけたが、そのせいでかえって罪に服することになった(安政の大獄に連座したことをさす)。

 そして「君、恥かしめを受る時は臣死すと。」と述べる。天皇の意志を実行しようとした我が老公が侮辱を受けているから我々は立たねばならぬ、ともってくるわけだ。

 つまり基準は山内容堂なのである。

 「錦旗、若(も)し一(ひ)とたび揚らバ、団結して水火をも踏むと、爰に神明に誓」う。すなわち「天皇の命令が下ったら、団結してどんな災難にもたちむかっていくぞと神に誓う」とあるから天皇中心かと思いがちだが、ちがう。

 その続きは、「上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患(うれい)をも払はんとす」なのだ。

 訳すと「天皇の心を静めてあげ、(それを実行しようという)老公の志をつぎ、万民の不安を解消してやろう」。

 最後に一般民に言及していることを見逃してはならない。みたこともない天皇オンリーではなく、庶民の現実の生活の救いを叫んでいるのである。

 これがあるから武市は、多くの者に支持されたと思うべきだろう。賛同するもの、約200名が連署・血判するのである。

 後世についた「勤王党」や「尊王攘夷運動」なる名前により、解釈がかたよってしまったことが惜しまれる。

 岡田以蔵(佐藤健さん扮する)が、龍馬のあと連署・血判していたのは違和感があった。実は「盟」や連署・血判は、原本が現存しない。写本だけである。そこには以蔵の名はない。

 それはのち、文久3年(1863)2月、老公山内容堂が組織の存在を知り、連署・血判状の提出を命じた際、吉田東洋を含む各地の殺人事件の実行者の名を消したためと考えられている(たとえば松岡司さん『武市半平太伝―月と影と』44ページ、新人物往来社、1997年)。

 上記は、上岡胆治の日記、文久3年(1863)2月26日ごろの記載が根拠のひとつである(上岡胆治『憤余管見録』72ページ、高知県文教協会、1976年)。

 「薩の三士の事に依て、盟書を早く京都に取り帰るの事もあり」。

 【意訳】薩摩屋敷(にかくまわれている吉田東洋を殺害した那須信吾ら)の三士のことがあるので、盟書を京都で(内容を)取り替えるということがあった)。

 いい遅れた。当初は、岡田以蔵の名もあったと思われる。が、署名・血判をした場所は土佐高知ではない。組織した直後、つまり前回ふれたように江戸であったと思われる。以蔵は武市とともに江戸にいたのだから。

 それは島村衛吉が、土佐獄中で「小笠原(保馬)・岡田(以蔵)両人、江戸ニテ盟セシ人ナリ」と述べている(慶応元年(1865)正月中旬カ、武市半平太宛、島村衛吉書翰、『武市瑞山関係文書』2巻、27ページ。参考として「高知藩維新形勢始末史料稿」『皆山集』5巻、125~128ページ)。

 ちなみに山内容堂は組織の存在をながく知らなかった。外部の松平春嶽に教えてもらって知るようだ(松岡司さん『武市半平太伝』152ページ、1997年。文久3年2月8日付松平春嶽宛・山内容堂書翰が出典か、平尾道雄編『容堂公遺翰』下、7ページ)。今回のドラマ中、武市は堂々と吉田東洋に組織の存在を語っていたがありえない。

 ながくなった。

 龍馬が長州萩にむかった。岩崎弥太郎こと香川照之さんのナレーションが、「龍馬にとって剣術修行でない旅は初めてじゃった」と述べたが、ごめんなさい。大まちがいです。

 この旅は前回二度の江戸旅行と同じく、剣術修行を名目に山内家から許可が出たものである。讃岐丸亀への剣術修行である。これは例の平尾道雄による写ししか現存しない「福岡家御用日記」が典拠である(文久元年(1861)10月9日および10月12日条)。

 そののち(同年11月ごろ)、旅行先から期間延長を申し出る。安芸国「坊砂」へも行きたいからというものである(文久2年(1862)2月24日条)。山内家はこれも許可している。

 「坊砂」という地名は聞かない(たとえば『広島県の地名』平凡社に立項されない)。原本の誤りか、筆写した平尾道雄の誤りか。これまた管見では、実際はどこなのか論じられた方はいないようだ。

 この延長期間中、文久2年(1862)1月14日、ほんらいの目的とは異なる行為として、長州萩に入り、武市の手紙を久坂玄瑞に渡す(「江月斎日乗」同日条。福本義亮編『久坂玄瑞全集』289ページ、1992年)。

 武市が長州行きを許可していたが、それはニュアンスがちがう。旅行の許可さえ武市の裁量でできるかのようである。誤解のものだ。

 まだまだいっばいあるが、とても時間がないので、今回はここまで。

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2010.03.27

紫野・鷹峯をあるき上七軒であそぶ

3月24日(水)あめ

 午後1時から、よみうり文化センター京都教室で、京都市北区紫野・鷹峯地区をあるく。

 江戸時代、上品蓮台寺(十二坊)の旧境内には北門と南門があった。夜に両門が閉鎖されると、現在の千本鞍馬口と千本北大路間は行き来ができなかったはず。ではどうしていたか、なんて話をした。

 ツラッティ千本を参観し、御土居堀跡を追う。北西隅の「御土居堀史蹟公園」が完成していた。思うこと甚大。感謝・感謝である。

 光悦町では旧知のT畑先生にばったり。以前、T畑先生など地元の方に指摘した鷹峯の旧道に標柱が建っていた。知らんかった。

 終了後、無理を言って、閉店直後の鷹峯茶屋で休憩させてもらう。ありがとうございました。

 今回が最終回だし、いつものようにぜひ受講の方と懇親会をしたかったのだが、別件があり、あきらめる。

 夕方から上七軒歌舞練場にいく。「北野をどり」開始前日。このたび上七軒歌舞練場修復がなったので、関係者の招待があったため。「北野をどり」参観。市長と知事をみた。

 夜はお茶屋「大文字」で、舞芸妓とあそぶ。いつも楽しくさせていただきありがたいこと。

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2010.03.26

御礼!中村武生と行く龍馬、土佐の史蹟へ

 京都新聞旅行センター主催「中村武生と行く!坂本龍馬、土佐の史蹟へ」は、おかげさまで応募者多数で、定員いっぱいになりました(2010年4月16日出発。1泊2日)。

 ありがとうございます。あつく御礼申し上げます。

 主催者はつづいて、本年7月に、2泊3日の「中村武生と行く!坂本龍馬、長崎・下関の史蹟へ」を計画しております。

 実施されるかは未定ですが、もし実現しましたら、またよろしくお願いいたします。

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2010.03.25

【巡検】知恩院へ

 「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」の第2日目が、本日ようやく終わった。

 昨年末に始めたので、実に3カ月かかっている。なんということだ。

 次回からは、「第3日目」です。東山地区をあるきます。

 日時:2010年(平成22)3月30日(火)午前9時~11時

 集合場所:京阪電車「三条」駅、中央改札

 行き先:三条大橋から東へ。白川を南下して、知恩院に向かいます。

 参加費:ワンコイン(500円)

 同行:中村武生(歴史地理史学者、京都女子大学非常勤講師)

 ※どなたでも参加できます。予約不要。集合場所に直接お越しください。雨天決行です。

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2010.03.24

【巡検】坂本龍馬研究の最前線を現地で学ぶ

 中村武生とまなぶ、坂本龍馬の旧蹟めぐりのご案内です。

  よろしければお越しください。

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【講座】坂本龍馬研究の最前線を現地でまなぶ

 大河ドラマ「龍馬伝」の主人公、坂本龍馬について学びましょう。

 龍馬には多数の書籍が刊行され、もう調べつくされたと思っておられませんか。

 実は近年になっても未知の史料は発見され続けています。

 それにあらたな研究視点もくわわって、日々書きかえられています。

 ゆかりの史蹟を訪ねつつ、最新の龍馬像をお伝えいたします。

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1. 龍馬、親友に会いにいく(2010年4月10日(土))

   ―大坂南郊、土佐住吉陣屋跡

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2. 龍馬とお龍の出会い(2010年5月8日(土))

       ―京都大仏南門前の住居と七条新地

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3. 龍馬とお龍の結婚(2010年5月29日(土))

       ―青蓮院旧境内・京都守護職表門

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4. 薩長同盟の舞台地(2010年7月10日(土))

       ―薩摩屋敷跡と西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀の住居跡

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5. 寺田屋事件を復元する(2010年9月11日(土))

       ―龍馬、伏見薩摩屋敷へ脱出する

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詳しくは→http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_483744.html

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 講師:中村武生(歴史地理史学者、京都女子大学非常勤講師)

<主催>NHK文化センター大阪教室

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2010.03.23

【巡検】本国寺から五条天神、因幡薬師へ

少し間のあいた、「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のご案内です

 日時:2010年3月23日(火)午前9時~11時

 集合場所:西本願寺前(京都市下京区堀川通七条上ル西側)

 行き先:本国寺から五条天神社、因幡薬師

 案内:中村武生(歴史地理史学者、京都女子大学非常勤講師)

 参加費:500円

 ※雨天決行。どなたでも参加できます。予約不要。 

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2010.03.22

嵯峨野で石碑論し龍馬・龍馬だった

3/21(日)はれ

  午前11時、嵯峨野学藝倶楽部に出講。石碑マニアな講座と化している。今回は、1928年(昭和3)~29年に主として約20碑建てた、京都史蹟会とその活動。松田万智子さんの「小西大東」論の成果にまなぶこと大だった。

 京都史蹟会はふかい。史蹟会だけではない。京都市教育会、府史蹟勝地調査会、三宅清治郎との関わりはさらに深めるべきだと確信した。が、できるか。時間があるか。

 終了後、いつもの帷子の辻の「スマート」で懇親会ののち、左京区岡崎の勧業館へ向かう。京都龍馬会のミニ「龍馬展」があった。プロの展示だった。見事だった。

 夕方5時30分から、「寺子屋龍馬」(於木屋町六角下ル「龍馬」)に出講。本日と次回の大河ドラマ「龍馬伝」のネタを先読み。龍馬の土佐亡命を論じた。武市半平太と龍馬の当時の関心にちがいはないことを述べた。

 8時からの「龍馬伝」は「龍馬」でみなさんと見た。突っ込みどころ満載だった。

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2010.03.21

山崎合戦古戦場をあるき、お好み焼きを食べた

3/20(土)はれ

 午後、よみうり文化センター天満教室の巡検に出講した。山崎の合戦跡をあるく、である。初めてではない。何度か試みている。

 JR山崎駅に集合し、離宮八幡宮に参拝のあと、西国街道を北上する。大山崎町歴史資料館にたちよらないものの、学芸員福島克彦さんがおられるよい資料館ですので、次回単独でこられたときはぜひ参観なさってください、という。

 中世大山崎町の東境界にして、山崎合戦勃発地である黒門跡、そこから枝分かれする久我畷をすすむ。小泉川をわたる。ここが主戦場跡。なんの石碑も解説板もない。誠におしい。

 名神高速道路の高架下の「下植野南遺跡」の解説が、歩道のないところにあることをなげく。横断歩道もない。これを歩行者が見るには危険すぎる。是正を願ってやまない。

 山崎体育館前で信号わたり、北上。光秀陣所跡とされる御坊塚にのぼる。古墳を囲うように分譲住宅が多くできている。景観が日々かわる。「恵解山(いげのやまぐち)口」交差点のコンビニで、15分休憩。

 恵解山古墳(国史跡)を横目でみながら、光秀が逃げ込んだ勝龍寺城跡をめざす。勝龍寺城の大手とされる、大門橋の解説をみて、現勝龍寺を参拝し、勝龍寺城跡公園に入る。本日は、資料館の冷房がきいていた。

 最後はすぐそばの神足(こうたり)神社境内の、勝龍寺城外郭(惣構=そうがまえ)の土塁・堀に接する。おそるべき規模である。豊臣期京都の惣構の土塁・堀の遜色ない。史蹟未指定が信じられない。

 解散はJR長岡京駅。所要時間は3時間。本日はあつくて少しつかれた。

 夜は奥さんとお好み焼き店にいく。なかなか良いお好み焼き店に出会えない。本日の場所はおいしい。九条通大石橋下ル東側の「博美家」。何度もきている。

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2010.03.20

五条・三条橋が落ちた記事を読む

3/19(金)はれ

 いつもの「くずし字入門」に出講。

 「松屋田淵治兵衛日記」がついに終わった。五条・三条大橋が落ちた記事がほぼ最後。興味深い。

 今回から別の文書に移った。今度は近代の文書。内容は・・・、おこしください。ブログでは明かせないので。

 毎週金曜日、午後0時30分からです。JR京都駅前のキャンパスプラザ京都の五階第3・4演習室です。

 終了後、京都駅のグランヴイアで、某社からの依頼で打ち合わせ。条件があえばお引き受けすることに。

 そののち各種お支払いをすませて、午後5時から堺町三条のどよめくお店で臨時集会。計7人集まる。

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2010.03.19

土方歳三の最期と龍馬の京都を名古屋市で語る

3/18(木)くもり一時雨

 名古屋市栄にむかう。栄中日文化センターに出講。

 いつもの「日本の城と合戦」、「京都学ことはじめ」講座、今期の最終回。それぞれ「新選組土方歳三の最期―箱館戦争・再論」、「坂本龍馬と京都」。

 「新選組土方歳三の最期―箱館戦争・再論」は満員御礼だったそうな。大入り袋を出せばよかった。死亡地は一本木関門か、鶴岡町か、異国橋か、という通説を少し考えた。たいしたことはいえなかったが。

 戊辰戦争論をながくしすぎたため、埋葬地はどこかに言及できず、失敗。

 「坂本龍馬と京都」は超マニアな話。死亡地・埋葬地が、現京都市であるため、龍馬と京都は縁があるのはわかりきったこと。どの龍馬史蹟ガイドブック見ても紹介がある。

 が、それ以前はどうだったか、いったい龍馬はいつ京都に初めて入ったといえるか、というような文久2年(1862)~3年の龍馬と京都を論じた。

 「魔性の女」ならぬ、「魔性の本」(禁断の書)と名付けた『維新土佐勤王史』を悪用した。かなりおもしろかった。

 また4月から両講座とも再開しますので、よろしければお越しください。

 毎月第3木曜日、前者は午後1時から、後者は午後3時からです。お問い合わせは、栄中日文化センターまで(フリーダイヤル0120-53-8164)。詳しくはこちら↓

http://www.chunichi-culture.com/mgcgi/mgrqcgi.cgi?APPNAME=BunWeb&PRGNAME=kouza_ichiran_para&ARGUMENTS=-N10,-N11,-N12,-N15,-N23

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2010.03.18

吉田東洋の日記を読んで梁川星厳を思った

3/17(水)はれ

 出かける用事がなかったので、家に籠って仕事をした。

 時間があると余裕ができて、いろいろ放置してきたものがかたづく。仮にこれといったものが何が進まなくても、意義がある。

 『吉田東洋遺稿』を読んだ。坂本龍馬や武市瑞山を知るためには、吉田東洋もまなぶべきである。

 吉田東洋も京都に来ている。嘉永4年(1851)3月12日、有馬温泉への湯治のついでだ(「有馬入浴日記」『吉田東洋遺稿』341~342ページ)。

 既述したが岩崎弥太郎と同じく、梁川星厳に会いに行っている(同年3月13日)。梁川星厳って、いまはさほど関心は高くないと思うが、同時代にはかなりの有名人である。

 それにしても梁川星厳の家には見知らぬ者が頻繁に訪ねてきているようだ。たいへんだったろうな。僕ていどでも、年中いろんな人からアプローチがあって閉口しているのに。

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2010.03.17

龍馬殺害を語り徳川綱吉の犬公方論を紹介する

3/16(火)くもり

 午前10時、NHK京都文化センターに出講。「坂本龍馬の生きた幕末」講座、第1期最終回。龍馬殺害をとりあげた。あっという間に時間が過ぎた。

 4月からも、第3火曜日で継続です。よろしければおこしください。

 午後0時30分からは、いつもの「基礎からまなぶ!日本歴史」に出講。徳川綱吉政権におよんだ。犬公方論の最近の話など。綱吉政権と京都との関連は、また次回。

 夜、「中村武生さんとあるく洛中洛外」の原稿チェックをおえる(3月19日掲載予定分)。

 今回は石田三成の有名なエピソード。死刑目前に「のどがかわいた、湯がほしい」と語った場所はどこか、という事実かどうかもわからない話に歴史地理的な視点を与えてみた。こじつけかもしれないが。

 ラスト・ワンである。あと1回で終了。ながらくのご愛顧、感謝いたします。

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2010.03.16

聖徳太子否定論を紹介して龍馬電車をみる

3/15(月)

 浜大津での「基礎からまなぶ近江の歴史」(主催:龍馬カンパニー)に出講。聖徳太子のはなし。大山誠一さんの「聖徳太子否定論」をご紹介。小野妹子と大津市志賀町小野地域の関係をお話しするつもりが、タイムオーバー。また次回。

 でも次回は巡検です。以前中止になった大津市の前期・中期古墳を見に行きます。

2010年4月5日(月)午後1時30分、京阪近江神宮前駅改札集合です。

 参加費:1,000円

 帰途、京阪浜大津駅で、本日発車の「龍馬電車」をみる。なんていいタイミング。側面に思いっきり「近江龍馬会」と書いてあった。やるなあ。

 同会は、龍馬の家臣、山田藤吉の誕生地の建碑を近く行うそうだ。楽しみだ。

 

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2010.03.15

「いま、御土居がよみがえる展」を見に行った

3/14(日)はれ

 夕方、京都大学総合博物館の「いま、御土居がよみがえる」展を見に行く。本日最終日だから。初日(2月6日)にも行ったが、記念講演を拝聴しただけで帰ったから。行ってよかった。思うことがありすぎた。

 終了後、お茶をしたあと、すぐに帰って、また仕事に戻った。

 夕食はお好み焼きになった。いいできだった。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」は家でみる。その感想は当ブログ前日条をご覧ください。

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2010.03.14

龍馬伝第11回をみた

 龍馬伝第11回「土佐沸騰」をみた。

 今回は岩崎弥太郎の長崎からの帰郷と、桜田門外の変から始まった。年次は前者が安政7年(1860)4月、後者が同年3月。

 そうすると安政の大獄はすでに終わったことになる。既述したが、安政5年(1858)11月、水戸の住谷寅之助らが土佐国境で龍馬に連絡をとり、土佐入国の仲介を願った話が描かれなかった。

 この住谷の日記に、出会った龍馬の印象が記されている。「龍馬、誠実可成(かなり)ノ人物。併(しか)し撃剣家。事情迂闊(うかつ)、何も不知(しらず)トソ」(『坂本龍馬全集』4訂、656ページ)。

 政治史のなかの龍馬の位置を知れる、最初の重要な事実なのに、それを無視されたことに驚いた。当ドラマは事実を描くことにさほどの意義を感じておられないご様子。

 今回大きい扱いを受けたのは「井口村刃傷事件(永福寺門前事件)」だった。

 事件は文久元年(1861)3月4日におきた。下士池田寅之進が、永福寺門前で、その実弟中平忠次郎を上士山田広衛に殺害された。

 中平とともに現場にいた宇賀喜久馬の通報で事件を知った池田は、殺害現場に駆け付け、その場で山田と同行の益永繁斎を斬り殺す(益永は一命をとりとめたともいう)。

 池田と宇賀が切腹することで事件は決着したが、これをめぐって龍馬ら下士は池田宅に集会し、上士に対抗する姿勢をみせたというもの。

 が、意外と信用できる史料がない。

 主な出典は、いつもの『維新土佐勤王史』(65ページ)である。が、それほど大きい扱いはしていない。

 大きい扱いをしたのは、最初の龍馬の伝記『汗血千里駒』である。同書は事件を冒頭に置き、亡くなった池田から流れた血を、龍馬が刀の白下緒(しろさげお)をひたし赤く染めるシーンを描いた。龍馬の大物ぶりを予感させるエピソードとして使っている。

 ちなみに『維新土佐勤王史』も『汗血千里駒』も著者は同じで、坂崎紫瀾である。第一回でふれた、あの坂崎である。

 『汗血千里駒』は、井口村事件を土佐国内の上士と下士の対立の象徴たる事件として扱い、それを龍馬登場のきっかけに使った。

 が、同じ坂崎の著書『維新土佐勤王史』では、そのように描かないことは注意すべきだろう。両書の執筆意図がちがうからであろう。

 土佐山内家史料の決定版、『山内家史料』の当該部分は、同事件の立項さえしていない(『山内家史料/幕末維新第三編上/第十六代豊範公紀』)。

 編者である山内家の家史編集所は、この事件に見向きもしていないわけだ。単に史料がなかったからだけではないのだろう。

 吉田東洋に龍馬が見込まれ、上士に取り立てることを望まれたのはもちろんフィクションである。

 「土佐勤王党」結成は、同年(文久元年=1861)8月の江戸においてである。江戸滞在中の武市が、水戸や薩摩、長州の有志と深い交流をしたことに端を発する。

 今回は3月の井口村事件からの連続で「勤王党」は成立した。つまり土佐で成立した。成立過程に問題があるのは当然としても、武市の江戸滞在さえ描かれなかったのは、「勤王党」の性格をゆがめることになりかねない、と思った。

 土佐で成立したのに、誓書の連署・血判が江戸の仲間から始められていた。この矛盾を、「江戸におる同志はすでに仲間に加わった」の一言で片づけておられた。そんなシーンはなくてもよかったのではないか。

 写本とはいえ、現在知られる連署には、諱(いみな)が記されている。たとえば武市半平太なら、そのあとに「小楯」の文字がくる。これが省略されていた。使われた小道具でさえすでに事実を描こうとしておられないのである。なのに首領武市が土佐にいるのに、武市のあと「江戸の同志」から連署が始まっているわけだ。

 ドラマをつくる方々の、歴史的事実から自由になりきれないつらさを垣間見た気がした。

 今回はこのへんで。

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2010.03.13

京都町奉行所の救援、都市民の感謝の声を読む

3/12(金)

 いつもの「くずし字入門」に出講。

 ながく愛顧した「松屋田淵治兵衛日記」だが、次回でついに終る。 

 本日も2つのネタ。ひとつは、嘉永5年9月3日、「北野万燈札」がでた由。

 (何かの修復が成ったので)9月23日から10月13日までの21日間(原文は「三七日間」。3×7=21なのだそうだ)、内陣の特別拝観があったそうだ。

 「誠におびたゝ敷(しく)参詣」があったため、5日間会期が延長された由。

 もうひとつは、前にもあった米価高騰になやむ京都都市民への奉行所の施行(せぎょう)のはなし。

 「9月中ごろにお触れが出た。昨亥年(嘉永4年=1851)霜月(12月)1日より市中の10か所で施行(が行われた)。飢人(か)を助ける。1日に2万人ばかり。米価高値になったので、(奉行所の指示で)有志が助成いたし遣わした。奇特なことと思し召し、国恩のありがたさを存じ、永遠に奉行所(「御公儀」)の帳面に記し置く。末代・・・(以下欠)」。

 飢えに苦しむ都市民の感謝の声である。

 「諸品や米の価格が追々下落してきたので、もはや施行も(必要なくなった)。20日中にお触れが出た。」

 このお触れが『京都町触集成』12巻所収分のどれにあたるのか。該当しそうなものがない。

 ただし、「子九月廿九日」付の344号文書(110~111ページ)が、「奇特成もの共」へ公儀(政府)が「御褒美金銀を下した」ことなどを報じている。関連史料であろう。

 実に興味深い。

 次回が「松屋田淵治兵衛日記」の最終回である。

 嘉永5年(1852)7月21日、風雨により鴨川にかかる五条と三条の橋が落ちる。その見聞を記したもの。よろしればおこしください。

             記

 2010年3月19日(金)午後0時30分~1時40分

 場所:キャンパスプラザ京都5階・第3・4演習室(JR京都駅烏丸中央口から西へ徒歩5分。下京区西洞院塩小路下ル東側。ピックカメラの北向かい)

 案内:中村武生(歴史地理史学者・京都女子大学非常勤講師)

 参加費:500円

 持ってくる物:えんぴつ・けしごむ・原稿用紙など

 ※どなたでも参加できます。予約不要です。直接会場におこしください。

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2010.03.12

龍馬伝第10回をみた

 龍馬伝第10回「引きさかれた愛」をみた。

  今回は江戸から帰った龍馬が、平井加尾にふられるところまで。

 高知に着いたのは、いつもの平尾道雄が筆写した「福岡家御用日記」を信じるなら、安政5年(1858)9月3日である(9月4日条)。

 ただしこれは、「福岡家御用日記」の龍馬部分を筆写したという平尾道雄のノートに記載がない(平尾道雄編『土佐維新史料』日記篇2<史料平尾文庫2>、高知市民図書館、163ページ)。

 ではなぜわかるかというと、平尾の著書『龍馬のすべて』に引用されるからである(77ページ、久保書店、18版1974年)。なぜ筆写したノートに記載されていないものを、平尾は引用できたのか。原本はすでに焼失し現存しないのに。それを説明せず平尾は亡くなったので、永遠の謎になった。

 だからこの部分にとどまらず、平尾の筆写した「福岡家御用日記」そのものの信ぴょう性が疑われるのである。

 とはいえ、これを疑うと何もわからなくなるので、事情を認識しつつ、使うほかないという態度をとっている。

 龍馬が平井加尾に求婚したのは、もちろん事実ではない。そんなことはいう必要もないか。

 平井加尾が京都へ行ったことと、兄収二郎や武市半平太の政治的野望は関係がない。

 いやそもそも、以前も述べた気がするが、武市が吉田東洋打倒や土佐の国政掌握に動きだすのは、はやくても文久元年(1861)のことだろう。今回は通商条約が締結されたので、安政5年(1858)である。3年は早い。

 平井加尾に戻る。

 加尾が上洛した時期は厳密にはわからない。晩年の回想録「平井女史の涙痕録」にも年次の記載はない。

 宮地佐一郎は、「加尾は三条公睦(実美の兄)に嫁した友姫(山内容堂の妹)付きとして、安政六年より文久二年まで、四年間を京都で勤事していた」とする(『坂本龍馬全集』4訂、1988年、985ページ)。

 「龍馬伝」は、この安政6年(1859)説が採用されたのだろう。

 ちなみに「友姫」は誤りである。

 『皆山集』3巻所載の「御当家御系譜」1によれば、「騂(せい)、後恒君」である(39ページ)。ドラマでは、あとの「恒君」が使われて「恒姫(ひさひめ)」になっていた。

 恒君(信受院)の生年は天保7年(1836)で、加尾より2つ年上である。上記系譜によれば、嘉永5年(1852)12月に三条実睦に嫁いだ。数え17才である。

 平井加尾の遺品の調査報告である『平井・西山家資料目録/歴史分野』は、この嘉永5年(1852)から、加尾が恒君に勤仕し上洛した可能性を否定していない(高知県立歴史民俗資料館、2005年、33ページ)。

 もしそうならドラマの設定が全部くずれる。龍馬との恋愛があるなら、すべて龍馬第一回江戸行き以前のこととなる。

 当然、安政6年(1859)の求婚も失恋もない。

 平井加尾が上洛した理由に閉口した。

 「お公家様のなかでもっとも攘夷に熱心な方」である、「三条実美様に取りいるために隠密を送り込」むと、大森南朋さん扮する武市半平太が語った。

 実美の兄が実睦で、それが恒君の嫁ぎ先だからと。

 当時、まだ実父三条実萬が存命である。実萬は安政大獄で処罰され、安政6年(1859)10月、京郊一乗寺村で死去する。

 実美が政界に登場するのは、父実萬の跡をついだあと。厳密にいえば父の死後3年の文久2年(1862)5月以後である(笹部昌利氏「幕末期公家の政治意識形成とその転回―三条実美を素材に」『佛教大学総合研究所紀要』8号、2001年、29ページ)。

 それ以前に実美が他から注目されることはないといってよい。三条実美にちかづくため、加尾を恒君のもとに送り込んだなんて、論外だ。

 なおドラマではまったくふれられていなかったが、恒君の夫である三条実睦は、当時すでにこの世にいない。嘉永7年(1854)2月に他界しているからである(宮内省図書寮編『三条実美公年譜』45ページ、1969年覆刻、宗高書房)。

 だから弟の実美が父の家督をつぎ、政界に登場するのである。

 いわばドラマの加尾は、「未亡人」恒君のもとに派遣されたわけだ。だから正しくは「恒姫様」ではなく、法号の「信受院様」と呼ぶべきだったろう。念のため記しておく。

 また長くなりすぎた。

 龍馬が北辰一刀流の免許をもらっていたが、現存するものは「長刀(なぎなた)」 に過ぎず、これを「北辰一刀流免許皆伝」といってよいのかとか、岩崎弥太郎の出獄は、吉田東洋の措置ではなく、弥太郎と一家・仲間の運動の結果だとか、その結果、村を追放になり、食えないから塾経営を行ったとか、そのとき近藤長次郎や池内蔵太が学んだとか、まだまだ述べることはあるが、これは以前に少し記したので、今回はここまで。

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2010.03.11

龍馬・新選組・また龍馬な日

3/10(水)午前雨、午後ほぼ止む

 同志社大学で行われた「洛楽キャンパス」に出講(JTBと共催)。久しぶりの同志社今出川キャンパス出講である。

 各1時間20分「龍馬と京都」、「新選組と京都」を講ずる。各約55名の受講者だった。

 午後からは伏見へ移り、寺田屋事件の再現とばかりに、龍馬と三吉慎蔵の逃亡コースを逆回りであるいた。かなりおもしろかった。

 くしくも本日は、龍馬ら寺田屋遭難と同じ日(慶応2年1月24日未明=1866年3月10日未明)。昨年は同じ時間に寺田屋周辺を歩いたものだった。

 今年も要望は強かったようだが、実施しなかった。たいへんやからね。深夜3時とか4時に静かに歩くのは。

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2010.03.09

東山大仏(方広寺)跡と豊国社跡をあるく

3月8日(月)はれ

 NHK文化センター大阪に出講。「京都の江戸時代をあるく」講座の最終回。

 東山大仏(方広寺)跡と豊国社跡をあるく。実に楽しくできた。

 4月からは龍馬講座に移る。同じ場所を幕末史で切り込む。だって龍馬の居住地で、妻お龍(鞆)と出会った場所だもの。それも楽しいにちがいない。

 夜は、とても魅力的な場所に案内され、どよめくような一夜を過ごす。

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2010.03.04

【巡検】壬生寺から本国寺跡へ

 午前中、雨のなか、「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」。

 JR山陰線丹波口駅で集合。島原へ向かう。

 角屋の前で京都市教育会の石碑のことや、大門の前の「薬園町」地名のことなど、およそ「島原的」でない話をする。約1時間滞在。

 そこから壬生寺へ。着いたとき、タイムオーバー。

 ゆえに次回は壬生寺から。新選組のはなしは、ほとんどしません。

              記

 次回は、2010年3月9日(火)午前9時~11時です。

 集合:阪急「大宮」駅・東改札(午前9時)

 行き先:壬生寺から本国寺跡(五条堀川西側一帯)へ向かう

 参加費:500円(壬生寺で拝観料が発生します。自弁ください)

 同行:中村武生(歴史地理史学者、京都女子大学非常勤講師)

 ※どなたでも参加できます。予約不要。直接集合場所にお越しください。

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2010.03.03

京都町奉行の施行に感謝する上京町人

2月26日(金)あめ

 くずし字入門に出講。

 今回も洛中(上京)に住む、松屋田淵治兵衛の日記を読む。嘉永4年(1852)5月~6月のふたつのネタ。

 一つ目は同年5月17日の暮れ六つ、すなわち現在の午後4時ぐらい。北野中ノ森の「影向松(ようごうまつ)」が雨も風もないのに自然に倒れた話。

 「影向松」は、いまも北野天満宮境内にたつ、知られた松のこと。

 たまたま北野社に参詣に来た、一条通日暮西入ルの「銭源親父」がこれにまきこまれて大けがをして評判になったという。

 たくさんの人がいたが、皆逃げたのに、「銭源一人だけがけが(怪我)致候故(ゆえ)いろいろひやうばん(評判)」とある。

 「銭源親父」には悪いが、たわいのない話。

 二つ目は少し大きな話。

 前年の嘉永3年(1850)夏ごろ、畿内・西国で米価など諸物価高騰のため、飢饉がおこった。

 それに対して奉行所が貧民救済のため、何度か施行を行っている(京都市『京都の歴史』7巻、155ページ、174ページ)。

 『京都町触集成』12巻の239号文書(嘉永4年5月付)が、同時期の貧民救済を触れたものであるが、当該史料はそれに関するものらしい。

 「同6月、たびたび御役所(東西奉行所)より施行米が250石(銀25貫匁)出る。それゆえ教諭所で施行が行われた。

 (略)またぞろ6月17日、御役所様(奉行)が下立売の長源寺へこられ、町々へめいめいお呼び出しがあり、御上様(将軍?)にも格別の思し召しゆえ、10カ所において日々困窮人が1万2千人も助かった」みたいなことが記されている。

 上記『京都町触集成』12巻の239号文書には町奉行が長源寺に来たことなど記載がない。そういう意味で貴重な史料ではなかろうか。ちなみに長源寺は、猪熊通下立売上ル北西角にあります。

 これはまだつづきがあります。それはまた次回。

 その原文書を読まれたい方は、よろしければ以下にお越しください。

                   記

 中村武生のくずし字入門

 日時:2010年3月5日(金)午後0時30分~1時40分

 会場:キャンパスプラザ京都・5階第3・4演習室(JR京都駅烏丸中央口から西へ徒歩5分。京都市下京区西洞院塩小路下ル東側。ピックカメラの向かい)

 参加費:500円

 案内:中村武生(歴史地理史学者、京都女子大学非常勤講師)

 ※どなたでも参加できます。予約不要。直接会場にお越しください。

 ※鉛筆・消しごむ・原稿用紙を持参ください。

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【巡検】島原から壬生寺へ

 「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」の次回のご案内です。

 日時:2010年3月4日(木)午前9~11時

 行き先:島原から壬生寺へ

 参加費:500円(拝観料などは自弁願います)

 集合場所:JR山陰線「丹波口」駅改札(午前9時)

 同行:中村武生(歴史地理史学者、京都女子大学非常勤講師)

 ※どなたでも参加できます。予約不要。直接集合場所にお越しください。

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2010.03.02

【巡検】御土居堀跡をあるく

 ひさしぶりの「御土居堀を考える講座」の巡検を行います。

   よろしければお越しください。

                   記

○御土居堀を考える講座

「西部の御土居堀跡をあるく―五条通より北へ」

日時:201039日(火)午後1:00-3:00ごろ

講師:中村武生(歴史地理史学者、京都女子大学文学部非常勤講師)

集合場所:JR山陰線「丹波口」駅改札(京都市下京区)
  参加費:1500

参考文献:中村武生『御土居堀ものがたり』(京都新聞出版センター、2005年)

 主催:御土居堀研究会

※どなたでも参加できます。予約不要。集合場所で直接お支払いください。

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2010.03.01

【巡検】東寺から六孫王神社へ

 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のお知らせです。

 日時:2010年3月2日(火)午前9-11時

 行き先:東寺から六孫王神社 

 参加費:500円(拝観料のかかるときは自弁ください)

 同行:中村武生(歴史地理史学者、京都女子大学非常勤講師)

 集合場所・時間:東寺の南大門(南区大宮通九条西入ル北側)午前9時

 ※どなたでも参加できます。申し込み不要。直接お越しください。

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