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2010.02.28

龍馬伝第9回をみた

 龍馬伝第9回「命の値段」をみた。

 龍馬が再び江戸にやってきた。

 安政3年(1856)8月20日、高知を旅立ち(「福岡家御用日記」同年8月19日条)、少なくとも9月29日までには着いている。その際の居住地は、土佐の「築地屋敷」である(同日付相良屋源之助宛龍馬書翰(千頭清臣『坂本龍馬伝』35ページ))。

 ドラマでは、武市半平太の誘いで、水戸の住谷寅之助、薩摩の樺山三円に会っていた。

 龍馬と住谷寅之助が会う史料上の初見は、安政5年(1858)11月23日のことである。

 すなわち土佐国境の立川関にやってきた住谷が、入国許可を求めて高知の龍馬に手紙をやり、それを受けて龍馬はやってきたときのこと(吉田健蔵日記、住谷信順廻国日記(『坂本龍馬関係文書』1、50ページ、55ページ))。

 が、実際はもっと以前に会ったことがあるようだ。未知の人に連絡をしないだろうから。それがドラマのように江戸である可能性はあるだろう。

 ただ武市半平太が、住谷や、薩摩の樺山三円、桂小五郎らと初めて会うのはもっと遅い。

 文久元年(1861)8月末から9月初旬ごろである(「樺山三円日記」文久元年(1861)8月28日条(『武市瑞山関係文書』1、53ページ)、松岡司さん『武市半平太伝』39~40ページ、新人物往来社、1997年)。

 攘夷問題などで、有志が集まるのもこの時期である。つまりドラマは約5年も設定が早い。こんなに急いで問題ないのだろうか。

 今回はタイトルが表すように、翌安政4年(1857)8月4日、龍馬の従弟山本琢磨の時計横領事件が主題だった。

 これについては、すでに当ブログの昨年11月7日条に詳述した。事実とドラマがあまりにかけはなれているので、屋上屋を架すことになるが、以下に若干加筆し再掲する。

(以下)

 名古屋へ出講。栄中日文化センターの龍馬講座である。

 信用できる史料にもとづいて龍馬の生涯をていねいに洗いなおしている。今回、主となったのは山本琢磨(沢辺数馬)の時計窃盗事件。

 これを伝える武市半平太(瑞山)の手紙を朗読した(安政4年(1857)8月17日付義父島村源次郎宛、『武市瑞山関係文書』1、19-25ページ)。

 山本琢磨の切腹必至を龍馬が逃がしたという通説(『維新土佐勤王史』48ページ)は、根拠のないことと述べる。武市や龍馬の知らぬところで、山本は勝手に逃亡したのである。

 酔っていたとはいえ、山本琢磨の無頼漢ぶりは目に余った。通行人にぶつかっていき、足をひっかけたりして楽しんでいたという。

 問題の佐州屋金蔵には殴りつけ、逃げたあとにのこした風呂敷包みを蹴飛ばし、箱を踏み砕いて、中の時計を持って帰った。「ここまでは酔狂に相違なし」といっている武市もけっこう甘い。

 が、問題は酔いがさめた正気であるはずのときに、盗品を金にかえようとしているところである。本当に酔っていたからと、かわしていいのか。出来心かも知れないが、悪意はあるだろう。

 のちロシア正教会の教徒になったらしいが、とりあえずこのときはかなりひどい。

 それよりも、被害者の佐州屋金蔵が実に心やさしいことに感銘をうけた。窃盗ではなく、時計を落したことにしようとしたが、「拾い主」の役割をしてくれる人が見つからない。奉行所に問われたらどうしようかと落涙している。加害者山本琢磨をかばっているのである。

 武市の「至而(いたって)正直なる物にて、江戸にはめづらしき物ニ御座候」という評はよくわかる。

 龍馬は武市からもっとも頼りにされている。相談を受けたり、ともに佐州屋に行ったり、目付の呼び出しに応じたりしている。実に仲良しである。

(以上再掲おわり)

どうして武市が、「上士」から、山本琢磨の不始末を責められる立場にあるのか。山本の親兄弟でもあるまいし。

 前掲『維新土佐勤王史』でも、山本は「親類預の上、割腹と」決まったのを、龍馬が「(武市)瑞山に謀りて」逃がしたと記している。龍馬と武市が逃がしたとしているわけだ。このように、武市が山本に切腹を強要する理由はまったくない。

 すなわち龍馬と武市が、この事件をきっかけに仲たがいをするというのは、全くつじつまがあわない。

 なぜこんな持って行き方をするのだろうと思っていたら、思い出した。武田鉄矢さん原作・小山ゆうさん作画『おーい!竜馬』がそういうストーリーなのだった(小学館、ヤングサンデーコミックス、6巻、166~170ページ)。

 第1回でも述べたが、本ドラマはこのマンガの影響をかなり受けているようだ。

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