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2010.02.25

龍馬伝第8回をみた

 龍馬伝第8回「弥太郎の涙」をみた。

 せっかく念願の江戸遊学を果たした岩崎弥太郎であったのに、ドラマではあっという間に帰国させてしまった。一瞬で1年が経過した。なんて残念な。

 土佐出発のシーンは、第7回にあった。ひとりで出発したが、そうではない。

 弥太郎の江戸行きは、知り合いの儒学者、奥宮慥斎(おくのみや・ぞうさい)の江戸行きに便乗したものだった。奥宮の従者として実現したのだ(岩崎弥太郎・岩崎弥之助伝記編纂会編『岩崎弥太郎伝』上、1967年、115ページ、以下本稿はほとんど本書による)。

 だから出発の前日、すなわち嘉永7年(1854)(のち安政元年)9月27日、安芸郡井ノ口村(現安芸市)の弥太郎の家に奥宮慥斎は泊まり、翌28日、奥宮と弥太郎はともに岩崎宅を出発した。

 ちなみに遊学費用は、両親が所有の山林の一部を売却してつくったもので、商人の経済支援ではない。

 この旅、奥宮の旅行記が現存するため、詳細がわかる。それによれば、江戸まで実に2カ月もかけている。

 通常、1カ月で江戸につく。つまりさほど急いでいない。むしろ、さまざまな文物にふれることを心がけていることがわかる。

 たとえば9月29日、元村では、奥宮の親戚、奥宮保馬宅で数日滞在する。奥宮保馬は山内家の捕鯨場を管理する職にあり、外国船の入寇にそなえて、海岸防備の任務も兼ねていた。

 そこで奥宮慥斎は、保馬の蔵書から「兵学小識」、「万国輿地図説」、「海上砲術全書」などの地理書、軍学書を取りだし、弥太郎に読ませている。

 10月4日には、奥宮両人につれられて、室戸岬に行き、捕鯨の現場をみている。そこで奥宮慥斎は保馬に捕鯨漁夫に海軍を教えたなら、外国船侵略の際、あなたはここで偉功をたてられると励ました。

 そんな場を弥太郎はみているのである。このドラマでは、海防・攘夷について話題にするのは龍馬や武市半平太(瑞山)に限っているが、実は弥太郎も身近に海防を学ぶ機会を得ているのだ。

 その後、淡路島をへて、10月23日、兵庫に上陸する。そこで楠木正成を墓参し、生田神社に参詣する。

 弥太郎は、楠木正成墓に比して、生田神社内にあった梶原景季の社が立派であることに腹をたて、梶原景季に何の勲功があったか、この社は楠木正成の廟と交換すべきだといった。

 弥太郎が一般の幕末志士同様、水戸史学の影響をうけ、後醍醐天皇に殉じた楠木正成に好意をもっていることがわかる。

 京都に入っては、さまざまな観光地に参詣するほか、詩人梁川星厳を訪ねている。梁川星厳はいわずと知れた攘夷思想家で、海防や大砲鋳造などの話を聞かされている。

 われわれはついつい弥太郎を「三菱」創設者として、経済人に区分し、その側面にばかり意識をかたむける。

 が、この時期の弥太郎や接した人物たちが、龍馬や武市らいわゆる尊攘志士たちと指向が近似していることを知るべきである。

 そういう場面を楽しみにしていたのだが、なんせ旅行シーンはいっさいなく、今回すでに江戸で勉学にはげみ、実家からの手紙がついたかと思うと、すぐさま国へ帰った。

 江戸をたったのは安政2年(1855)12月14日。井ノ口村帰郷は、同年12月29日である。わずか16日で着いた。これはドラマどおりである。

 ドラマでは、着くなり龍馬が、弥太郎の父弥次郎の看病をしている場に出会う。

 父弥次郎が井ノ口村庄屋島田便右衛門に乱暴されている現場に、龍馬とその兄権平が居合わせたからで、その後、弥太郎が相手の庄屋を訴えるのも、龍馬は援助していた。

 が、もちろんフィクションである。

 弥太郎の訴えを、役所が不正を行って取り合わなかったように描いたが、それでは役人がかわいそうである(吉田東洋もこんなところで悪役にされて)。

 事件は酒席で起こったということ。父弥次郎と対立していた親戚のものが、ここぞとばかり庄屋側について弥次郎に不利な証言をしたということが大きい。役人も正確な判断をする情報をえにくかったといえる。

 しかも怒った弥太郎が、役所の着座の壁に何らかの不満を大書した。これを役人は内々に消してやったにもかかわらず、ふたたび今度は柱に明確に記した。

 それが弥太郎の投獄直接原因となる。ドラマでは、門に傷をつけて書き刻んでいたが、これはやりすぎ。墨書であろう(傷をつけたら消せないからね)。

 来週、判決があると思うが、結果はケンカ両成敗になる。

 弥太郎も井ノ口村を追放され、高知城下町にも立ち入りを禁じられたが、島田便右衛門も庄屋をクビになる。庄屋側についた弥太郎の親戚も、職をクビになったり村を追放された。

 役人は比較的公平な対処をしたといってよいのではないか。

 ちなみに龍馬が2度目の江戸行きのため高知をたつのは、安政3年(1856)8月20日である(既出の平尾道雄筆写の福岡家御用日記)。

 弥太郎が出獄するのは、安政4年(1857)1月20日であるから、その出獄をみずに龍馬が高知をたったドラマの設定は、まったく正しいことになる。

 くどいが、弥太郎の裁判に龍馬がかかわったという事実はないけれど。

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