豊臣期大名屋敷・公家屋敷跡をあるいた
9/16(水)はれ
大学の秋学期が始まった。ひさしぶりの京都女子大学に出講。ほとんどが前期の春学期受講者だった。人数がかなり減っているので、後期は巡検が可能である。それはありがたいこと。
本日はオリエンテーションで、次回から本旨に入るつもり。
午後からは、よみうり京都文化センターの巡検。今回は今期の最終回。豊臣期の大名屋敷・公家屋敷跡をあるく。
烏丸丸太町から山内一豊妻(見性院)邸跡、京都新城こと北政所ねい(ねねではない)邸跡へ。いかに近いか体感。
そこから関ケ原合戦直後の北政所ねいの気分で、勧修寺邸跡へむかう。本当は裸足で行くべきなのだが、さすがにそれは無理だった。
ねいは戦争目前に城郭を破壊し、戦争の2日後には「カチハダシノ躰」で後陽成天皇の生母勧修寺晴子邸へ逃げ込んだ(『言経卿記』10巻、219ページ)。
城郭にいると籠城とみなされて身が危ない。そのための武装解除で、後陽成天皇の生母勧修寺晴子のいる場所に避難したと思われる。
ねいが徳川家康の味方だと鮮明にしていなかった証拠である。豊臣子飼い大名に家康の味方をせよといったというのは、何の根拠もないウソばなしであろう。
勧修寺邸跡から中立売門に出て、ここからは聚楽城の大名屋敷跡をあるく。
たまたま先週金曜の夕刊の『朝日新聞』に報じられた、上越市立総合博物館発表の「聚楽城行幸図」と、尼崎本「洛中洛外図」があったので、それらを片手に堀川通まで。
第3の上杉景勝邸跡(おそらく小川通中立売西南角)の前に建ち、石碑がないことをなげく。
終了後、有志と懇親会(実は参加者全員だったのだが)。お仕事の都合で、次回講座におこしになれない方もおられ、別れを惜しんだ。
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