龍馬伝第6回をみた
龍馬伝第6回「松陰はどこだ?」をみた。
今回はサブタイトルにあるように、吉田松陰との出会いに大きい位置を与えていた。千葉道場に出入り出来なくなっていたが、それも松陰と別れたのちに正常化できた。
が、もちろんフィクションである。龍馬はこのとき松陰と会ってはいない。
この時期に龍馬と松陰を(桂小五郎も)会わせて、その影響を受けるというのは、武田鉄矢氏原作・小山ゆう氏作画『おーい竜馬』の設定である(ヤングサンデーコミック5巻、小学館、3刷1990年)。第1話にひきつづき、その影響が感じられた。
松陰がペリー艦隊に乗りこんだときの詳細は、その手記「三月廿七夜の記」に詳しい。
伊豆下田の柿崎弁天島の祠にかくれて夜をまち、深夜2時ごろ漁船を奪って、従者金子重之助とともにペリー艦隊に向かう。この船には「櫓ぐひ」がなく、しかたなくふんどしで櫓(ボートでいうオール)をしばり、船出した(『吉田松陰全集』普及版、10巻、460ページ)。
とにかく詳細の記録があるため、龍馬や桂小五郎がその場にいなかったことがわかるわけだ。
龍馬と小五郎は、江戸から松陰を探しに出かける。ひとっ走りていどで黒船のある港に着いたから、江戸湾か横浜港あたりのことに思えたかも知れないが、実際は現在の静岡県下田市である。地理的感覚がおかしくなる。
このときの松陰の目的がアメリカに密航するためだったとは、よく知られたはなしである。今回のストーリーもそれだった。
が、そうではなく、実はペリー刺殺のために近づいたのだとは、川口雅昭氏の説である(「下田渡海考」田中彰氏編『幕末維新の社会と思想』吉川弘文館、1999年)。
失敗して自首した松陰が、佐久間象山・横井小楠・梅田雲浜・宮部鼎蔵といった関係者に累が及ばないようについたウソである。この松陰生涯最大の「偽言」にながく研究者がまどわされてきたというわけだ。
川口さんが論文発表されてから、もう10年が過ぎた。積極的な反論は管見では聞いたことがない。幕末史研究の世界では、もう通説化してきたといっていいのではないか。
これが採用されたドラマはまだ見たことがない。今回もまたしかりだった。
今回の松陰は、すでに完成された思想家のようで、まさに「松陰先生」だった。が、たとえば年齢は当時まだ数え24歳だし(扮する生瀬勝久さんは今年50歳)、心酔しきっていた桂小五郎との年齢差は3歳にすぎない。
ちなみに実際の松陰は、(大森南朋さん扮する)武市半平太より1歳若い。
「松陰先生」とよぶ桂小五郎は、松下村塾の生徒のように思われたかも知れない。が、 松陰が松下村塾を主宰するのは、まだのちのことである。
桂小五郎は、毛利家の学校(いわゆる藩校)、明倫館で松陰に兵学を習ったにすぎない。嘉永2年(1849)のことらしいので、松陰数え20歳、小五郎数え17歳である(村松剛『醒めた炎―木戸孝允』1巻、中公文庫、34ページ)。
いいたいことは、この時期の松陰は、龍馬と同じく黒船に衝撃を受け、人生観の変化を余儀なくされ、佐久間象山などに学ぶ青年に過ぎないということ。
当時、まだ桂小五郎と密接な関係にはない。
はなしが長くなってきた。
条約交渉のなかで、おかしなことがあった。ペリーの望む「開国」が、「交易」とされていた。とんでもない。
今回は通商条約ではない、和親条約である。
アメリカの捕鯨船が、食料・水・燃料などを供給するための寄港地を求めたにすぎない。だから「和親」なのだ。
和親条約とは、いわばまったくの見知らぬ者どうしが、友達になったというだけである。
通商条約締結はこれから2年後、ハリスが来日してから話題となる。このときアメリカ側から交易が希望される。幕末の大混乱はこのとき始まる。
暴力的に条約を結ばされた=和親条約へのショックと、天皇が勅許をこばみ、西洋人が開港地に常駐し、日本経済の混乱が開始される通商条約の締結をいっしょにしてはならない。
最後に、龍馬の千葉道場不在期間がかなり長いことが気になった。
嘉永6年(1853)6月、ペリーの最初の来航のころに始まり、翌嘉永7年3月、松陰の逮捕ののち帰参したはずだ。実に9カ月ていども不在といえる。
龍馬の江戸滞在期間がどれだけだったか、厳密にはわからない。が、平尾道雄筆写の「福岡家御用日記」によれば、嘉永6年3月に高知をたち、嘉永7年6月には帰国している(平尾道雄編『土佐維新史料』日記篇2<史料平尾文庫2>、162ページ)。
せいぜい1年余しか江戸には滞在していない。なのに約9カ月も千葉道場を不在にしたことになる。
ええんかいな。設定がよくわからないです。
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