皆川淇園弘道館址の位置がわかった
先日、京都市教育会が建てた「皆川淇園弘道館址」標石の位置について、正確でない可能性があると述べた(当ブログ2009年8月30日付)。
かんたんに振り返っておく。
位置は、上京区上長者町通室町西入北側(元土御門町)である。
ちなみに皆川の墓碑銘(上京区寺町今出川上ル阿弥陀寺)によると、弘道館は皆川の自宅の西隣地である。
だから標石の位置が正しいなら、上長者町通室町西入北側が自宅でもあるわけだ。
が、異説があった。
京都市教育会と少なからず縁のあった、碓井小三郎の著『京都坊目誌』(上京第十三学区之部)が、中立売通室町西入ルの三丁町だと述べていた(新修京都叢書18巻、404ページ)。
平凡社刊行の『京都市の地名』も『京都坊目誌』の説を踏襲している(590ページ)。
恥ずかしながら、「中立売通室町西入」の根拠を僕は知らなかった。
が、ひとつ知っているものがある。
皆川の孫にあたる皆川西園の居所である。
江戸後期の弘化4年(1847)刊行の、画家や学者などの名簿「京都書画人名録」に、皆川西園の居所を「中立売室町西」と記すのである(『新撰京都叢書』9巻376ページ)。
いうまでもない『京都坊目誌』の述べる場所と同じである。
孫の皆川西園の居所を、そのまま祖父淇園の居所と判断したのか、明確な根拠をもっていたのか。それがわからなかった。
昨日、NPO法人京都歴史地理同考会監事の郡邦辰さんから、「平安人物志」に皆川淇園自身の居所の記載があると教えていただいた。
「平安人物志」が皆川と同時代の紳士録だったことを完全に忘れていた。恥ずかしいことだ。
「平安人物志」には複数の版本がある。
その明和5年(1768)刊行分に記載があった。
「皆川愿 字伯恭 号淇園 中立売室町西へ入町 皆川文蔵」
(森銑三・中島理寿編『近世人名録集成』1巻、、勉誠社、1976年、3頁)
「中立売室町西へ入町」とあるのである。
そう、建碑の地と異なる。
「坊目誌」の記載通りであったのだ。
孫の居所は祖父以来の地ということだった。
答えがわかってほっとしたし、僕の推定もあながちまちがっていなかったことに安心もした。
が、それにしても、またも京都市教育会の建碑地が不正確であることが明らかになった。
後世への影響を考えた時、あきれる思いである。
もちろん自らも建碑を実践している者として、他人ごとではない。
襟を正すおもいである。
| 固定リンク

