高槻城主永井家の墓参をした
1/28(木)雨のちくもり
いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」にでかける。
朝、大雨。それでも参加者がある。すごいことだ。
今回は新熊野観音寺。いまでこそ泉涌寺の塔頭にすぎないが、応仁の乱以前はかなり大きな寺だった。
泉涌寺が天皇の陵所となったのは、鎌倉前期の四条天皇以来のこととは知られた話だが、その四条天皇の父、後堀河上皇が、先に隣地の観音寺に埋葬されている。「観音寺陵」である。
そもそもいま、大和大路から通ずる東西道路を「泉涌寺道」とよぶが、もとは「観音寺大路」とよんだ(たとえば藤原定家「明月記」天福2年(1234)8月11日条)。
本尊十一面観音像はいうまでもなく、多宝塔も立派だし、もっと知られてよい名刹である。
観音寺についた10時すぎ、雨やむ。さすが。
コースにはないが、悲田院に立ち寄る。ここに高槻城主永井家歴代の墓がある。実に壮観である。圧倒された(写真)。
中央に、正保年間建設の初代直勝の碑があり、新しいものでは、幕末の元治2年(1865)4月死去の直矢(なおつら)の墓まである。
残念なことに、1950年ごろ、隣地の日吉ヶ丘高校建設にともない、現在地に移動した。
もし移動せずにあれば、国史跡指定をうけるに等しいものだっただろう。京都近郊にこんなにまとまった大名墓所をほかに知らない。
これまた隠れた京都史蹟のひとつといってよい。
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