龍馬伝第2話をみた
NHK大河ドラマ「龍馬伝」第2話をみた。
今回もまだまだフィクションの時代。
時期設定は、嘉永6年(1853)3月以前である。ペリーの浦賀来航が同年6月3日、龍馬の江戸留学申し出が同年3月4日であるから(「福岡家御用日記」平尾道雄編『土佐維新史料』日記篇二、162ページ、1991年)。
高瀬(たかせ)村と猪俣(いのまた)村の農民による、久万(くま)川の築堤の差配役を任されていた。
その成功により、父八平が龍馬の江戸行きを許すので、ドラマの上ではとても大事な設定であろう。
が、もちろんフィクションである。
『維新土佐勤王史』に、類似の話はある。以下、その部分。
「龍馬は十六歳となるや、偶(たまた)ま島某が工事を督して幡多郡に出張するを聞き、父の命によりて随行せしが、其の工夫を使用するに妙を得たりければ、島某も竊(ひそか)に龍馬を末頼しき若者よと思ひけり」(45ページ)
これは、若干増補されて、1914年(大正3)刊行の千頭清臣『坂本龍馬伝』にも引き継がれた(復刻版30-31ページ)。が、他書には採用されなかった。
裏付ける史料がないのである。
それどころか「猪俣村」自体、架空の村である。
高瀬村は、土佐国高岡郡と幡多(はた)郡にそれぞれふたつ存在する(現同郡仁淀(によど)村高瀬、おなじく現中村市高瀬)。
が、いずれも隣地に「猪俣村」はない。山本大監修『高知県の地名』(平凡社、1983年)をみても、他地域にさえ同名の村はない。
高岡郡仁淀村なら、高知市中心部から約30キロメートル離れている。
『維新土佐勤王史』の記述ををまじめに受け入れるなら、幡多郡である。
が、現中村市ならさらに遠く、約75キロメートルも離れている。実在の両村のいずれかを想定したものではなかろう。
話そのものが史料の裏付けがないのだから、舞台設定が架空でも問題はないのだろう。ちなみに久万川は存在する。高知城跡の北側を東西に現在も流れている。
ドラマの最後に、父八平が龍馬に江戸の千葉定吉道場への紹介状を見せた。そこに「桶町」とあった。
龍馬が弟子入りした千葉定吉道場は、江戸城鍛冶橋門外の「桶町(おけちょう)の千葉」として知られる(たとえば『維新土佐勤王史』46ページ)。が、実はこれは確証のあることではない。
たしかに丹波国の山国隊の指導者、藤野斎(ふじの・いつき)の日記には、千葉定吉の子息重太郎の道場を「桶町千葉道場」とした表記がある(『征東日誌』慶応4年(1868)7月25日条。158ページ)。※宮川禎一氏のご教示
だから「桶町」に千葉道場があったことは疑いない。が、それが幕末の龍馬入門のころもそうかといえば、分からない。
というのも、龍馬が在府していた嘉永7年(1854)刊行の江戸切絵図が現存するが、千葉定吉の名は、「桶町」にはない。
同じ江戸城鍛冶橋門外ではあるが、西側の「南鍛冶町一丁目」にある(「日本橋南京橋八丁堀霊岸島辺絵図」『江戸切絵図の世界』86ページ、新人物往来社、1998年)。
実は龍馬入門のころは、「南鍛冶町の千葉」だったのではないか。
近代の龍馬の伝記作者(『維新土佐勤王史』なら、前回登場の坂崎紫瀾)が、明治期の千葉道場の位置をもって(幕末の位置も同様だったと思いこんで)記し、のち流布してしまった、ということではなかっただろうか。
ひとつの可能性ですが。
来週は龍馬は江戸へ向かう。楽しみですね。
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