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2009.09.28

伏見城下町と龍馬をかたる

9/27(日)はれ

 東京都渋谷区に本拠をおく、「田舎の学校」が「京都水巡り」で西上された。昨日は洛中を回られ、本日は伏見。

 案内を任されたのはカッパ研究会であるが、ちょっとしたことで、同会の鈴木康久さんに誘われて、僕も案内することになった。

 午前9時30分、月桂冠大倉記念館で伏見の都市の歴史をかんたんにレクチャー。そのあと、寺田屋跡でいつもの解説。

 午前11時、10石船に乗って濠川を行く。これが伏見城惣構の堀(城下町外堀)で、今年の大河ドラマの主人公上杉景勝や直江兼続が構築にかかわったことを、同時代の文書を読んで解説する。

 下船後は、伏見城下町唯一のカギ型の辻「四辻の四つあたり」の説明をする。すなわち江戸前期、伏見奉行所の門前町形成で、豊臣期以来の都市計画道路が破壊された結果だという拙説を紹介した(拙稿「豊臣期伏見城下町の空間構造」『政権都市』所収、2004年)。

 昼食は京町通の魚三楼。昼からビールまでいただいた。たまたま隣に座られていたT中さんが、元平凡社の社員さんと聞き、ついつい言わんでもいいのに、同社刊行の『兵庫県の地名』にかかわったことなどをお話して盛り上がった。

 夜は、西洞院塩小路に来月建設予定の新碑の銘文を考える。

 大河ドラマ「天地人」をみた。三成が「のどがかわいた。湯がほしい」といわなかった。残念でならなかった。三成の最期で、「柿は痰の毒だ」シーンのない大河は近年記憶にない。

 関ヶ原の戦後処理で、豊臣秀頼の領地を没収し、220万石から65万石にしたといっていたが、具体的にどこの領地が取られ、誰に宛がわれたのか教えてほしかった。そんな事実はない。家康による領地宛行(あてがい)は、秀頼がすべきことを代行していると考えられるから。

 家康が領地宛行(あてがい)状を発給していた。毛利輝元も「三十六万石」の宛行(あてがい)状を見て、怒っていた。でも関ヶ原の論功は口頭でなされ、宛行(あてがい)状は発給されなかったと笠谷和比古氏によって明らかにされている(『関ケ原合戦と大阪の陣』152~158ページ)。

 秀頼の領地を没収したことを怒る福島正則と小早川秀秋に、家康は「治部少(三成)を討ち果たしたのはこの家康」とたんかを切った。

 が、オープニングのナレーションでは関ケ原において徳川の主力は参加できず、ほとんど豊臣大名が働いたことを告げていた。「治部少(三成)を討ち果たしたのは、豊臣大名」じゃないか。矛盾している。

 しんどいドラマである。

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