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2010.01.24

龍馬伝第4話をみた

 大河「龍馬伝」第4話をみた。

 今回から江戸での生活でしたね。

 到着後、さっそく龍馬は、父八平など郷里の家族に手紙を書き、姉乙女からそれへの返事を受け取っていたが、史実ではない。

 現存する最古の龍馬の手紙は、父八平宛のものだが、嘉永6年(1853)9月23日付である。実際にそれ以前の手紙があったのかも知れないが、とにかく現存しない。

 嘉永6年(1853)9月23日付書翰は、ペリー来航を体感しての数え19歳の若々しい内容である。これについては、また次回。

 今回の目玉は、千葉佐那の登場であった。貫地谷しほりさん、好演でしたね。エンディングにちかいところ、迫力がありました。

 龍馬が、千葉佐那を評した姉乙女宛書翰がある。読みにくいかもしれないが、迫力があるので、まずは原文のまま。

「此人ハおさな(佐那)というなり。本ハ乙女といゝしなり。今年廿六歳ニなり候。馬によくの(乗)り剣も余程手づよく、長刀も出来、力ハなみ\/の男子よりつよく、先たとへバうちにむかしをり候ぎんという女の、力料斗も御座候べし。かほかたち平井(加尾)より少しよし。十三弦のこと(琴)よくひき、十四歳の時皆伝いたし申候よし。そしてゑ(絵)もか(描)き申候。心ばへ大丈夫ニて男子などをよ(及)ばず。夫ニいた(至)りてしづ(静)かなる人なり。ものかず(物数)い(言)はず。まあ\/今の平井\/」(宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』増補四訂、991ページ)。

【意訳】「この人はお佐那といいます。もとは乙女といいました。今年26歳になります。

馬によく乗り、剣もかなり強く、長刀(なぎなた)もでき、力は一般の男性よりも強い。

たとえば坂本家に以前仕えていた、ぎんという女性の力ぐらいあります。

顔の形は、平井加尾より少し良いです。

十三弦の琴をよく弾き、14歳の時、皆伝いたしました。そして絵も描くと言います。

心映えも立派で、男子など及びません。それなのにはなはだ静かな人です。口数も少ない。」

 べた褒めである。よほどいい女と思える。会ってみたくなるほどだ。 

 最後は何だろう。「まあまあ、今の平井・平井」って。

 平井加尾との比較なのだろうが。平井加尾と同じぐらいということか。顔立ちは佐那の方がよいらしいけど。

 ただこの手紙は、宮地佐一郎によれば、文久3年(1863)8月14日付に推定されている。今回のシーンの10年後である。すこし先である。

 今回、もう佐那は龍馬にひかれていたようだった。江戸に着いて、まだ2カ月もたっていないだろうに。少しスピーディな気がしたが、いかがでしょう。

 土佐では岩崎弥太郎がもう塾を開いていた。これは早すぎる。岩崎弥太郎が塾を開くのは、父と庄屋のケンカに端を発する事件で投獄され、その出獄後のことだ。

 すなわち安政4年(1857)のこと(4年後)。ドラマは岩崎家を極貧に描くが、これも事実ではない。むしろ裕福な家だった。

 弥太郎の母美和の手記には、「我参りし時(嫁いだころ)までは、随分大家のしるしもあり候」とあり、田地もかなりあったらしい(岩崎弥太郎・岩崎弥之助伝記編纂会編『岩崎弥太郎』上、1967年、66ページ)。

 生活が逼迫するのは、出獄ののちのこと。裁判により持っていた田地をことごとく失ったという。だから塾を開くわけだ。

 ちなみに父は地域(井ノ口村)の庄屋に足腰がたたぬほど痛めつけられて、畑仕事ができなくなったから、鳥の竹かごづくりをした(前掲『岩崎弥太郎』上、91ページ)。

 いつも弥次郎・弥太郎父子が鳥かごをぶらさげて歩いているのは、それをデフォルメしたものである。時期もかなりちがうわけだ。

 弥太郎の塾で平井加尾が学んだというのはフィクションである。前回話題にした加尾の回想録に、そんな話はない。

 ただ龍馬と縁の深い人物が2人学んでいる。池内蔵太と近藤長次郎(上杉宋次郎)である(前掲『岩崎弥太郎』上、1967年、196ページ)。

 ともにのち龍馬の亀山社中に参加し、維新を見ず、非業の最後を遂げる。

 池は、天誅組の乱に参加した猛者で、京都では平井加尾とのエピソードもある(「平井女史の涙痕録」)。それはまたいつか。

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