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2010.01.31

龍馬伝第5話をみた

 龍馬伝第5話をみた。

 もう開始から1カ月すぎようとしているのですね。早いもんだ。

 今回はペリー来航の波紋が中心でした。

 ペリーの黒船をみた龍馬が、もう刀が役に立たない、剣術をする意義が見出せないみたいにと叫んでいたのが、理解できなかった。

 黒船から大砲は放たれなかったので、船の大きさのみに脱力感をもったことになると思う。なんで大きいということのみが人生観を変えるほどのショックにつながるのか。

「ウドの大木」とか、「大男総身(そうみ)に知恵が回りかね」という、巨大なものを侮蔑したことわざがありますよね。

 かりに正攻法が無理だとしても、大船に何らかの手法でちかづいて潜入し、白兵戦に持ち込むという発想もありえるだろう。

 実際、土佐で岡田以蔵が「わしなら小舟で近づいて、こんな奴たたっ斬ってやる」といっていた。そうだろう。

 少なくとも本日の黒船の動きだけで、剣術否定に及ぶのは無茶だと思った。

 そもそも徳川政府の軍事力や、大船建造能力がどのようなものか、当時の龍馬に知り得たとも思えない。

 日本全体の海防力がいかに低いかを知るには、一定以上の有識者から教養を得ないと無理だろう。

 むしろ当時としては(過信だとしても)、徳川政府や山内家の軍事力のなかに自分も参加し、「横暴なやつめ、討取ってやるぞ」となるのではないか。

 だから番組中やエンディングの「龍馬伝紀行」にも登場した、嘉永6年(1853)9月23日付の父宛書翰の記述がリアルになるのではないか。

「異国船処々に来り候由に候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候。其節は異国の首を打取り、帰国仕るべく候」(宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』増補4訂、5ページ)。

【意訳】「異国船があちこちに来ているらしいので、戦争も近いうちに起ると思います。そのときは、異国人の首を討ち取って、(それをみやげに)帰国いたします」。

につながるのだろう。

 これは現在知られる、もっとも古い龍馬の書翰である(ただし所蔵地は不明)。

 ドラマの中で、この書翰を読んだ姉乙女が、「お前らしくない、お前が戦をしたがっているとは思えない」みたいな返事を送っていた。龍馬も「あの手紙はうそじゃ」とつぶやいていた。なんでそうなるのだ。もちろん姉乙女のこんな書翰は現存しない。

 そういえば第1話で、「争いでは何も変わらん」と龍馬に発言させていた。龍馬を「平和主義者」として描こうとしているのではないか。

 龍馬が武士であることを忘れていないか。武士とは軍人なのである。人を殺傷する道具を2本も差して歩いているのだ。江戸にいるのも剣術修行のためじゃないか。

 争いを否定するなら、出家して僧など宗教家になるべきではないか。

 今回はとても違和感があった。

 最後に山内豊信の風貌に驚いた。近藤正臣さんの実際の年齢はともかく、白髪のメイクは老齢といってもよい感じだった。

 が、嘉永6年(1863)当時、山内豊信は数え27歳である。

 どういうことだろう。なぜそんな高齢に設定するのだろう。

 なおいっしょにいた吉田東洋も、それ以上の高齢にみえたが、やはり当時の年齢はそんなに高くない。

 数え38歳である。

 不思議がいっぱいの回だった。

 次回は吉田松陰が登場する。予告で、松陰が龍馬をぶん殴っていた。これまた驚いた。それはまた次回。

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2010.01.30

【巡検】大津の前期古墳をあるく

 【巡検のご案内】

 恒例の「基礎からまなぶ近江の歴史」の巡検をいたします。

 大津市内の前期古墳をあるきます。

 専門的な話はできません。基礎的な古墳のお話を現地でいたします。

 よろしければおこしください。

              記

日時:2010年2月1日(月)午後1時30分~日が暮れるまで

集合:京阪電鉄「近江神宮前」駅改札

行き先:皇子山一号墳・兜稲荷山古墳・膳所茶臼山古墳

参加費:千円(電車移動をします。交通費は自弁ください)

同行:中村武生(京都女子大学非常勤講師)

主催:龍馬カンパニー

※小雨決行

※予約不要、直接集合場所へおこしください。

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2010.01.29

高槻城主永井家の墓参をした

1/28(木)雨のちくもり

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 いつもの「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」にでかける。

 朝、大雨。それでも参加者がある。すごいことだ。

 今回は新熊野観音寺。いまでこそ泉涌寺の塔頭にすぎないが、応仁の乱以前はかなり大きな寺だった。

 泉涌寺が天皇の陵所となったのは、鎌倉前期の四条天皇以来のこととは知られた話だが、その四条天皇の父、後堀河上皇が、先に隣地の観音寺に埋葬されている。「観音寺陵」である。

 そもそもいま、大和大路から通ずる東西道路を「泉涌寺道」とよぶが、もとは「観音寺大路」とよんだ(たとえば藤原定家「明月記」天福2年(1234)8月11日条)。

 本尊十一面観音像はいうまでもなく、多宝塔も立派だし、もっと知られてよい名刹である。

 観音寺についた10時すぎ、雨やむ。さすが。

 コースにはないが、悲田院に立ち寄る。ここに高槻城主永井家歴代の墓がある。実に壮観である。圧倒された(写真)。

 中央に、正保年間建設の初代直勝の碑があり、新しいものでは、幕末の元治2年(1865)4月死去の直矢(なおつら)の墓まである。

 残念なことに、1950年ごろ、隣地の日吉ヶ丘高校建設にともない、現在地に移動した。

 もし移動せずにあれば、国史跡指定をうけるに等しいものだっただろう。京都近郊にこんなにまとまった大名墓所をほかに知らない。

 これまた隠れた京都史蹟のひとつといってよい。

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2010.01.28

桐野作人さんの新たな研究成果をうけての「小松帯刀寓居参考地」標石の今後の対応について

2010年1月28日

桐野作人さんの新たな研究成果をうけての

「小松帯刀寓居参考地」標石の今後の対応について

中村武生

一昨年7月、僕が理事長をつとめる任意団体「京都歴史地理同考会」(当時。現在は非営利活動法人。以下同考会)は、京都市上京区堀川通一条東入ル南側松之下町の民有地に「此向かい小松帯刀寓居参考地」などと刻んだ標石を建てた。

理由は、

①当時放映中であったNHK大河ドラマ「篤姫」において、小松帯刀が準主役として登場していたこと(瑛太さんが扮した)

②親しくさせていただいていた鹿児島県出身の歴史作家、桐野作人さんの研究により、当該地を有力地と知ったこと。

③当地に標石を建てることが、京都観光の活性につながると信じたため

である。

ただし当該地と推定する根拠は必ずしも十分ではなく、今後新たに確認される史料により、より有力な土地を見出す可能性があった。

そのため断定的な表現を避け、銘に「参考地」の語句を加えることとした。

去る本年1月24日刊行の『歴史読本』(2010年3月号、新人物往来社)に、桐野作人さん著「薩長同盟はどこで結ばれたのか―小松帯刀の京都邸「御花畑」を探す」(以下、当論文) が掲載された。

当論文において桐野さんは、薩長同盟締結地と推定される、小松帯刀の京都での居住地について、従来の堀川通一条東入ル説を破棄され、室町通上立売上ルの室町頭町付近と結論づけられた。

当論文の内容を検討したところ、いまだ確定的ではないとはいえ、堀川通一条東入ルに比して、室町頭町付近説がより有力であると判断した。

当該成果を受けて、堀川通一条東入ルの標石を今後いかに扱うか、去る同年1月26日開催の同考会の理事会で検討した。

その結果、

   当該標石の建設後、多くの書籍・観光案内パンフレットなどにその写真が掲載され、京都における小松帯刀およびその京都屋敷への認識が高まり、その研究促進に益があったと判断できること。すなわち建設よりわずか1年半とはいえ、すでに研究史上に一定の位置を与えられる。

②当該標石に刻んだ語句は、小松帯刀にとどまらない。「藤原道綱母子・源頼光一条邸

  跡」「此向かい近衛堀川屋敷跡」、「此付近応仁の乱洛中最初合戦地」を表示してお

  り、それらは現段階では依然事実と認められる。

それゆえ当該標石は破棄せず、現状のまま維持することとする。

ただしこの文章を当該標石そばに置くなど、見学者に誤解を与えないよう最善を尽くしたい。

 ご理解いただければ幸いです。

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2010.01.27

【巡検】今熊野観音にお参りします

 「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」の次回ご案内です。

 日時:2010年1月28日(木)午前9時-11時

 集合場所:京阪七条駅、大阪方面行きの改札

 行き先:今熊野観音など(コースにはありませんが、悲田院にも立ち寄る予定)

 参加費:500円

 同行:中村武生(京都女子大学非常勤講師)

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2010.01.26

「トリビア」でも龍馬が取り上げられるらしい

来たる2010年2月27日(土)にフジテレビ系で、「トリビアの泉SP(仮)」という番組があるそうだ。

 そこで坂本龍馬の「トリビア」が取り上げられるらしい。

 昨日、番組製作会社の方から、何かネタはないかと問い合わせがあった。

 が、何としても中村武生から聴きたいという感じではなかったので、協力を御断りさせていただいた。

 残念だった。

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2010.01.25

水無瀬離宮跡?の現地説明会に行ってきた

1/24(日)はれ

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 昨日京都新聞朝刊に、大阪府三島郡島本町の広瀬遺跡で、後鳥羽上皇ゆかりの水無瀬離宮跡と思われる、大型建物が見つかったと報じられた。

 院政時代の京郊の離宮跡で、考古学的に見つかっていないのは、水無瀬離宮だけである。白河も鳥羽も法住寺も考古学のみならず、文献研究も多い。

 院政期の御所研究は、高橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』(文理閣、2006年)に詳しいが、その高橋昌明さんが、「はじめに」で、水無瀬離宮をはじめとする「後鳥羽時代の院御所の機能についての全体的な考察は、今後の課題と」された(14ページ)。

 そんなわけなので、行ってきた。

 たまたま定例の出講がなかったことが大きいが、少ない休日に朝早く起きるのはつらい。さぼりたかったが、行った。それぐらい関心があったのだ。 

 建物跡よりも、縁側跡がわかりやすく、雨落ち溝と推定された石たまりも見事だった(写真)。

 が、報道は大きいものの、実際はまだまだこれからだと思えた。出土瓦も量はともかく、小さなものばかりだった。

 しかし学史上の画期であるのは確実で(本当に初の水無瀬離宮かと思われる遺構だったから)、そこに立ち会えたことがうれしかった。

 現地では、K都市M文K究所のM川Y広さんや、M日市B化S料館のT城R子さんに声をかけられた。ごぶさたしてます。

 いい天気だったが、すぐ帰って、家でまた雑務や原稿に立ち向かう。

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2010.01.24

龍馬伝第4話をみた

 大河「龍馬伝」第4話をみた。

 今回から江戸での生活でしたね。

 到着後、さっそく龍馬は、父八平など郷里の家族に手紙を書き、姉乙女からそれへの返事を受け取っていたが、史実ではない。

 現存する最古の龍馬の手紙は、父八平宛のものだが、嘉永6年(1853)9月23日付である。実際にそれ以前の手紙があったのかも知れないが、とにかく現存しない。

 嘉永6年(1853)9月23日付書翰は、ペリー来航を体感しての数え19歳の若々しい内容である。これについては、また次回。

 今回の目玉は、千葉佐那の登場であった。貫地谷しほりさん、好演でしたね。エンディングにちかいところ、迫力がありました。

 龍馬が、千葉佐那を評した姉乙女宛書翰がある。読みにくいかもしれないが、迫力があるので、まずは原文のまま。

「此人ハおさな(佐那)というなり。本ハ乙女といゝしなり。今年廿六歳ニなり候。馬によくの(乗)り剣も余程手づよく、長刀も出来、力ハなみ\/の男子よりつよく、先たとへバうちにむかしをり候ぎんという女の、力料斗も御座候べし。かほかたち平井(加尾)より少しよし。十三弦のこと(琴)よくひき、十四歳の時皆伝いたし申候よし。そしてゑ(絵)もか(描)き申候。心ばへ大丈夫ニて男子などをよ(及)ばず。夫ニいた(至)りてしづ(静)かなる人なり。ものかず(物数)い(言)はず。まあ\/今の平井\/」(宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』増補四訂、991ページ)。

【意訳】「この人はお佐那といいます。もとは乙女といいました。今年26歳になります。

馬によく乗り、剣もかなり強く、長刀(なぎなた)もでき、力は一般の男性よりも強い。

たとえば坂本家に以前仕えていた、ぎんという女性の力ぐらいあります。

顔の形は、平井加尾より少し良いです。

十三弦の琴をよく弾き、14歳の時、皆伝いたしました。そして絵も描くと言います。

心映えも立派で、男子など及びません。それなのにはなはだ静かな人です。口数も少ない。」

 べた褒めである。よほどいい女と思える。会ってみたくなるほどだ。 

 最後は何だろう。「まあまあ、今の平井・平井」って。

 平井加尾との比較なのだろうが。平井加尾と同じぐらいということか。顔立ちは佐那の方がよいらしいけど。

 ただこの手紙は、宮地佐一郎によれば、文久3年(1863)8月14日付に推定されている。今回のシーンの10年後である。すこし先である。

 今回、もう佐那は龍馬にひかれていたようだった。江戸に着いて、まだ2カ月もたっていないだろうに。少しスピーディな気がしたが、いかがでしょう。

 土佐では岩崎弥太郎がもう塾を開いていた。これは早すぎる。岩崎弥太郎が塾を開くのは、父と庄屋のケンカに端を発する事件で投獄され、その出獄後のことだ。

 すなわち安政4年(1857)のこと(4年後)。ドラマは岩崎家を極貧に描くが、これも事実ではない。むしろ裕福な家だった。

 弥太郎の母美和の手記には、「我参りし時(嫁いだころ)までは、随分大家のしるしもあり候」とあり、田地もかなりあったらしい(岩崎弥太郎・岩崎弥之助伝記編纂会編『岩崎弥太郎』上、1967年、66ページ)。

 生活が逼迫するのは、出獄ののちのこと。裁判により持っていた田地をことごとく失ったという。だから塾を開くわけだ。

 ちなみに父は地域(井ノ口村)の庄屋に足腰がたたぬほど痛めつけられて、畑仕事ができなくなったから、鳥の竹かごづくりをした(前掲『岩崎弥太郎』上、91ページ)。

 いつも弥次郎・弥太郎父子が鳥かごをぶらさげて歩いているのは、それをデフォルメしたものである。時期もかなりちがうわけだ。

 弥太郎の塾で平井加尾が学んだというのはフィクションである。前回話題にした加尾の回想録に、そんな話はない。

 ただ龍馬と縁の深い人物が2人学んでいる。池内蔵太と近藤長次郎(上杉宋次郎)である(前掲『岩崎弥太郎』上、1967年、196ページ)。

 ともにのち龍馬の亀山社中に参加し、維新を見ず、非業の最後を遂げる。

 池は、天誅組の乱に参加した猛者で、京都では平井加尾とのエピソードもある(「平井女史の涙痕録」)。それはまたいつか。

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【巡検】泉涌寺へ行きます

 お問い合わせがありましたので、「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」次回ご案内を掲示します。

 日時:2010年1月26日(火)午前9時-11時

 集合:京阪「七条」駅、大阪行き方面の改札

 行き先:東山大仏(方広寺旧境内)を通って、泉涌寺へむかいます

 参加費:500円(拝観料が発生するときは、個人負担ください)

 同行:中村武生(歴史地理史学者・京都女子大学非常勤講師)

 主催:京都史蹟隊

 ※雨天決行 ※どなたでも参加できます

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2010.01.23

楢崎将作ノートを出すことにした

 少し前、年末年始に龍馬の妻お龍の父を検討した、「楢崎将作ノート」なる小文をまとめた。が、気に入らなかったので掲載を見送ったと述べた。

 しかし、赤尾博章理事長に見せたら、好評だったので、やっぱり載せることにした。手直しして、本日完成した。

 京都龍馬会会報『近時新聞』2号です。すぐ刊行されると思います。

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2010.01.21

センター入試日本史B問題に久しぶりに挑戦した

 1月16日(土)に行われたセンター入試の問題が、翌日の京都新聞に載っていた。

 ゆえに日本史Bの問題をしてみた。

 昔、大学予備校講師をしていたことがある。そのころは毎年百点取っていた(たまに1~2問、間違うが)。

 予備校講師をやめて久しい。さて何問誤るか。

 うかつにも2問誤った。94点だった。

 ケアレスミスだが、間違いは間違い。

 久しぶりだし、まあいいか。

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2010.01.20

苦闘である

 年末年始とかかえていた、『第六回京都検定 問題と解説』の原稿が先日上がった(共同執筆です)。たいへんきつかった。が、とりあえず上がってよかった。

 それが終わると、また再開した「中村武生さんとあるく洛中洛外」の締め切りがやってきた。これも今週分、ぎりぎり上がった。

 その間も、定期の講座の時間がやってくる。いいかげんにやっているように見えるかもしれないが、それなりに予習をしている。これまたたいへん。

 書かねばならぬ論文が進まぬ。苦闘である。

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2010.01.18

龍馬伝第3話をみた

「龍馬伝」第3話をみた。

 今回は、龍馬が江戸へ向かった。今回からは文献史料で裏付けが可能な事実が入ってきた。

 出発前、父八平が与えた訓戒は、現存するので事実である。「修業中心得大意」という名前で、京都国立博物館蔵である。

 兄権平が三カ条を読みあげていたが、現存の原文と一致していたと思う。

 平井加尾のみが龍馬を見送っていたが、そんな事実はない。

 受け入れていいかわからないが、龍馬一族の弘松宣枝による先駆的な龍馬伝のひとつには、親族みんなで領石村(りょうせきむら。現南国市)まで見送ったとある(『阪本龍馬』22ページ、民友社、1896年)。

 領石村は、高知城下から東に3里(約12キロメートル)離れている。約12キロメートルも見送るのか、なんて過保護なんだということはない。当時の見送り一般は、現代人の常識をこえている。龍馬だけが特別ではない。

 平井加尾には晩年に、幕末を回想した記録が残っている。「平井女史の涙痕録」という名前である。龍馬との関係にもふれている。

 「女史ハ龍馬の姉とめ子と、一絃琴の稽古友達にてありしゆゑ(え)、龍馬をも善く知れるなり」とある(宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』増補四訂版982ページ)。

 劇中で加尾が琴をひいていたのは、この記述を採用したからだろう。

 龍馬を育てた姉乙女の読みは、一般に「おとめ」だが、今回のドラマは「とめ」と呼ばせている(ていねいに呼んで「お・とめ」はあるが)。

 おそらくこの「涙痕録」は根拠のひとつだろう。龍馬情報に精通しておられる、松岡司氏(高知県佐川町立青山文庫元館長)も「本当の名は「とめ」だったようだ」と理解しておられる(『定本坂本龍馬伝』66ページ)。

 平井加尾と龍馬については、また機会を改めたい。兄収二郎との関係なども、あわせて。

 龍馬とともに江戸へ向かった溝渕広之丞は、その後も龍馬の人生のターニングポイントに登場する大事な人物である。

 が、実はともに江戸へ向かったかどうか、さだかではない。

 龍馬が溝渕とともに江戸へ向かったという話の根拠は、溝渕家の伝承のみである(平尾道雄「溝渕広之丞」『土佐史談』29号、1929年)

 龍馬に同行者がいたことは、前述の弘松宣枝『阪本龍馬』に記載がある。野村栄二らが領石村で待ち受けていたとある。これを受け入れるなら、2人以上いたことになる。

 このなかに溝渕がいた可能性は、ないとはいえないが、難しいように思える。

 「四等士族上席年譜」という記録に、溝渕広之丞の履歴が記されてある(土佐山内家宝物資料館蔵)。それによれば、嘉永六年3月15日、江戸への「出足の願いがだされ、お聞き届け仰せつけられた」とある(渋谷雅之氏『溝渕広之丞のことなど』188ページ、私家版、2007年)。

 江戸行きの許可がおりたのが3月15日というのがおもしろい。龍馬が高知を立ったのは、平尾道雄の「福岡家御用日記」の筆写が正しければ、同年3月17日だから(当ブログ2010年1月10日条に既出)。2日後に出発したとすれば、同時に出発は可能である。

 ただいつ出発したかを記さない点が惜しまれる。

 というのも、さきほどのあと「同七(安政元)寅年正月十七日、御供達御門番頭且臨時御用を以て江戸表へ被差立之」と続くからである。

 嘉永7年(安政元年=1854年)1月17日、役をもらって江戸へ出発したとあるのだ。

 つまりここで江戸に向かったと読みとれる。それ以前に出発はしなかったということか。

 実はそうともいえない。嘉永3年(180)1月にも江戸へ出発しているが、その帰国の記事がない。この履歴は、出国・帰国をきちんと記してはいないのである。

 そんなわけで、溝渕が龍馬に同行したか否かは、いまのところ不明というほかない。こんなに引っ張っておいて。

 あ、岩崎弥太郎が龍馬と同行したのは、もちろんフィクションです。

 ではまた、次回。

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2010.01.15

東山大仏跡をくまなくあるく

1/14(木)はれ

 朝、寒い日でしたね。

 でも「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」(2日目の5日目)は、予定通り行われた。今回は東山大仏跡めぐりの2日目。

 その四至(東西南北)を歩けるところすべて歩いた。楽しかった。

 寒かったので、終了後、有志とそばを食べた。

 午後からは、京都新聞文化センターに出講。坂本龍馬講座第2期の初日。年末年始、新聞に何度も広告が載った。そのおかげでいつもよりかなり多くの人が来られた。Y田係長の尽力である。感謝。

 次回は巡検。はじめて大阪市に出張する。大坂南郊の土佐住吉陣屋跡に行く。お楽しみに。

 終了後は、京都新聞文化センターにおつとめの、既知のM尾さんと、いつものステキなイスのある喫茶店で歓談。実は今年、初めてお目にかかった。

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2010.01.11

長浜に板倉筑前介に会いに行った

1/10(日)はれ

 長浜城歴史博物館で「板倉槐堂と江馬天江」展が行われている、と最近知った(~1月20日)。

 2人は姓がちがうが、兄弟である。長浜南郊の名家下坂氏の出身で、それぞれ養子に出た。

 そのうち、板倉槐堂に関心がある。正しくは板倉筑前介、もしくは淡海槐堂という。僕の幕末史研究のいろんな場所に登場する人だから。

 一番有名なのは、坂本龍馬の血染めの掛け軸の梅・椿の作者である。板倉筑前介の子孫宅に伝わる同人の略伝によれば、龍馬殺害の日に自ら持参したという。

 天誅組が出発した「方広寺道場」は、板倉筑前介と土佐の平井収二郎らが設置したものという(平尾道雄『吉村虎太郎』)。

 池田屋事件では、土佐の野老山吾吉郎(ところやま・ごきちろう)や藤崎八郎が受難した。それをかくまったり逃がしたりしたのが板倉筑前介とされる(『維新土佐勤王史』など)

 ほかにもいろいろあるのだが、とにかくびっくりするぐらい、いろんな場に出てくる。だからその作品をまとめてみたいと思った、というわけ。

 正月明けて、また忙しくなってきた。20日までに本日をのがして来れる日はなさそうだ。だから無理をした。

 長浜城歴史博物館では、いつもの太田浩司氏や森岡栄一氏(ともに副参事・学芸員)と歓談できた。もしかしたら、夏にでも、「龍馬と板倉筑前介」みたいな講演が任されるかもしれない。そのときは、どうぞおこしください。

 夕食はもちろん、鳥喜多である。あいかわらずおいしかった。安かった。

 長浜は寒くなかったし。

 駅にはもう、2011年のNHK大河ドラマ「江(ごう)」の舞台地であることを明示したポスターがはられていた。なんてはやいんだ。すばらしい。

 いろいろ楽しかった。

 午後8時の大河「龍馬伝」にも間に合ったし。

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2010.01.10

龍馬伝第2話をみた

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」第2話をみた。

 今回もまだまだフィクションの時代。

 時期設定は、嘉永6年(1853)3月以前である。ペリーの浦賀来航が同年6月3日、龍馬の江戸留学申し出が同年3月4日であるから(「福岡家御用日記」平尾道雄編『土佐維新史料』日記篇二、162ページ、1991年)。

 高瀬(たかせ)村と猪俣(いのまた)村の農民による、久万(くま)川の築堤の差配役を任されていた。

 その成功により、父八平が龍馬の江戸行きを許すので、ドラマの上ではとても大事な設定であろう。  

 が、もちろんフィクションである。

 『維新土佐勤王史』に、類似の話はある。以下、その部分。

 「龍馬は十六歳となるや、偶(たまた)ま島某が工事を督して幡多郡に出張するを聞き、父の命によりて随行せしが、其の工夫を使用するに妙を得たりければ、島某も竊(ひそか)に龍馬を末頼しき若者よと思ひけり」(45ページ)

 これは、若干増補されて、1914年(大正3)刊行の千頭清臣『坂本龍馬伝』にも引き継がれた(復刻版30-31ページ)。が、他書には採用されなかった。

 裏付ける史料がないのである。

 それどころか「猪俣村」自体、架空の村である。

 高瀬村は、土佐国高岡郡と幡多(はた)郡にそれぞれふたつ存在する(現同郡仁淀(によど)村高瀬、おなじく現中村市高瀬)。

 が、いずれも隣地に「猪俣村」はない。山本大監修『高知県の地名』(平凡社、1983年)をみても、他地域にさえ同名の村はない。

 高岡郡仁淀村なら、高知市中心部から約30キロメートル離れている。

『維新土佐勤王史』の記述ををまじめに受け入れるなら、幡多郡である。

 が、現中村市ならさらに遠く、約75キロメートルも離れている。実在の両村のいずれかを想定したものではなかろう。

 話そのものが史料の裏付けがないのだから、舞台設定が架空でも問題はないのだろう。ちなみに久万川は存在する。高知城跡の北側を東西に現在も流れている。

 ドラマの最後に、父八平が龍馬に江戸の千葉定吉道場への紹介状を見せた。そこに「桶町」とあった。

 龍馬が弟子入りした千葉定吉道場は、江戸城鍛冶橋門外の「桶町(おけちょう)の千葉」として知られる(たとえば『維新土佐勤王史』46ページ)。が、実はこれは確証のあることではない。

 たしかに丹波国の山国隊の指導者、藤野斎(ふじの・いつき)の日記には、千葉定吉の子息重太郎の道場を「桶町千葉道場」とした表記がある(『征東日誌』慶応4年(1868)7月25日条。158ページ)。※宮川禎一氏のご教示

 だから「桶町」に千葉道場があったことは疑いない。が、それが幕末の龍馬入門のころもそうかといえば、分からない。

 というのも、龍馬が在府していた嘉永7年(1854)刊行の江戸切絵図が現存するが、千葉定吉の名は、「桶町」にはない。

 同じ江戸城鍛冶橋門外ではあるが、西側の「南鍛冶町一丁目」にある(「日本橋南京橋八丁堀霊岸島辺絵図」『江戸切絵図の世界』86ページ、新人物往来社、1998年)。

 実は龍馬入門のころは、「南鍛冶町の千葉」だったのではないか。

 近代の龍馬の伝記作者(『維新土佐勤王史』なら、前回登場の坂崎紫瀾)が、明治期の千葉道場の位置をもって(幕末の位置も同様だったと思いこんで)記し、のち流布してしまった、ということではなかっただろうか。

 ひとつの可能性ですが。

 来週は龍馬は江戸へ向かう。楽しみですね。

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2010.01.07

超寒い日、の始動

 今年、最初の出かける仕事があった。

 「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」2日目の3日目。

 最初の日だからか、いつもより参加者、多い。

 寺町四条を下がってゆく。まず春長寺にお参りして、村井貞勝の墓参(写真左)。

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 村井貞勝は織田政権期の京都所司代である。本能寺の変において二条御新造(二条殿)で信長の嫡子信忠と自刃した。

 モデルコースには含まれていないが、モデルコースの大雲院が祇園円山に移動しているので、さみしいから立ち寄った。

 「大雲院」の名は信忠の法号を使用したもので、織田家の菩提寺のひとつだから縁があるため。

 五条通にむかう途中、聖光寺にも寄った。大石内蔵助の生母の墓がある(下の写真)。大石内蔵助の建立である。意外と知られていない。実は赤穂浪士はかなり京都と縁がある。

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 五条通では扇生産で知られる御影堂と八幡社に寄るべきだが、いずれも同地にはない。古地図と『都名所図会』を使って、旧地に立った。もちろん標石も案内もない。

 唯一、五条大橋西詰に扇塚があるのを見る。

 五条大橋といえば、正保年間の擬宝珠があり、そこに「芦浦観音寺」があるのに初めて気づいた。

 芦浦観音寺は近江琵琶湖畔の大寺であるが、なぜか京都で公儀の建築に関わっている。これは以前、主宰している「くずし字入門」で読んだ「都の記」(京都覚書の異本、府立総合資料館蔵)で得た知識である。が、詳しいことがわからないまま放置していた(当ブログ2009年7月4日付)。

 こんなところにデータがあったとは。少数だがくずし字参加者がおられたので、奇遇を楽しんだ。

 橋をわたって大仏参りをするはずだったが、時間が来てしまった。できれば無理をしたかったが、とても寒い日だった。

 僕が寒いと思うぐらいだから、参加者はもっともっと寒かったことだろう。で、また次回に。

 次回は、(2010)1月12日(火)午前9時、京阪電車五条駅改札集合です。

 行き先は東山大仏(方広寺)付近です。

 いつもどおり11時まで。参加費ワンコイン(500円)です。雨天・降雪決行です。

 よろしければおこしください。

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2010.01.06

中村武生、始動

 明日から中村武生が始動します。

 よろしければお越しください。

【江戸時代京都の観光モデルコースをあるく】

日時:2010年1月7日(木)午前9~11時

集合場所:新京極通四条交差点北西角の交番前

行き先:四条新京極を南下します(予定:大雲院跡→五条御影堂跡→八幡社跡→東山大仏跡(方広寺))→耳塚

参加費:ワンコイン(500円)

※雨天・降雪決行

案内:中村武生(京都女子大学非常勤講師)

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2010.01.05

けっきょくお龍の実証のつづき

 京都龍馬会の原稿のつづき。

 けっきょく前回のつづきで、信用できる史料からみたお龍の実像を書いた。

 『近時新聞』という会報2号に載ります。赤尾理事長は仕事が早いので、すぐに発刊されると思います。

 ほかにも町田明広先生(明治学院大学)や宮川禎一先生(京都国立博物館)もご執筆ですので、ぜひご覧ください。

 長い休暇。勉強が進むわ。

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2010.01.04

あきらめた楢崎将作ノート

 京都龍馬会の会報に原稿依頼されたため、「楢崎将作ノート」というのをかなり時間をかけてまとめた。

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  が、完成してみると、なんだかショボイものに見えてきた。

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 ここで明らかにしたことはまた別の機会に提示することにして、今回はボツにすることにした。

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 というわけで、まだこの用事はつづく。

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2010.01.03

龍馬伝第1話をみた

 1/3(日)はれ

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」第1話「上士と下士」をみた。

 冒頭、1882年(明治15)、岩崎弥太郎の祝宴に、龍馬について取材を試みる、『土陽新聞』記者坂崎紫瀾が出て楽しかった。

 坂崎紫瀾は龍馬の伝記をはじめて書いた人物である。タイトルは『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』である。

 ただし当時の坂崎紫瀾は歴史研究者ではなく、自由民権運動家である。

 だから自由民権運動を盛り上げるため、すなわち薩長藩閥を攻撃するためのヒーローとして、龍馬を選んだ。

 だから実証研究の成果ではなく、「政治小説」のひとつに分類される。

『土陽新聞』にその連載が開始されるのが、1883年(明治16)1月である。だから、岩崎に取材を試みる舞台として、その前年の1882年(明治15)が設定されたのだろう。

 番組の宣伝で「岩崎弥太郎の視点による龍馬」と聞いていたから、ナレーターが岩崎(香川照之さん)なのだろうと思っていた。

 それは当たりなのだが、それを龍馬の伝記を書きたい坂崎紫瀾に、岩崎が語るという形をとられるとは想像していなかった。なるほど、だから「龍馬伝」というタイトルなのか、とも思った。

 のち土方久元ら土佐出身の明治政府役人が、幕末土佐の首領武市半平太(瑞山)らを顕彰する会をつくった。「瑞山会」である。

 その瑞山会が、武市半平太(瑞山)らの伝記、『維新土佐勤王史』をつくる際、執筆者に選んだのも坂崎紫瀾であった。

 『維新土佐勤王史』は、『汗血千里駒』とはちがい政治小説ではない。事実を書こうとしている。

 ここにしか記されないデータも少なくないため、土佐の幕末史を知るうえで必携の書物であるが、政治小説家出身の坂崎が執筆者であることを忘れてはいけない。年次の相違など、事実誤認も決して少なくないから。

 坂崎の話題がながくなった。

 劇中の龍馬はまだ史料不十分の時代である。ゆえにエピソードはことごとくフィクションである。だからまだ事実はどうだ、なんて話はしにくい。

 土佐の上士の邸宅に呼びつけられ、殺されそうになった龍馬を実母が助けに駆けつけ、ことなきをえたが、それがきっかけで母が病死したという話はもちろんフィクションである。

 が、それは今回の脚本のオリジナルではなく、武田鉄矢氏原作・小山ゆう氏作画『おーい竜馬』にある話がもとになっている(ヤングサンデーコミック3巻、小学館、1988年)。

 『おーい竜馬』は、司馬遼太郎『竜馬がゆく』以上に、最近の龍馬ファン生産に功のある作品(マンガ)である。

 今後の「龍馬伝」にも、少なからず影響を与えるものと想像している。

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2010.01.02

お龍の父、楢崎将作に悩む

 京都龍馬会の会報に原稿を頼まれている。書きたいことは山ほどあるが、 龍馬の妻お龍(鞆) の父、楢崎将作について書くことにした。

 史料の少ない人であるが、これまで気づかれていない視点がある。それを書こうと立ち向かったら、けっこうデータは充実してきた。

 が、まとめるのが難しい。まとまらない。

 そう思ってちんたらしていたら、もう次の原稿の締め切りがせまってきた。これにばかり没頭しているわけにはいかなくなった。

 さてどうするか。

 おわり。

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2010.01.01

謹賀新年で吉田松陰を思う

 あけましておめてとうございます。

 今年もよろしくお願いいたします。

 今年は私、43歳になります。どんな業績を積むことができるかでございます。無理をすべきだと思っております。

 さて今年の干支は、庚寅(かのえ・とら)です。同じ「庚寅」には、過去になにがあったのかを調べて、楽しんでおります。

 たとえば天保元年(1830)が「庚寅」です。この年生まれたのは、吉田松陰です。吉田松陰といえば、昨年は2009年でしたので、没後150年にあたりました(没年は安政6=1859)。

 今年の大河「龍馬伝」にも、龍馬と面識がなかったはずの松陰が出てまいります(演ずるは生瀬勝久氏)。

 2年連続、松陰を意識する年か、と思っております。

 どうということはありませんが。松陰ファンなのでございます。

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