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2010.02.28

龍馬伝第9回をみた

 龍馬伝第9回「命の値段」をみた。

 龍馬が再び江戸にやってきた。

 安政3年(1856)8月20日、高知を旅立ち(「福岡家御用日記」同年8月19日条)、少なくとも9月29日までには着いている。その際の居住地は、土佐の「築地屋敷」である(同日付相良屋源之助宛龍馬書翰(千頭清臣『坂本龍馬伝』35ページ))。

 ドラマでは、武市半平太の誘いで、水戸の住谷寅之助、薩摩の樺山三円に会っていた。

 龍馬と住谷寅之助が会う史料上の初見は、安政5年(1858)11月23日のことである。

 すなわち土佐国境の立川関にやってきた住谷が、入国許可を求めて高知の龍馬に手紙をやり、それを受けて龍馬はやってきたときのこと(吉田健蔵日記、住谷信順廻国日記(『坂本龍馬関係文書』1、50ページ、55ページ))。

 が、実際はもっと以前に会ったことがあるようだ。未知の人に連絡をしないだろうから。それがドラマのように江戸である可能性はあるだろう。

 ただ武市半平太が、住谷や、薩摩の樺山三円、桂小五郎らと初めて会うのはもっと遅い。

 文久元年(1861)8月末から9月初旬ごろである(「樺山三円日記」文久元年(1861)8月28日条(『武市瑞山関係文書』1、53ページ)、松岡司さん『武市半平太伝』39~40ページ、新人物往来社、1997年)。

 攘夷問題などで、有志が集まるのもこの時期である。つまりドラマは約5年も設定が早い。こんなに急いで問題ないのだろうか。

 今回はタイトルが表すように、翌安政4年(1857)8月4日、龍馬の従弟山本琢磨の時計横領事件が主題だった。

 これについては、すでに当ブログの昨年11月7日条に詳述した。事実とドラマがあまりにかけはなれているので、屋上屋を架すことになるが、以下に若干加筆し再掲する。

(以下)

 名古屋へ出講。栄中日文化センターの龍馬講座である。

 信用できる史料にもとづいて龍馬の生涯をていねいに洗いなおしている。今回、主となったのは山本琢磨(沢辺数馬)の時計窃盗事件。

 これを伝える武市半平太(瑞山)の手紙を朗読した(安政4年(1857)8月17日付義父島村源次郎宛、『武市瑞山関係文書』1、19-25ページ)。

 山本琢磨の切腹必至を龍馬が逃がしたという通説(『維新土佐勤王史』48ページ)は、根拠のないことと述べる。武市や龍馬の知らぬところで、山本は勝手に逃亡したのである。

 酔っていたとはいえ、山本琢磨の無頼漢ぶりは目に余った。通行人にぶつかっていき、足をひっかけたりして楽しんでいたという。

 問題の佐州屋金蔵には殴りつけ、逃げたあとにのこした風呂敷包みを蹴飛ばし、箱を踏み砕いて、中の時計を持って帰った。「ここまでは酔狂に相違なし」といっている武市もけっこう甘い。

 が、問題は酔いがさめた正気であるはずのときに、盗品を金にかえようとしているところである。本当に酔っていたからと、かわしていいのか。出来心かも知れないが、悪意はあるだろう。

 のちロシア正教会の教徒になったらしいが、とりあえずこのときはかなりひどい。

 それよりも、被害者の佐州屋金蔵が実に心やさしいことに感銘をうけた。窃盗ではなく、時計を落したことにしようとしたが、「拾い主」の役割をしてくれる人が見つからない。奉行所に問われたらどうしようかと落涙している。加害者山本琢磨をかばっているのである。

 武市の「至而(いたって)正直なる物にて、江戸にはめづらしき物ニ御座候」という評はよくわかる。

 龍馬は武市からもっとも頼りにされている。相談を受けたり、ともに佐州屋に行ったり、目付の呼び出しに応じたりしている。実に仲良しである。

(以上再掲おわり)

どうして武市が、「上士」から、山本琢磨の不始末を責められる立場にあるのか。山本の親兄弟でもあるまいし。

 前掲『維新土佐勤王史』でも、山本は「親類預の上、割腹と」決まったのを、龍馬が「(武市)瑞山に謀りて」逃がしたと記している。龍馬と武市が逃がしたとしているわけだ。このように、武市が山本に切腹を強要する理由はまったくない。

 すなわち龍馬と武市が、この事件をきっかけに仲たがいをするというのは、全くつじつまがあわない。

 なぜこんな持って行き方をするのだろうと思っていたら、思い出した。武田鉄矢さん原作・小山ゆうさん作画『おーい!竜馬』がそういうストーリーなのだった(小学館、ヤングサンデーコミックス、6巻、166~170ページ)。

 第1回でも述べたが、本ドラマはこのマンガの影響をかなり受けているようだ。

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2010.02.25

龍馬伝第8回をみた

 龍馬伝第8回「弥太郎の涙」をみた。

 せっかく念願の江戸遊学を果たした岩崎弥太郎であったのに、ドラマではあっという間に帰国させてしまった。一瞬で1年が経過した。なんて残念な。

 土佐出発のシーンは、第7回にあった。ひとりで出発したが、そうではない。

 弥太郎の江戸行きは、知り合いの儒学者、奥宮慥斎(おくのみや・ぞうさい)の江戸行きに便乗したものだった。奥宮の従者として実現したのだ(岩崎弥太郎・岩崎弥之助伝記編纂会編『岩崎弥太郎伝』上、1967年、115ページ、以下本稿はほとんど本書による)。

 だから出発の前日、すなわち嘉永7年(1854)(のち安政元年)9月27日、安芸郡井ノ口村(現安芸市)の弥太郎の家に奥宮慥斎は泊まり、翌28日、奥宮と弥太郎はともに岩崎宅を出発した。

 ちなみに遊学費用は、両親が所有の山林の一部を売却してつくったもので、商人の経済支援ではない。

 この旅、奥宮の旅行記が現存するため、詳細がわかる。それによれば、江戸まで実に2カ月もかけている。

 通常、1カ月で江戸につく。つまりさほど急いでいない。むしろ、さまざまな文物にふれることを心がけていることがわかる。

 たとえば9月29日、元村では、奥宮の親戚、奥宮保馬宅で数日滞在する。奥宮保馬は山内家の捕鯨場を管理する職にあり、外国船の入寇にそなえて、海岸防備の任務も兼ねていた。

 そこで奥宮慥斎は、保馬の蔵書から「兵学小識」、「万国輿地図説」、「海上砲術全書」などの地理書、軍学書を取りだし、弥太郎に読ませている。

 10月4日には、奥宮両人につれられて、室戸岬に行き、捕鯨の現場をみている。そこで奥宮慥斎は保馬に捕鯨漁夫に海軍を教えたなら、外国船侵略の際、あなたはここで偉功をたてられると励ました。

 そんな場を弥太郎はみているのである。このドラマでは、海防・攘夷について話題にするのは龍馬や武市半平太(瑞山)に限っているが、実は弥太郎も身近に海防を学ぶ機会を得ているのだ。

 その後、淡路島をへて、10月23日、兵庫に上陸する。そこで楠木正成を墓参し、生田神社に参詣する。

 弥太郎は、楠木正成墓に比して、生田神社内にあった梶原景季の社が立派であることに腹をたて、梶原景季に何の勲功があったか、この社は楠木正成の廟と交換すべきだといった。

 弥太郎が一般の幕末志士同様、水戸史学の影響をうけ、後醍醐天皇に殉じた楠木正成に好意をもっていることがわかる。

 京都に入っては、さまざまな観光地に参詣するほか、詩人梁川星厳を訪ねている。梁川星厳はいわずと知れた攘夷思想家で、海防や大砲鋳造などの話を聞かされている。

 われわれはついつい弥太郎を「三菱」創設者として、経済人に区分し、その側面にばかり意識をかたむける。

 が、この時期の弥太郎や接した人物たちが、龍馬や武市らいわゆる尊攘志士たちと指向が近似していることを知るべきである。

 そういう場面を楽しみにしていたのだが、なんせ旅行シーンはいっさいなく、今回すでに江戸で勉学にはげみ、実家からの手紙がついたかと思うと、すぐさま国へ帰った。

 江戸をたったのは安政2年(1855)12月14日。井ノ口村帰郷は、同年12月29日である。わずか16日で着いた。これはドラマどおりである。

 ドラマでは、着くなり龍馬が、弥太郎の父弥次郎の看病をしている場に出会う。

 父弥次郎が井ノ口村庄屋島田便右衛門に乱暴されている現場に、龍馬とその兄権平が居合わせたからで、その後、弥太郎が相手の庄屋を訴えるのも、龍馬は援助していた。

 が、もちろんフィクションである。

 弥太郎の訴えを、役所が不正を行って取り合わなかったように描いたが、それでは役人がかわいそうである(吉田東洋もこんなところで悪役にされて)。

 事件は酒席で起こったということ。父弥次郎と対立していた親戚のものが、ここぞとばかり庄屋側について弥次郎に不利な証言をしたということが大きい。役人も正確な判断をする情報をえにくかったといえる。

 しかも怒った弥太郎が、役所の着座の壁に何らかの不満を大書した。これを役人は内々に消してやったにもかかわらず、ふたたび今度は柱に明確に記した。

 それが弥太郎の投獄直接原因となる。ドラマでは、門に傷をつけて書き刻んでいたが、これはやりすぎ。墨書であろう(傷をつけたら消せないからね)。

 来週、判決があると思うが、結果はケンカ両成敗になる。

 弥太郎も井ノ口村を追放され、高知城下町にも立ち入りを禁じられたが、島田便右衛門も庄屋をクビになる。庄屋側についた弥太郎の親戚も、職をクビになったり村を追放された。

 役人は比較的公平な対処をしたといってよいのではないか。

 ちなみに龍馬が2度目の江戸行きのため高知をたつのは、安政3年(1856)8月20日である(既出の平尾道雄筆写の福岡家御用日記)。

 弥太郎が出獄するのは、安政4年(1857)1月20日であるから、その出獄をみずに龍馬が高知をたったドラマの設定は、まったく正しいことになる。

 くどいが、弥太郎の裁判に龍馬がかかわったという事実はないけれど。

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2010.02.24

高瀬川のおはなしをした

2/22(月)はれ

 午後0時30分、京都ホテルオークラに。

 京都中ロータリークラブからの依頼で、高瀬川誕生のはなしをする。同ロータリークラブは、高瀬川に蛍をよみがえらせる活動をしておられる。その一環。

 B教大学のY木透先生のご紹介だった。

 終了後、京都龍馬会の赤尾博章理事長のテレビ撮影を見た。そのあと京都龍馬会本部で、既知のA松さんから夕食を誘われ、赤尾博章さん・おりょうさんとごちそうになる。

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2010.02.23

龍馬・龍馬・龍馬な日

2/21(日)はれ

 午後1時30分から、近鉄高の原駅前の奈良市老人福祉センター「北老春の家」で、講演。坂本龍馬のはなし。約90人もご参加くださった。

 関係者のみなさま、ありがとうございました。気持ちよくお仕事できました。

 午後5時30分から。酒場「龍馬」(中京区木屋町六角下ル)で、また龍馬のはなし。今回は河田小龍と龍馬について。付けたりで、岩崎弥太郎の江戸留学も。

 終了後は、同所でみなさんと大河ドラマ「龍馬伝」をみた。

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2010.02.20

山崎合戦を論じて新選組新碑を考える

よみうり文化センター天満校(大阪市)に出講。

 山崎の合戦を講じた。大山崎町歴史資料館・福島克彦さんの成果にたよること大だった。

 来月20日(土)に、現地見学に行く。

 現地の方がいいわ。場所のエネルギーがもらえる。

 終わってから、受講者O野さんとお話し。4月に除幕予定の某所の新選組紀念標石のことで。

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2010.02.19

「祇園町そのほか新地も、誠にひっくりかえり候」

 いつもの「くずし字入門」に出講した。

 本日はあたらしい方が2人あった。くずし字経験がおありだったので、なかなか読めておいでだった。

 みなさんとなじんでいかれたらいいのだが。よろしればまたお越しください。

 今回は、京都の町触が筆写されたものを読んだ。嘉永4年(1851)12月11日付の、祇園町、祇園新地、二条新地、北野、七条新地の「遊女商売ならびに芸者ども」を免許する触れなどである。

 すでに京都町触研究会編『京都町触集成』12巻(岩波書店、2刷1995年)に掲載されているものなので(89ページの史料番号269と270)、新味がないようであるが、そうでもない。

 この触れを受けての、当日記の記主(松屋田渕治兵衛)の感想が記してある。それがおもしろい。

 「右の御触、出候につき、大いに人気なお(治)り、祇園町そのほか新地も、誠にひっくりかえり候様候」(原文を少し修正)。

 遊郭が復興して、地域が活性化したことを伝えているのである。

 町触とそれを受けた都市民の感想がセットで残された、興味深い部分だった。

 次回も関連史料である。

 関心のある方はぜひお越しください。

  記

 日時:2010年2月26日(金)午後0時30分~午後1時40分

 場所:キャンパスプラザ京都、5階第3・4演習室(京都市下京区西洞院塩小路下ル東側。JR京都駅から西へ徒歩5分。ピックカメラの前)

 参加費:500円

 案内:中村武生(歴史地理史学者、京都女子大学非常勤講師)

 テキスト:松屋田渕治兵衛日記(筆者蔵)

 ※予約不要。直接お越しください

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2010.02.18

大河「草燃える」1・2回をみての感慨

 大河「草燃える」の再放送がはじまっている。

 どうかと思うが、いまのところ欠かさず見ている。すでに2回が終わった(第1回「蛭が小島の流人」、第2回「恋文」)。

 ほんとうに初めてみた。実に新鮮である。

 当時、僕は小学校6年生で、その年初めて学校で「歴史」(日本史)を習った。すぐにはまり、歴史好きの父が毎年欠かさず見ていた大河を初めて僕も見ることになった。

 記憶に残っているもっとも古いシーンは、義経(扮するは国広富之さん)の初陣ぐらいなので、おそらく第17回「義経出陣」(1979年4月29日放映)あたりから見たのだろう。

 そんなわけで、重ねていうが第1話、第2話はみていない。

 「総集編」は市販されているので見ているが、そこでカットされた部分はくどいがまったく初めて見た。

 市販された「大河ドラマストーリー」や、甲子園阪神パークで開催された菊人形「草燃える」展で掲載・掲示されていた写真を記憶しているが、総集編でカットされていたため、いったいどこの何のシーンかまったくわからなかった。

 それが、今回はじめて分かった。

 たとえば盗賊のかしら苔丸(扮するは黒沢年雄さん)が、なぜか烏帽子をかぶっているカットをみたことがある。しつこいが、何のシーンかわからなかった。

 それが第1話冒頭に登場した。

 内裏の清涼殿に盗みに入ったときの戯れ事シーンだったのだ。

 感慨ぶかい。

 30年の謎が毎日解かれている。こんなことがあるんだなあ。

 長生きするもんだと思っているしだいです。

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2010.02.17

洛中洛外の連載、最後の取材をうけた

 「中村武生さんとあるく洛中洛外」(京都新聞市民版朝刊、金曜日)の最後の取材を受けてきました。

 2月の北区で、京都市内の11区すべて終わっています。ですので、3月は「補遺編」です。

 掲載は3月5日、12日、19日、26日です。

 あと少しです。乞う、お楽しみ。

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2010.02.16

大河「草燃える」再放送開始される

 明日2月17日(水)から、1979年(昭和54)のNHK大河ドラマ「草燃える」(全51話)が完全再放送されます。

(CS「時代劇専門チャンネル」。午後0時から(再々放送は翌日午前0時から)、月曜日から金曜日まで)。

 この日を約30年間待ち続けていました。

 タイムマシンがあったなら、中学生の自分に連絡してやりたい思いです。感激に打ちひしがれたはずです。

 去る2月6日(土)には、それに先立ち、鎌倉市の建長寺で、俳優滝田栄さん、演出大原誠さん、脚本中島丈博さんを囲んだプレイベントがありました。

 僕も当選したので、参加の権利がありましたが、別の用事に行かねばならず、泣く泣く断念しました。

 本日、それに参加された友人Hさんから、当日配布資料のコピーとお話を頂戴しましたが、想像を上回るマニアぶりでした。

 僕が参加しないところで、そんなえげつないイベントが行われたことが不思議に思えました。

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2010.02.15

龍馬伝第7回をみた

 龍馬伝第7回「遥かなるヌーヨーカ」をみた。

 今回は、河田小龍(かわだ・しょうりょう)が登場した。

 龍馬に「海事思想と世界の大勢を説」き、「大きな感化を与えた」と評価の高い人物である(『明治維新人名辞典』310ページ、吉川弘文館)。

 河田小龍の回想「藤陰略話(とういんりゃくわ)」の抄録によれば、嘉永6年(1853)9月か10月ごろ、土佐の河田の宅に龍馬が突然訪ねてきて、「時態ノ事ニテ君ノ意見必スアルヘシ。聞タシ」(時勢について、あなたは何か意見を持っているはすだ。聞きたい)といった。

 最初は返事をこばんだ河田だったが、龍馬のしつこさに負けて自説を述べだす。

 「何とかして一艘の外国船を買い求め、同志を募ってこれに乗せる。そして東西往来する旅客や、官私の荷物などを運搬する。すると船を動かすための費用を稼げるし、海上での練習にもなるから、航海技術もえられ、わずかのことなら役に立つだろう」と言った。

これに龍馬は感銘を受けた。「坂本手ヲ拍シテ喜ヘリ」。

 と、まだまだつづくのであるが、きりがないので(以上、『坂本龍馬関係文書』1巻、40-41ページ)。 

 ただ河田と龍馬の話は、残念ながら同時代の龍馬側の生の史料には出てこない。現存する龍馬の書翰に河田は一切出てこない。

 だから信用できないとはいわないが、あるていど差し引いておくべきではある。

 年次も誤っている。龍馬が河田のところに来たという嘉永6年(1853)9月~10月は、龍馬は江戸にいる。まだ土佐には帰っていない。

 「藤陰略話(とういんりゃくわ)」とは、そのていどの史料なのだ。裏付けられる良質の同時代がない以上、あまり重く用いてはならないと思う。

 いい遅れたが、サブタイトルになった「ヌーヨーカ」(ニューヨークの意)の文言は、ジョン万次郎から聴きとった話をまとめた、河田の著作『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)』に出てくる。

 「「ヌーヨーカ」といへる都府は、三十余国中の一政所にして、衆人才学兼備の人を推して政官たらしめ、在職する事四年を以て限とす。然れとも、もし高徳化治抜群たる人たれば、猶職を退かしめず」

 という感じである。ここから取られたのであろう。

 龍馬の海防意識とか、岩崎弥太郎の江戸行きとか、武市半平太の「攘夷」論とか、話題にしたいことはいくつもあったのだが、今週は時間がないので、ここらへんで。

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2010.02.11

【巡検】西本願寺にまいります

 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」の次回ご案内です。

 来週はまるまる休みです。お気をつけください。

 日時:2010年2月23日(火)午前9時~11時

 行き先:西本願寺など

 集合場所:下京区堀川通七条上ル西側、バス停「西本願寺前」

 同行:中村武生(京都女子大学非常勤講師)

 参加費:500円(拝観料が発生する場合は、自弁ください)

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2010.02.07

龍馬伝第6回をみた

 龍馬伝第6回「松陰はどこだ?」をみた。

 今回はサブタイトルにあるように、吉田松陰との出会いに大きい位置を与えていた。千葉道場に出入り出来なくなっていたが、それも松陰と別れたのちに正常化できた。

 が、もちろんフィクションである。龍馬はこのとき松陰と会ってはいない。

 この時期に龍馬と松陰を(桂小五郎も)会わせて、その影響を受けるというのは、武田鉄矢氏原作・小山ゆう氏作画『おーい竜馬』の設定である(ヤングサンデーコミック5巻、小学館、3刷1990年)。第1話にひきつづき、その影響が感じられた。

 松陰がペリー艦隊に乗りこんだときの詳細は、その手記「三月廿七夜の記」に詳しい。

 伊豆下田の柿崎弁天島の祠にかくれて夜をまち、深夜2時ごろ漁船を奪って、従者金子重之助とともにペリー艦隊に向かう。この船には「櫓ぐひ」がなく、しかたなくふんどしで櫓(ボートでいうオール)をしばり、船出した(『吉田松陰全集』普及版、10巻、460ページ)。

 とにかく詳細の記録があるため、龍馬や桂小五郎がその場にいなかったことがわかるわけだ。

 龍馬と小五郎は、江戸から松陰を探しに出かける。ひとっ走りていどで黒船のある港に着いたから、江戸湾か横浜港あたりのことに思えたかも知れないが、実際は現在の静岡県下田市である。地理的感覚がおかしくなる。

 このときの松陰の目的がアメリカに密航するためだったとは、よく知られたはなしである。今回のストーリーもそれだった。

 が、そうではなく、実はペリー刺殺のために近づいたのだとは、川口雅昭氏の説である(「下田渡海考」田中彰氏編『幕末維新の社会と思想』吉川弘文館、1999年)。

 失敗して自首した松陰が、佐久間象山・横井小楠・梅田雲浜・宮部鼎蔵といった関係者に累が及ばないようについたウソである。この松陰生涯最大の「偽言」にながく研究者がまどわされてきたというわけだ。

 川口さんが論文発表されてから、もう10年が過ぎた。積極的な反論は管見では聞いたことがない。幕末史研究の世界では、もう通説化してきたといっていいのではないか。

 これが採用されたドラマはまだ見たことがない。今回もまたしかりだった。

 今回の松陰は、すでに完成された思想家のようで、まさに「松陰先生」だった。が、たとえば年齢は当時まだ数え24歳だし(扮する生瀬勝久さんは今年50歳)、心酔しきっていた桂小五郎との年齢差は3歳にすぎない。

 ちなみに実際の松陰は、(大森南朋さん扮する)武市半平太より1歳若い。

 「松陰先生」とよぶ桂小五郎は、松下村塾の生徒のように思われたかも知れない。が、 松陰が松下村塾を主宰するのは、まだのちのことである。

 桂小五郎は、毛利家の学校(いわゆる藩校)、明倫館で松陰に兵学を習ったにすぎない。嘉永2年(1849)のことらしいので、松陰数え20歳、小五郎数え17歳である(村松剛『醒めた炎―木戸孝允』1巻、中公文庫、34ページ)。

 いいたいことは、この時期の松陰は、龍馬と同じく黒船に衝撃を受け、人生観の変化を余儀なくされ、佐久間象山などに学ぶ青年に過ぎないということ。

 当時、まだ桂小五郎と密接な関係にはない。

 はなしが長くなってきた。

 条約交渉のなかで、おかしなことがあった。ペリーの望む「開国」が、「交易」とされていた。とんでもない。

 今回は通商条約ではない、和親条約である。

 アメリカの捕鯨船が、食料・水・燃料などを供給するための寄港地を求めたにすぎない。だから「和親」なのだ。

 和親条約とは、いわばまったくの見知らぬ者どうしが、友達になったというだけである。

 通商条約締結はこれから2年後、ハリスが来日してから話題となる。このときアメリカ側から交易が希望される。幕末の大混乱はこのとき始まる。

 暴力的に条約を結ばされた=和親条約へのショックと、天皇が勅許をこばみ、西洋人が開港地に常駐し、日本経済の混乱が開始される通商条約の締結をいっしょにしてはならない。

 最後に、龍馬の千葉道場不在期間がかなり長いことが気になった。

 嘉永6年(1853)6月、ペリーの最初の来航のころに始まり、翌嘉永7年3月、松陰の逮捕ののち帰参したはずだ。実に9カ月ていども不在といえる。

 龍馬の江戸滞在期間がどれだけだったか、厳密にはわからない。が、平尾道雄筆写の「福岡家御用日記」によれば、嘉永6年3月に高知をたち、嘉永7年6月には帰国している(平尾道雄編『土佐維新史料』日記篇2<史料平尾文庫2>、162ページ)。

 せいぜい1年余しか江戸には滞在していない。なのに約9カ月も千葉道場を不在にしたことになる。

 ええんかいな。設定がよくわからないです。

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2010.02.06

幕末京都町人日記を読んである出版の成功を願う

 2010年2月5日(金)はれ

 くずし字入門に出講。久しぶりの昼の講座。ずっとしばらく朝9時10分からだった。

 幕末京都町人日記、終わりに近づいた。

 次回もけっこう面白そうな内容。よければおこしください。

 次回は1回だけ、朝9時10分に戻ります。2月12日(金)です。どなたでもお越しいただけます。500円です。

 午後2時すぎ、某出版社のMさんと待ち合わせる。坂本龍馬に関するある出版物の依頼をいただいたのだが、僕より適任の人がいる。そこで紹介いたすことにした。

 その前の打ち合わせ。うまく進めばよいのだが。

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2010.02.05

【巡検】東本願寺に向かいます

 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のご案内です。

 次回は、

 日時:2010年2月9日(火)午前9時~11時

 行き先:東本願寺など

 集合場所:JR京都駅中央改札(1階です)

 参加費:500円

 同行:中村武生(京都女子大学非常勤講師)

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2010.02.03

【巡検】三十三間堂などに行きます

 次回の「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」のご案内です。

 日時:2010年2月4日(木)午前9~11時

 集合場所:京阪七条駅、大阪行き方面の改札口

 行き先:蓮華王院(三十三間堂)など

 参加費:500円(蓮華王院の拝観料は、自弁ください)

 同行:中村武生(京都女子大学非常勤講師)

 ※予約不要。直接集合場所にお越しください。

 ※雨天・降雪決行です

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2010.02.01

【巡検】智積院などに行きます

 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」の次回ご案内をいたします。

 日時:2010年2月2日(火)午前9~11時

 集合場所:京阪七条駅、大阪行き方面の改札口

 行き先:智積院など(時間に余裕があれば三十三間堂へもまいります)

 参加費:500円(拝観料が発生する場合は、自弁ください)

 同行:中村武生(京都女子大学非常勤講師)

 ※予約不要。直接集合場所にお越しください。

 ※雨天・降雪決行です

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