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2009.12.26

洛東長楽寺の鵜飼一族を墓参した

12/25(金)はれ

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 早朝、「中村武生のくずし字入門」に出講。まだ幕末京都町人日記を読んでいる。今回は、嘉永五年(1852)閏2月条。

 これが今年の仕事おさめ。解放感たっぷり。NPO法人京都歴史地理同考会監事のKさん、理事のHさんと遅いモーニングを、ちかくの「Hば」でする。

 時間があったので、午後から洛東長楽寺に行く。

 そう昨日のつづき。猪熊通上立売の徳円寺にあったという、鵜飼吉左衛門・幸吉などの墳墓の確認がしたかった。

 昨年おまいりしたときの記憶なのだが、たしか裏面に銘があったはず。そこに詳細が記されているかもしれない。

 理事のHさんが同行された。

 長楽寺に行って気づいたのだが、今年は鵜飼父子ら殉難からちょうど150年だ。そうだそうだ、忘れていた。よい時におまいりができた。

 長楽寺には鵜飼氏の墓碑は現在11基存在する。すなわち、

①鵜飼幸吉知益(幸斎。吉左衛門の養父)※「幸吉」はどうやら家督者全員の通称らしい  

②知益の妻(吉左衛門の養母。保崎氏) 

③吉左衛門(知信。安政大獄犠牲者) 

④吉左衛門の妻上原氏 

⑤幸三郎(吉左衛門の次男)・秀之助(吉左衛門の4男) 

⑥知彰(不明) 

⑦亀蔵(吉左衛門の6男) 

⑧幸吉(幸吉知明の子。従六位勲五等) 

⑨幸吉の妻喜久子

⑩幸吉(吉左衛門の長男。安政大獄犠牲者。知明)

⑪蝶子(吉左衛門の長男幸吉知明の妻)

である。

   このうち、夭折した吉左衛門の6男亀蔵(1843-1852)の墓碑銘(写真)に興味深いことが記されている。

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 概要をのべると、天保14年(1843)11月22日、吉左衛門が水戸京都屋敷に勤めていたので、京都で生まれた。

 その後、吉左衛門が弘化1年(1844)に当主斉昭に連座して職をとかれ水戸に戻った。

 水戸滞在中の嘉永5年(1852)6月20日、亀蔵は病死した。そこで「城西祇園寺域内において葬った。」。吉左衛門は「先祖はみな京都に葬ったのに、この子独り水戸に葬ると」悲しんだ、と銘の撰者は記している。

 「城西祇園寺」は水戸の寺院である。

 城の北西に位置し、現存する。

 つまりこれを素直に解すると、嘉永5年(1852)6月以前、すなわち亀蔵以前に亡くなった鵜飼吉左衛門の家族はみな京都に葬られたことになる。

 それは長楽寺の墓碑銘11基12人のうち、2基・3人にあたる。

 吉左衛門の養父母(墓碑①と②)、吉左衛門の次男幸三郎・四男秀之助(墓碑⑤)だ。

 銘に年次の記載はないが、その撰者は、「茅根泰」つまり茅根伊予之介である。吉左衛門父子とともに安政大獄で死んでいる(父子と同日に)。

だから粉飾は入りにくい。事実を伝えていると思われる。

 吉左衛門の養父も、墓碑銘によると「京師の水戸侯別舘」(水戸京都屋敷)に仕めており、天保6年(1835)4月10日に77歳で亡くなった。

 あとの2基には、俗名や戒名、死亡年次ていどしか記さず、埋葬地や墓碑の旧位置に関する情報はない。

 残念だが、彼らの旧墓地が徳円寺である積極的なデータは手に入らなかった。

 ちなみに安政大獄犠牲者である③吉左衛門(知信)と⑩幸吉(知明)の墓碑銘は、ともに従四位を追贈された明治以後のものである。

 それぞれの墓碑に1919年(大正8)11月、水戸市の常磐墓地から移動したと刻まれているから、上京の徳円寺に存在したものではなかろう。

 なおなぜこんなことに関心をもつかというと、京都の大名屋敷に勤めた人間が在職中に亡くなると、いったいどこに埋葬されるのか、そこにどんな論理があるのか知りたいからである。

 薩摩の場合、錦小路屋敷で亡くなった人物は、東福寺即宗院に葬られた。

 同院の杉井住職さんの教示では、以前には3ケタに及ぶ薩摩武士の墓碑があったという(現在は整理されて2ケタに減っている)。

 ところがその他の大名家の京屋敷の死者がどこに葬られていたか、まったくといっていいほど分かっていない。

 長州では、寺町六角の誠心院に幕末期と思われる10名ていどの死者が眠っているようだが、それはあまりに少数すぎる。

 幕末以前はどこに葬られていたのか。わからない。

 でも長州は誠心院がわかるだけまだましだ。

 他家はまったく分からない。

 ゆえに水戸徳川家の鵜飼吉左衛門一族の墓地から、何か突破口はみつからないか、こだわったわけである。

 そうそう、もうひとつ。

 長楽寺の水戸墓地にも興味がひかれる。

 当地が水戸の幕末殉難志士の集合地になったのは、幕末ではない。明治以後である。

 さきほどふれたように、鵜飼一族は、幕末政争と直接関係ない人物さえ、京都だけではなく水戸から墓碑を意図的に運んでいる。

 ここには幕末京都で死んだ、当主水戸慶篤の弟昭訓の墳墓がある。そのため水戸聖跡ともいえるこの地に集めてきたのだ、というのは容易にわかる。

 が、京都の国事殉難者の墓地といえば、長楽寺の同じく洛東の霊明舎(もしくは霊山護国神社)がある。

 ちゃんと水戸招魂社も設置されている。

 長楽寺と霊山の墓地はどのように住みわけがなされたのか。明らかにされていない。

 薩摩は霊山に招魂社をもたない。だから東福寺即宗院やもうひとつ、相国寺林光院に殉難者墓地を営むのだ、といえる。

 でも水戸は霊山に招魂社をもっているのである。

 そういえば長州も。

 長州も霊山に招魂社をもっているのに、東福寺退耕庵に殉難者墓地を営んでいる。

 いや東福寺退耕庵は、鳥羽伏見戦争犠牲者のみを祭る。慶応3年(1867)12月以前の殉難者はやはり霊山のみだ。東福寺退耕庵ではない。

 つまりここに水戸の特殊性がある、と気づいた。

 実に興味深いわけだ。

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