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2010.01.18

龍馬伝第3話をみた

「龍馬伝」第3話をみた。

 今回は、龍馬が江戸へ向かった。今回からは文献史料で裏付けが可能な事実が入ってきた。

 出発前、父八平が与えた訓戒は、現存するので事実である。「修業中心得大意」という名前で、京都国立博物館蔵である。

 兄権平が三カ条を読みあげていたが、現存の原文と一致していたと思う。

 平井加尾のみが龍馬を見送っていたが、そんな事実はない。

 受け入れていいかわからないが、龍馬一族の弘松宣枝による先駆的な龍馬伝のひとつには、親族みんなで領石村(りょうせきむら。現南国市)まで見送ったとある(『阪本龍馬』22ページ、民友社、1896年)。

 領石村は、高知城下から東に3里(約12キロメートル)離れている。約12キロメートルも見送るのか、なんて過保護なんだということはない。当時の見送り一般は、現代人の常識をこえている。龍馬だけが特別ではない。

 平井加尾には晩年に、幕末を回想した記録が残っている。「平井女史の涙痕録」という名前である。龍馬との関係にもふれている。

 「女史ハ龍馬の姉とめ子と、一絃琴の稽古友達にてありしゆゑ(え)、龍馬をも善く知れるなり」とある(宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』増補四訂版982ページ)。

 劇中で加尾が琴をひいていたのは、この記述を採用したからだろう。

 龍馬を育てた姉乙女の読みは、一般に「おとめ」だが、今回のドラマは「とめ」と呼ばせている(ていねいに呼んで「お・とめ」はあるが)。

 おそらくこの「涙痕録」は根拠のひとつだろう。龍馬情報に精通しておられる、松岡司氏(高知県佐川町立青山文庫元館長)も「本当の名は「とめ」だったようだ」と理解しておられる(『定本坂本龍馬伝』66ページ)。

 平井加尾と龍馬については、また機会を改めたい。兄収二郎との関係なども、あわせて。

 龍馬とともに江戸へ向かった溝渕広之丞は、その後も龍馬の人生のターニングポイントに登場する大事な人物である。

 が、実はともに江戸へ向かったかどうか、さだかではない。

 龍馬が溝渕とともに江戸へ向かったという話の根拠は、溝渕家の伝承のみである(平尾道雄「溝渕広之丞」『土佐史談』29号、1929年)

 龍馬に同行者がいたことは、前述の弘松宣枝『阪本龍馬』に記載がある。野村栄二らが領石村で待ち受けていたとある。これを受け入れるなら、2人以上いたことになる。

 このなかに溝渕がいた可能性は、ないとはいえないが、難しいように思える。

 「四等士族上席年譜」という記録に、溝渕広之丞の履歴が記されてある(土佐山内家宝物資料館蔵)。それによれば、嘉永六年3月15日、江戸への「出足の願いがだされ、お聞き届け仰せつけられた」とある(渋谷雅之氏『溝渕広之丞のことなど』188ページ、私家版、2007年)。

 江戸行きの許可がおりたのが3月15日というのがおもしろい。龍馬が高知を立ったのは、平尾道雄の「福岡家御用日記」の筆写が正しければ、同年3月17日だから(当ブログ2010年1月10日条に既出)。2日後に出発したとすれば、同時に出発は可能である。

 ただいつ出発したかを記さない点が惜しまれる。

 というのも、さきほどのあと「同七(安政元)寅年正月十七日、御供達御門番頭且臨時御用を以て江戸表へ被差立之」と続くからである。

 嘉永7年(安政元年=1854年)1月17日、役をもらって江戸へ出発したとあるのだ。

 つまりここで江戸に向かったと読みとれる。それ以前に出発はしなかったということか。

 実はそうともいえない。嘉永3年(180)1月にも江戸へ出発しているが、その帰国の記事がない。この履歴は、出国・帰国をきちんと記してはいないのである。

 そんなわけで、溝渕が龍馬に同行したか否かは、いまのところ不明というほかない。こんなに引っ張っておいて。

 あ、岩崎弥太郎が龍馬と同行したのは、もちろんフィクションです。

 ではまた、次回。

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