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2009.12.19

京都新城こと高台院三本木屋敷を論ず

12月17日(木)はれ

 そろそろ寒くなってきた。

 名古屋へ出張。いつもの栄中日文化センター。

 「日本の城と合戦」は、おとくいの「京都新城」のはなし。豊臣政権最後の洛中城郭である。秀頼の上洛用につくられた城と思われる。元服と昇進の二度使われた。

 秀吉死後は、大坂城西ノ丸を出た北政所の屋敷になった(いわゆる三本木屋敷)。ここがついのすみかになった。しつこくいうが、高台寺には住んでいない。

 詳しくは跡部信氏「高台院と豊臣家」(『大阪城天守閣紀要』34号、2006年)をごらんください。どうして高台寺に住んだと誤解されたか、実は史料の誤読だったとわかります。

 なお京都新城=高台院三本木屋敷は、現在の仙洞御所の位置である。

 現仙洞御所内の池の一部を「阿古瀬淵」という。「阿古瀬淵」(あこせ池)が京都新城に取り込まれたことは、信用できる同時代史料にみられる。

 「内裏ノ東、アコゼカ池ト云所、太閤御所御屋敷ニ御沙汰云々」(「義演准后日記」慶長2年(1597)4月26日条)。

 「太閤屋敷之ハコ瀬カ池ヲ御城之中ニメ、今日御縄張有之」(「小槻孝亮宿禰日記」)

 現仙洞御所庭園に、高台院三本木屋敷のそれがあるていど活かされていると思われる。つまり京都新城の遺構のある可能性がある。

 現仙洞御所では一切話題にならないが。

 藤岡通夫氏編『京都御所と仙洞御所』(日本の美術8、1974年)には、もと「高台院が住んでいた」とは記すが、京都新城についてはふれない(72ページ)。

 中川登史宏氏『京都御所・離宮の流れ―転変のものがたり』(京都書院、1997年)には、まったくふれるところがない。

 京都新城=高台院三本木屋敷について、本格的にふれた先駆的研究は、内藤昌氏・油浅耕三氏「豊臣家京都新城―武家地の建築」(日本建築学会大会報告梗概集、1972年10月)である。

 ここに少なくとも、寛永期仙洞御所が高台院三本木屋敷の影響を受けていると指摘がある。

 両著よりも以前の成果である。

 残念である。京都新城=高台院三本木屋敷はもっと注目すべきものである。

 後半の「京都学ことはじめ」も、たまたま北政所論だった。これは略す。

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