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2009.12.25

安政大獄犠牲者、鵜飼吉左衛門・幸吉父子の居所論

12/24(木)はれ

 早朝、また「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」。今年最後である。

 寺町通六角の誠心院(じょうしんいん)から南下する。今日のコースは、寅薬師(西光寺)→蛸薬師→錦天神→染殿地蔵→祇園御旅所。

 原文には「寅薬師。腹帯地蔵。泉式部旧跡。蛸薬師。円福寺(本尊、あみだ如来)。錦天神。染殿地蔵。四条道場(此所迄は小芝居等有。はん花の所なり)。祇園御旅所。誓文払社。」とある。

 ※刊本に「誓文仏社」とあるのは、誤読でしょう。

 途中、西光寺さんにはお世話になりました。突然の参拝にもかかわらず、こころよく中へあげてくださり寅薬師と腹帯地蔵におまいりさせていただきました。案内プリントもたくさん、ありがとうございました。

 錦天神は六条道場・歓喜光寺、染殿地蔵は四条道場・金蓮寺の一部だった。

 両寺院は、いずれもよそへ移ってしまって忘れられている。それぞれ山科区大宅、北区鷹峯に存在するが、現地でもほとんど認識されていない。おしい。そんな話をする。

 次回は、来年1月7日(木)再開です。集合場所は、新京極四条交差点の交番前です。時間はいつもどおり、午前9時~11時です。

 寺町を五条まで南下し、鴨川を渡って大仏(方広寺)にお参りします。

 終了後、有志と昼食・喫茶の懇親をし、午後の仕事に向かう。

 午後は京都新聞文化センターの講座「坂本龍馬以前の幕末京都」。今回は巡検。安政の大獄ゆかりの地をあるく。

 地下鉄烏丸線「丸太町」駅北改札に集合し、関白九条尚忠邸跡へ。いかに広いかお伝えする。そこから島田左近屋敷跡(堺町丸太町下ル西側)を遠望する。

 島田左近は九条家家臣で、関係者逮捕にかなりの尽力をした。そのうらみをかい、文久2年(1862)7月に斬殺されることは有名である。宅地跡に石碑などはない。

 いいわすれたが、今回は鵜飼吉左衛門(知信)・幸吉(知明)父子が主人公である。鵜飼吉左衛門は水戸屋敷の京都留守居役で、幸吉はその長男で留守居見習である。

 鵜飼父子は、水戸徳川家への孝明天皇の密勅(いわゆる戊午の密勅)降下の責任者として大老井伊直弼にもっとも憎まれた人物のふたりである。

 とくに幸吉には厳しかった。江戸で斬首の上、梟首(さらし首)である。武家に対するこの礼のなさ。しかも安政大獄での梟首は、鵜飼幸吉たった1人である。井伊直弼の怒りのほどがわかる。

 安政5年(1858)9月晦日付、京都町奉行所での鵜飼父子の供述書(吟味申口)をみなさんに配った(『大日本維新史料』類纂之部、井伊家史料15巻、26-40ページ)。その関連個所を現地各所で朗読している。

 九条邸跡につづいて、鷹司邸跡に行き、小林民部権大輔(良典)にふれて、北上。仙洞御所の北側に位置した、万里小路(までのこうじ)邸跡に立ち、三条邸跡を遠望した。

 万里小路正房は当時の武家伝奏で、同年8月8日、鵜飼吉左衛門を呼んで「戊午の密勅」を渡した(30ページ)。

 ちなみに勅降下は、水戸家臣、日下部伊三次が三条家に内願して実現した。

 「戊午の密勅」は、すぐさま江戸小石川屋敷の、水戸中納言徳川慶篤に運ばなければならない。が、吉左衛門は病気のため、幸吉が代わりに江戸へ走ることになる。

 幸吉の「留守居見習」では身分が高すぎる(身分相応の供をつれないといけないため、道中手間取り緊急に対処できない。雑費も多くかかる)。

 ゆえに大坂屋敷の「仕入方、小瀬伝左衛門」という身分・名前をかたり、即日出発した(17日に小石川着)

 日下部伊三次が鵜飼吉左衛門宅を訪れ、自身も同行したいと申し出たため、大津宿で幸吉と合流し、ともに下向したという。

 以上のような内容なので、つづいて水戸屋敷跡や鵜飼吉左衛門宅跡を訪ねるべきである。

 水戸屋敷跡は烏丸通の西、下長者町通と上長者町通の間らしい。つまり現KBS京都放送局敷地とガーデンパレスホテルがその大半をしめる。

 標石は烏丸通下長者町西入ル北側路傍に建っている(1968年・京都市建立)。

 が、天保2年(1831)の京絵図には、上長者町通の南ではあるが、下長者町通には達していない。すると標石の位置は、ずれていることになるのだが、どうなのだろう。

 とりあえずは、現KBS京都放送局敷地が、水戸屋敷跡にふくまれることは確実だろう。

 しかし鵜飼吉左衛門宅跡がわからない。田中雅夫氏『維新の京洛』などは、京都市上京区猪熊通上立売西入ル南側の徳円寺を「鵜飼父子宿坊」とする(人物往来社、1967年、34-35ページ)。

 が、水戸屋敷からあまりに遠い。中村武生の志士居所論によれば、長州・土佐・薩摩いずれも出身地の大名屋敷のそばに営まれている(拙著『京都の江戸時代をあるく』153-160ページ、文理閣)。

 もちろん例外はあるとは思う。が、同時代史料にまったく見いだせないので、見落としの可能性はあるとはいえ、何かの勘違いではないかと今は考えている。

 結論を先にいえば、徳円寺は鵜飼一族の墓所の地である。それが転じて、のちに「宿坊」と理解されるようになったのではないか(管見では、前掲『維新の京洛』が初出と思われる)。

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 徳円寺墓地には現在「鵜飼家先瑩地」の標石があり、その右側面に「明治辛亥冬改葬于東山徳川侯墓畔」と刻まれている。

 その南横には、現代の鵜飼家の方の墓標もあり、まだ新しいお花も供えてある(写真)。

 「明治辛亥」は1911年(明治44)である。

 「東山徳川侯墓」とは、洛東長楽寺裏山の徳川昭訓墓所のことで、たしかにそのそばに11基もの鵜飼一族の墓碑がある。

 そのうちの一部が徳円寺から運ばれたと思われる。

 

 住居跡ではないかもしれないが、鵜飼一族の墓所跡にはちがいないので、水戸屋敷跡から徳円寺にむかうことにした。

 途中、月照や西郷吉兵衛(西郷隆盛)ゆかりの近衛殿跡にたちより、そこから約20分で到着する。

 墓地で「鵜飼家先瑩地」の標石を確認し、一同満足。同じ墓所に戦国期の本願寺宗主、教如や下間氏の墓があり驚いた。教如墓はおそらく分骨だろうが、まったく知らなかった。

 終了後、担当Y田Mどり氏とお茶をしたのち、別件打ち合わせのため、京都新聞文化センターに入る。

 実は、来年4月16日(金)~17日(土)、「中村武生と訪ねよう!土佐・坂本龍馬ゆかりの地ツアー」(仮タイトル)が営まれる(主催:京都新聞旅行センター)。その打ち合わせ。詳しくはまた後日。

 終了後、奥さんと合流して両手いっぱいの買い物荷物をもち、木屋町三条上ル一筋目西入ルの有名店でケーキを買い、家路につく。

 今日はクリスマスイブだ。

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